弟子使徒の旋律・二
ヴィチェンデーヴォレ
 最初の一音、それ、、はまるで銃弾だった。両の鼓膜を突き破って脳を脅かす。
 アレンのなかにひっそりと横たわる、亡き養父への思慕や空虚な想いが頭をもたげ心臓を叩く。速度を増す鼓動と共に全身に波及したその感情は、指先を震わせ悪寒と冷汗で脳をさらに揺さぶった。足元は暗闇へと落ちていくようだ。カラカラに乾いた喉の奥から搾り出した叫びは、彼のせめてもの抵抗だった。眼下のピアニストと目が合う__思い出のひととは似ても似つかない可憐な少女は、たしかにアレンを見て口角を吊り上げた。瞬間、云い知れぬ衝動が脊髄を貫く。
 二階席からステージ前へ ふわり と小柄な身体が落ちる。猫のようにしなやかに着地したアレンは、力強く床を蹴った。已然として楽園を描き出すピアノの音/鮮やかに蘇る彼の人のヴァイオリンの色、まったく異なるふたつの音色がアレンに魅せる光景はおなじなのに、いま目の前の演奏はどうしても不快だった。
 やめろ、そう叫んだと思うのに、自分の声はしなかった。ふいに、視界が狭まるのをアレンは感じた。耳は水で塞がれたようにぼんやりとしか聞こえない。聴覚が不自由になったことで、目にしていた景色は靄の向こうへと薄れ消えていく。肩がなにかにぶつかった__手のひらで触れたそれは凍りつくような冷たさをしていた。ずっと昔に触れたことのある死の温度だ。
 ああ、マナ――
 苦しくてしかたがない。どうしてなのかわからない。
「アレン?!」 「アレンくんっ?」


 ステージの縁へ手を掛ける寸前でよろめいた少年を支えたのは、リナリーもラビも知らない大人だった。仕立ての良いスーツを着た男は、わずかにもがいたアレンの背をしっかりとその胸に抱き止めた。
「...ゆっくりだ、ゆっくり息しろよ」 蒼褪めた唇を手のひらで覆いながら男が云った。濃い色をした肌に、いくつか涙が滴る。意識が混濁しているらしいアレンがその手首に爪を立てるものの、眉ひとつ動かさずに男は抱いたアレンの背後から耳元へとこどもをあやすように囁き続ける。 「落ち着けよ、だいじょうぶだ、少年」
 荒々しい呼吸音はゆっくりと穏やかになっていった。けれどアレンの顔色はまるで石膏のようで、閉ざされた瞼の下から眼球の色が透けそうなほど白い。いきなり階下へ飛び降りたアレンに驚いて階段を下って来たラビや、舞台の上から通路に降り立ったリナリーが近づく合間に、男は自分の上着を脱ぐとアレンを包んで両腕に抱えた。
「どっか休めるところあるか?」
「あ...ああ楽屋なら、」
 案内してくれ__そう云った男と目が合った瞬間、ラビは理解した。こいつだ。アレンがいま惚れ込んでいるのは。どうしたってヘテロな男、、、、、にしか見えない__あいかわらず生きるのがヘタクソなやつだと、ラビはぐったりとして動かないアレンのそばでひっそり溜息を零すしかなかった。


 「過呼吸だろうねぇ」 と間延びした声でコムイは告げた。ふだんは自宅の部屋に篭りきりで研究に没頭しているリー家の当主は、最愛の妹に引き立てられてアレンを診た。医学の心得が多少なりともあるコムイは、聞かされたアレンのようすからそう判断を呟いた。
「ほんとうに、救急車呼んだり、病院とか行かなくてだいじょうぶなの兄さん?」
「こっちのハンサムさんがきちんと対処してくれたみたいだから、だいじょうぶさ。クロスさんにも連絡したんだろう?」 不安そうに見上げてくるリナリーの頭をコムイが撫でる。「横になったまま休んでいればそのうち気がつくよ、」
「兄さん、それってどうして? アレンくんすごく様子が...変わってて。あんなのわたしはじめて見たわ、」
「彼のことは彼にしかわからないけど...まあ、なにかよっぽど緊張することかなにか、あったとしか推測できないよ」 眼鏡の細いフレームを指で押し上げながらコムイは云った。彼は妹が躊躇いがちにロードをちらりと見たのを見逃さず、ふむ と鼻から息を抜いた。
「ミズ=キャメロット、せっかく当劇場までお越しいただいたのにお騒がせして申し訳ありませんでした。また後日日を改めて打ち合わせいたしましょう」
 楽屋の扉近くに佇んでいた少女は、にこりと首を傾げた。 「ボクは気にしてないよぉ、ミスタ。...それよりアレンが目を覚ますまで居てもいいかな?」 その言葉に傍にいた男が驚いた目で少女を見た。 「ロード?」
「ティッキーだって、心配でしょお? ねぇリナリー、ボクの演奏中にアレンが云ったこと、聞こえた? 面白いよねぇ、アレンって。ボクだってちゃんとお話してみたいんだよ...じゃなきゃ、ボクのピアノがどう違う、、、、のかわからないもの」
「ロード、」 と語気を強めてティキが呼ぶ。「いまじゃなくてもいいだろう、もうすぐ、」「クロス=マリアンだって来る。噂ばっかりで見たことないから逢ってみたいなぁ!」
 しっ、とコムイが人差し指を立ててロードを諌めた。 「騒がしくするなら部屋を出ていてもらおうか。一応、病人が寝ているからね」
 とたんに頬を膨らませ不満を露わにした少女の腕を男が乱暴に掴んだ。 「わがまま云うな。今日は帰るぞ、」「ティッキーまで!」
 コムイがすたすたと扉に近づきノブを回した。するとティキは持ち上げるようにしてロードを部屋の外へ連れ出す。大人たちの見事なコンビネーションにより楽屋は再び静かになった。ドア越しに少女の甲高い声だけが漏れ聞こえる。アレンとふたりきりになったリナリーは、ソファに横たえられた少年のようすをそっと伺った。「あ、」
 アレンはぼんやりと天井を見つめていた。 「アレンくん...?」 呼びかけるがはっきりとした返事はなく、持ち上げられた手のひらに顔が隠されるわずかの間に、リナリーは泣き出しそうに歪められたアレンの表情を見た。
 そんなふうにされたら、なにも云えなくなってしまう__少女は自身の胸を軽く押さえた。ふと扉の向こう側が静かになっていることに気付く/がちゃりとノブが回り__タイミング良く楽器職人が姿を現した。アレンに関していちばん頼りになる大人は彼以外に考えられない。リナリーがかいつまんで経緯を告げると、マリアンは静かに「アレンと話をさせてくれ、」 云った。
 楽屋前の廊下にはもうだれも居なかった。リナリーはしばし扉に背を持たれかけさせた。しばらくしてか細い啜り泣きが聞こえると、彼女はようやくその場から離れて舞台へと戻って行った。

 


...たまにはティキに大人な対応を、させ...
 きづいたけどうちのアレンくんてよく泣くわ...反省した。
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