「そう、よく知ってるな、少年」
「これでも一応、
そうだったな、と男は口元で笑う。その指は新たに弦を押さえ、振るわせ始めた。
工房に隣接する、アレンが師匠であるクロスと共に暮らしている家に勝手に上がりこんで男は曲を奏でる。いつものことだと、アレンは軽く嘆息した。
「師匠、ちょうどいま休憩してますよ。直談判しに行かなくてもいいんですか?」
「あー...これが俺の直談判。」 クツクツと喉を震わせながら男は云った。アレンは2,3度瞬いたあと、「チェロを弾くことが?」 訊いた。
「そうだよ、」
「どうして、」
「あのオヤジ、直接依頼に来た俺になんて云ったと思う? “お前に俺の女を可愛がることなんざ100年早えーんだよ、若造”」
「......」
アレンは軽く幻暈を覚えてこめかみを押さえた。まったくもってクロスらしい拒絶の言葉だが、どうしてこうも依頼人___おおくは音楽家たちだが___に失礼な物言いしかできないのだろう。仕事が無くなったらどうするつもりなんだとアレンは思うのだが、クロスに舞い込んでくる依頼は不思議なことに多い。確かな腕と、安定し た評判があるからだ。どんな楽器でも依頼人にいちばん相応しい音色をもつものを造り出す、クロス・マリアンの。
「それで毎日毎日、勝手に人ん家で弾いてるんですか。仕事中も聴こえてきますよ」
「聴かせてるんだよ、病みつきになりそうだろ?」
「悪夢を見そうです、」 アレンはクロスのための珈琲を淹れながら答えた。「同じ曲ばかり弾くから」
「ついでに練習してんだよ、コンサートが近いのさ、」
「...それ、意味無いんじゃあ」
「どうして?」
どうしてって...アレンは口篭った後、「だって最高の演奏を師匠に聴かせて首を縦に振らせたいんでしょう?」
まあそれもいいんだけど、と男は呟きながら、しばらく無言で弓を動かした。アレンはしばらくじっと彼の音に耳を傾けていたが、珈琲が冷めないうちにクロスの元へ戻らないと自分の身が危うくなると慌ててトレイを持ち上げた。
背を向けて居間を出るときに、男はふいに云った。
「俺が真面目に音楽やってるってことを証明してんだよ、少年」
アレンは肩越しに男を振り返った。金の瞳はじっとチェロに注がれている。彼は毎日やってきてはチェロを弾いて帰っていく。最初の頃 こそ邪険に扱っていたクロスも、最近は何も云わなくなってきていることを、アレンは知っている。それでもクロス自身の口から、彼に関する言葉を聞いたことはまだない。少しの逡巡のあと、アレンは閉めようとしていた扉をそのままにしておくことにした。
「...夕飯、良ければ食べていってもいいですよ、ティキ」
アレンは驚いた表情で顔を上げた男に笑いかけて、工房へと足早に戻って行った。