背をやさしく慰撫するおおきな手と、抱き締められた胸のあたたかさは、少年に対する哀れみにただ満ちていた。たったそれだけのことが、心の底に燻る熾火を生きた炎へと吹き上げる。とっさに両腕で逃さないように捉まえた師の耳元へアレンは恨みに篭った息を吐いた。
「...どうして、もっとはやくにおしえてくれなかったんです、」
勢いのままに、アレンはマリアンの襟元を力の限り掴んで詰め寄った。
「マナの
「...アレン」
「知ってたんでしょう? 師匠は! じゃなきゃあんな忠告なんてしない!」
マリアンは抵抗らしいものを見せず、そのまま ごとり と床に背から落ちた。師の上に掴みかかった弟子は、ひたすらに侮蔑のことばをわめき散らした。憎悪に染まった灰銀色を冷静に見上げながらマリアンは沈黙を保っている。
「マナ...っ、マナがいちばんなんだ...! 完璧なんだ! 他の奴なんて、あんなのなんてぜんぶにせものだ!! マナだけでいい...のにッ」
ふいに、ロードの演奏が鮮やかに脳裏に蘇ると、アレンの肌を恐怖が蹂躙した。少年のシナプスは、聴覚と視覚とをスクランブルさせ、ひどく甘ったるく媚びるような味を舌の上にじわり広げた。数年ぶりに体感する
+++
従業員が忙しなく動き回る開店準備前のフロアに紛れ込んで、アレンは邪魔にならないようにカウンターの端っこへ無言で腰掛けた。
「あらやだ、しばらく見ない間にブサイクになっちゃって」と女のように大げさに鼻に掛かった声で云って、ジェリーは豪快に笑った。そうして、ぶすりとむくれたままの頬にタオル越しに氷嚢を当て冷やしてやった。少年が切れた口の端と腫れた頬に喋りづらそうに口を開こうとするところへ、「そのブサイク治さないと店に出してやんないしイコールここにしばらく置いてもやらないわヨ」さっと牽制の言葉をぶつける。
少年はもの云いたげな視線をジェリーに向けたものの、押し黙ったまま氷嚢を受け取った。楽屋でマリアンと殴り合いの喧嘩をして劇場を飛び出したアレンが駆け込んだ先が、ジェリーの経営するパブだった。楽器職人の師弟が些細なことで諍いを起こすたびに、彼の店は避難所になる。このパブの店員は人種も容姿も様々だった。きびきびと動き回る彼らをぼんやりと目で追いながら、アレンはテーブルに頭を乗せた。熱を帯びて腫れた頬に染み入る冷たさが心地良い。忙しさを理由にしてか、誰も過剰な心配を押し付けてこないのが楽だった。ゆっくりと呼吸することを意識すれば、吐く息と共に尖った気持ちは和らいでいく。開店時間までにクールダウンしなければ、ジェリーは宣言通りにアレンを追い出すだろう。ビニールに入れられた氷がすべて溶けきって水が温くなるまで、アレンはそこに座っていた。
土曜の夜、ジェリーのパブはヒヤシンスで飾られる。それは入り口に置かれた鉢植えの花たちのことでもあり、また一方で隠された意味も持っていた。マスターであるジェリーの性向から自然とできた空間だった。客たちはそれぞれ屈託のないようすで限られた夜を楽しんでいる。注文のカクテルを作ったり、テーブルへジェリーの手料理を運んだりするアレンを、傍にいる男たちがからかい声を掛ける。ほとんどが顔馴染みの客たちで、つまりはそのぶん遠慮がなかった。幼さの残る少年の頬がわずかに腫れていることも、唇の端が切れていることの理由も察した上で誘ってくる者もいる。その手合いにすっかり慣れているアレンは、西風をかわすごとくすいすいと逃れてゆく。本気でない相手との駆け引きは気楽だった。空いたグラスをトレイに乗せてカウンターへ戻りながら、アレンは店の奥のステージに何気なく目をやった。ジャズ・バンドの面々が演奏の準備をしている。照明はぼんやりとした上に、遠目なのではっきりとはしないが、初めて見るメンバーばかりのようだった。どんな曲を披露してくれるのかとアレンが少し楽しみに待っていると、メンバーのひとりである金髪の男がゆっくりと振り向いた。手には黒いクラリネットを持っている__男の几帳面さを表わしたかのように、まっすぐに整えられた前髪がライトの光を弾いた。
アレンが驚きに目を瞠ったのと、男がアレンを見つけたのはほぼ同時だった。まさかの再会__呆然とした状態から抜け出したのは金髪の男が先だった。仲間から声を掛けられ、リードに唇を添える。アレンはじっとそのしぐさを見守った。ふいに、背後から「いま売り出し中のバンドよ。レイヴンっていうの」カウンター越しにジェリーが云って寄越した。「今晩はうちでの初ライヴ。なかなかでしょ」
ライトに照らされて、メンバーより頭ひとつもふたつもちいさい小柄な少女がマイクスタンドを前にやわらかなソプラノを奏でる。ふわふわと背に広がる蜜色の髪は愛らしく、少女の歌声も金色に輝いて聴こえた。レイヴンというよりカナリアだ、とアレンは思った。ジェリーが云うように、演奏はなかなかの出来だ。客たちの中にもちらほら注目している者もいた。いずれチャンスを掴めば、プロデビューもできるだろう。あるいはもうすでにスカウトは来ているのかもしれない。
アレンはしばらくステージに釘付けになっていた。クラリネットのキィを巧みに押さえる指が、あまいお菓子を作ることが得意だったことをぼんやり思い出す。そうだ、いつかアレンが自暴自棄になって路上で引っ掛けた相手にしては、彼はとても紳士的でストイックだったのだ。だからふしぎと安心して甘えられた。代価を求められることもなく、別れ際すらあっさりとしていた。舞台の上でライトを浴びるその男が、ふいに自分を見た気がしてアレンはたじろいだ。急激にどこかへ隠れたい気持ちが沸き起こり、アレンは金の声で鳴く鴉たちの演奏に背を向けた。
「アレン・ウォーカー?」そう声を掛けられて、アレンはとっさに返事ができなかった。銀のトレイをぎゅっと握り締める。恐る恐るといった態で首を回した。「...リンク、」
「たいした偶然だ。驚きました。お久しぶりです、」「...ひさしぶり」
少し座って話しませんか、とリンクは屈託ないようすで申し出た。ちらりとアレンがジェリーに目配せすると、彼はちいさく頷いた。「じゃあ、こっち、」カウンターの一番奥の端へリンクを促し、アレンは店長の好意で手渡されたエールを男の前へ置いてやる。
「マスターのおごりだって、どうぞ」
「君はここで働いていたんですか?」
「そういうわけじゃないけど、今日は、たまたま、」リンクはそうか、とだけ呟いてグラスを傾けた。アレンはその横顔を見つめ、どうして彼が声を掛けてきたのかを考えた。
「...私と逢ってマズイと思っている?」「え?」喉を潤したリンクが、グラスを置いて身体を傾けた。アレンを正面から見据え、彼は呟いた。「どうやら君とは、やっかいな事情の時に遭遇するらしい」
「べつに、」まっすぐな碧眼から顔を逸らす。腫れぼったい頬と、切れた唇の端が隠れるように。ほぼ無意識の動きだった。「...こんなの、よくあることだよ」
リンクがたちまち渋面になるのはありありとした気配で知れた。「ウォーカー、」そうだこの人は容姿の通りに真面目だった__どうしてこんな自分の相手をしてくれていたのか不思議に思うくらいに。「さいごに君に云ったはずです。誠実さを忘れるなと。そうすれば相手も真摯に君に接してくれる」
思わず苦笑が零れた。アレンの唇が歪む。まさか今晩、こんな場所で耳にする言葉とは思えなかった。「リンクってほんと、説教臭いの変わんないね」
「失敬な、」
「...クラリネットやってたなんて、知らなかった。素敵でした」
「話を逸らすんじゃありません。転向したんですよ、クラシックからね。君がいなくなった後で」
「え?」
「...あのとき悩んでいたんです、私も。君のおかげで吹っ切れた。」
「...ぼくもあれだけ一緒にいてなんにもしなかった相手はリンクだけだよ。ふつうに慰められて立ち直れるんだなんて初めて知りました」
「君はほんとう、まだ子どものくせにどういう生活を送ってきたんだ...」アレンを軽蔑するのではなく、まるで親しい者のどうしようもない癖にうんざりした、という調子でリンクが唸った。それがなんだかおかしくてアレンはちいさく声を立てて笑う。「話したことあるでしょ、リンク。保護者が奔放すぎるからだよ」
「大人のせいばかりにするんじゃないとも云ったでしょう、あまりすれた物言いもよしなさいとも。ほとほと呆れるな...で、これはどうしたんです?」丸みを帯びた白い頬にリンクの腕がすっと伸びた。「またくだらないトラブル?」
「まあ、そんなとこ...」
「まったく、君の方こそちっとも変わっていないな、ウォーカー。きちんと話しなさい、なにが...」軽くアレンの顎を掬い、唇が切れているのを確認して目を細めたリンクが、ふいに言葉を切ってすばやく顔を横に向けた。遅れてアレンもその
すらっとした青年が、そこに立っていた。このひとが
青年は、アレンが見たこともないくらいに無表情でふたりを見ていた。どこか異様な空気を感じたのか周りはざわつき、一歩引いて見守るかたちだった。
「...ティ、キ」アレンが困惑して固まっている傍で、リンクはひとり冷静に二人を見比べていた。自分を射殺さんばかりに睨みつけている男と、心ここにあらずの態の少年を。アレンはリンクとの会話のようすを男がどんなふうに捉えたか、思慮するに至っていない。面倒なことだと彼は深く溜息を吐いた。だが何も発せず、動かず、流れに任せた。ここで変に口を挟んだり手を出したりすると、とてつもなく痛い目に遭いそうだと云う予感があった。
尖って張り詰めた空気のまま男が口を開く。「少年、」紫電の眼がリンクを一瞬舐めていった。「迎えに来た。嫌だっつても連れ、て...、!?」
ティキが云い終える前に、その身体に飛びつくようにして腕を引いたのはアレンだった。少年の意外なほどの怪力に長身の男がずるずると引き摺られていくさまはなんだか滑稽に映るが、嘲笑するものはひとりとていなかった。店の出入り口の扉は勢いよく音を立てて開けられ、閉じてそれっきりになった。
他の客たちが唖然とする中で、リンクだけが心底呆れたように首を左右に振り、飲みかけのグラスに口を付けた。
「すっごいイイ男だったわね、」カウンター越しに声を掛けたジェリーを一瞥するとリンクは興味なさそうに視線を逸らした。「追い掛けなくていいの、アレンちゃん」
「私は男に興味はありません」リンクは温くなりつつあるエールを傾け飲み干すと、「...貴方も彼をこんなところで雇うべきじゃない」コインを空にしたグラスの横に置いた。
クロスのところにいるのと対して変わらないわよ、とジェリーは含み笑う。リンクは無言のまま店の扉を見つめ、やがてゆっくりと席から立ち上がった。