Hush, baby, my dolly,








 霧雨の降る肌寒い天気だった。
 任務完了をリンクが無線で本部へ報告するのを横目に、アレンは石畳を靴で擦り、短い吐息を持って空を見上げた。無数の細かな水滴は、ふわりと撫でるようにして顔を濡らす。今回の任務は奇怪調査だった__結果は惜しくもハズレ。このまま教団本部へ帰還をするか、続けて別の任務地に飛ぶかを、リンクが確認していた。
 了解した、はきはきとした声がそう答え、無線は切られた。
「ウォーカー、このまま次の調査へ向かう」
「はい。で、今晩はどうするんです?」
「どこか適当に宿を取れと。明日朝一番の汽車で出発だ」
「僕、熱いシャワー浴びて、おいしいご飯がお腹いっぱい食べたいです、リンク」
 通りを行き交う人の影はまばらだった。冷たい雨のせいだ。街は小さすぎず、さして大きくもない、ありふれた地方都市だった。宿屋も食事処もそこそこ揃っている。アレンの要求はしごくまともで、リンクは同意するようゆっくりと顎を引いた。互いに連れ立って、街の中心をつらぬく大通りを歩く。意外にも宿泊する客は多いらしく、最初の2、3軒では空き部屋はございませんと断られた。仕方なくそのまま雨の中を移動して宿を探す。ふと、アレンはとあることを思い出した。ずいぶん長く忘れていたような気がする__手順を忘れてはいやしないだろうかと少し不安になりながらも、アレンはきょろきょろと目的のものを探した。
 ようすがおかしいと気づいたらしいリンクが、怪訝な顔で足を止め振り返った。アレンは何も説明せず、通りに店を出しているその軒先に掲げられた看板をひとつひとつ見上げては目を凝らした。やがて、時計屋の前で「あった」と嬉しそうにちいさく跳んだ。
「ウォーカー、何をやっているんです。勝手な行動は慎みたまえ」
「いいから、リンク来て。ほら早く、」ドアベルが鳴る__アレンは時計が並ぶ店内に入り、リンクは仕方なくその背を追った。
 音を聴きつけて、奥から店主らしき老人が顔を出す。アレンはにこりと笑んで、「3人の僧侶がこちらにおいでではないですか?」と云った。
「さて...娘御ならば来たやもしれませんな、」口調はとぼけるものだったが、老主人の目の奥にはきらりと光るものがあった。「エジプトからおいでの方ですか?」
「はい、銀の鈴に導かれて」
「なるほど...では金の笛の音をお聞きになりたい?」
 少年は神妙に頷いてみせた。老人はそこで初めて破顔すると、少しばかりお待ちくださいと云って再び店の奥へと姿を消した。アレンはほっとした様子で胸を撫で下ろしたが、静観していた監査官はそれを許さないとばかりに腕を掴んだ。
「ウォーカー。今のはなんの符丁ですか?説明を...」
「そんなに怒らないでよ、リンク。大丈夫です、うまく行けば今晩の宿が...」
「クロス元帥か?これは彼の入れ知恵か?」
「違います」強くアレンは否定した。「師匠はなにも関係ありません。これは僕の...」ふたりの声に目を覚ましたのか、アレンのフードに入って寝ていたティムキャンピーがもぞもぞと動いた。そうこうしているうちに店主が戻り、お待たせしましたと云ってアレンに頭を下げた。
「運が良い。ちょうどザラストロ様がおいでなのですよ」老主人はすでに外套を着込んで手にランタンを持ち、火を点けながら云った。「お連れの方もご一緒に。さあ、ウォーカー様、ご案内致しましょう」

 時計屋の主人に連れられ、アレンとリンクは一件の家へと辿り着いた。監査官が厳しい視線で自分を見つめるのを、アレンは痛いほど背中に感じた。最初に出逢ったとき、書庫に一日以上押し込められてさんざん聴取したあげくに、アレンがまだ秘密を抱えていた事に腹を立てているのだろう。たしかに誰にも云った事はないが、言い訳させてもらえば、アレン自身もつい先程まですっかり忘れていたのだ。ひとりで任務に出た時も、毎回ではないが同じことを幾度かした。こことは違う街で教えられた通りに看板に刻まれた秘密の印を見つけ、店の主と決められた通りの会話をする。すると、過去アレンに約束された通り、質の良い歓待が受けられた。そうしてそのうちの何回かは、アレンとこの秘密の約束をした本人と出逢うことができた。今回も折り良く再会が果たせそうだとわかって、アレンは浮き立つ気持ちを押さえられずにいた。後からリンクには執拗に追求を受けるだろうが、構うものか。
 老主人は呼び鈴を鳴らし、使用人を呼び出すとふたりに頭を下げて来た道を戻っていった。愛想の良い中年の女性が、扉を開いて家に客を招き入れる。先導されるままに奥へと進むと、暖炉で薪の爆ぜる音がした。リビングはこじんまりとした造りではあったが、揃えられているすべて品が良い。女性がコートを受け取るべく手を差し出した。雨を吸い、冷たく重いそれらを脱ぐと、部屋の暖かさに安心できた。ティムキャンピーはふわりふわりと暖炉に向かって飛び、アレンが一人掛けのソファにふかぶかと背を沈めている主人らしき男性へ近寄っていくのを、リンクは黙って見ていた。
「お久しぶりです、ミスター。お逢いできてよかった。またお世話になります」折り目正しくアレンが挨拶する。男性はちょっと目を細めて前に立った少年を見た。「お久しぶり、ウォーカー君。元気そうでなによりです」
 男が手を差し出した__アレンは嬉しそうに右手をそれに添えた。リンクはふたりから視線を外さない。ふいに、なにか心得たとばかりに頷くと彼は静かにアレンの傍に寄った。型通りの挨拶を交わす。男はライフェルマンと名乗った。ミロット・ヒューレン・ライフェルマン。その名にすぐ思い当たるところがないことをリンクは確認し、本部に戻ってから調査できるようにしっかりと記憶に刻んだ。ウォーカーと男のやり取りを見るに、過去に幾度か同じように接触していたのは明白だった。
「宿がなかなか見つからなくて、...その時ミスターのことをふと思いついたんです」
「この雨です。それは大変お困りだったでしょう。見たところお二人とも寒そうにしていらっしゃる。先に湯をお使いなさい。その間に食事も用意させましょう」鷹揚に男は微笑み、手を叩いて呼びつけたメイドに用を云いつけるとふたりを客間へ案内させた。

熱い湯に浸かり、身体が温まると空腹がさらにつよくなった。用意されていた服に着替え、暖炉の前に座り込んで髪を拭いていると、アレンの腹の虫はひどく大きな音を立てた。くつくつと男に笑われて、アレンは恥ずかしそうにはにかんだ。こちらへいらっしゃい、と手招きされて大人しく従うと、ミロット氏は息子にそうするのと同じようにアレンの髪を乾かすのを手伝った。リンクはアレンと入れ違いにバスルームだ。束の間外れた監視の目にほっとしながらも、アレンは男と二人きりになれない事を惜しんだ。男はマナに似ていた。その顔立ちも、やさしさも、すべてがマナに似通っていた。おそらく金のある上流階級の人間であるということ以外は。髪を拭いてくれたお礼に、アレンは彼の少し歪んでいたタイを直してあげた。
 リンクが戻ると、やがて夕食になった。テーブルの上に並べられたものはどれもアレンの好物だった。男が覚えてくれていたことにこの上なく喜びを感じながら、アレンはよく喋った。それは、家に帰って来た子どもが親に自分が体験したあれこれを自慢げに語ってみせるのに似ていた。監査官はそんなアレンのようすにちらと不愉快さを示し、その後は話しかけられる以外は沈黙を貫いていた。
 ミロット氏はアレンが話す事に、大変よろしいだとか、それは素晴らしいとか、残念だったねというようなことを返事した。彼がアレンに質問することは少なく、おそらく聞き役に回る事が得手な性格だと知れた。リンクはアレンが喋るままに任せた。少年は黒の教団のことは一言も口にしようとしなかったからだ。教団員のことも、友人だとか、先生だとか、任務のこともまるで学校や旅行でも行って来たかのように話す。そうしてアレンはひどく機嫌が良かった__年相応にはしゃいでいた。ただの子どものようになってしまったアレンに、リンクは触れがたかったのだ。そんなアレン・ウォーカーは、今まで監視している中でも見た事がなかった。

 食後のお茶も杯を重ね、夜も更けて来た頃、リンクはそろそろ辞したいということを口にした。ミロット氏は暖炉の上の置き時計に目をやると、随分遅い時間まで話し込んでいたようだね、とリンクの意見を支持した。
「大変なご配慮を頂き、ありがとうございます。我々は朝も早いので、残念ですがこれで...」
「り、リンク、もう少しいいでしょう、ね?」アレンだけが未練のある表情でそう云った。リンクが厳しい顔で首を横に振ると、たちまちしょげたようすを見せた。
「寝坊してはご友人を困らせてしまう。おやすみなさい、ウォーカー君」
「おやすみなさい、ミスター」男にそう促されては引くしかないと大人しく諦めたらしいアレンが、しぶしぶといった調子で氏の頬にキスをした。その光景さえ見れば、まるでほんものの親子のようだった。

「これはどういうことだ、ウォーカー」客室に下がり、ふたりきりになった途端に、リンクが厳しい詰問の声でにじり寄った。
「昔、教団に入る前、インドで修行してたのは話したでしょう。イギリスまで辿り着く間に、行き倒れちゃったことがあって。その時助けてくれたのが、あの人です」
「この街で?」
「ええ、そうですよ」事実と違う事を、アレンは答えた。説明をしたって納得してくれるわけがないと思ったからだ。
「何者だ、彼は。」
「詳しくは知りません。僕の恩人ですよ?!一夜の宿と、食事まで出してくれるんです、有り難く思いこそすれ、疑うのは失礼じゃありませんか?それとも、それが君の礼儀?」
「べつに、感謝をしないと云っているわけじゃない。落ち着きなさい、ウォーカー」腑に落ちないのは、男の素性をろくに知りもしないくせに、アレンが懐き過ぎていることだ。リンクは深々と嘆息した。「君は、今まで何度も、あの男とこうして逢っていたわけですか」
「教団を裏切るような真似はしてないつもりです。...両手で足りる程度ですよ」
「君は...」父親のように慕っているのだろうか。さほど知りもしない、数回しかあったことのない男のことを。そのことの異常さと危うさを、リンクは少年に指摘しようとして、結局諦めた。「...もういい、よしましょう。明日は早いんだ、」
 アレンは不服そうに立っていたが、やがてリンクに倣って服を着替え、ベッドに潜り込んだ。ティムキャンピーが慌てたようにアレンの傍に飛んでいき、布団の下に入ったのを見届けると、リンクはランプの火を吹き消した。

 アレンはなかなか寝付けずにいた。
 そろそろと寝返りを打ち、隣のベッドに眠る人物を伺う。リンクは寝ているように見えた。ゆっくりと起き上がり、スリッパを履いて部屋を出た。咎められたらトイレに行っていたと言い訳するつもりでいた。階段を忍び足で降りる。廊下は少し寒かった。ガウンの下でアレンは肩を縮めた__ふと、リビングの暖炉にまだ火が入っているのに気がついた。細く開いていたドアを開くと、暖かな空気がアレンを歓迎した。暖炉にいちばん近い一人掛けのソファに座る人影を見つけて、アレンは逸る胸に手を当てた。ゆっくりと近づき、回り込んで覗き込むと、男が目を瞑っていた。うたた寝をしているのだ。風邪を引くといけない、起こさなければと伸ばした手を、アレンは途中で下ろした。オレンジがゆらゆらと男の彫りの深い顔を照らしている。アレンは男の顔が好きだった__ああ寝顔までマナによく似ている。養父と共に旅をしていたころ、アレンはよく夜中に目を覚まし、自分を抱いて眠る父の顔を見つめることがあった。
「マナ...」思わず溢れた呟きに、男がぱっと目を開いた。アレンは狼狽え、少し後ずさる。男は数度瞬くと、眠ってしまったかなと呟いた。
「おや?どうしたね、ウォーカー君」突っ立っているアレンに気づいた男は渋い笑みを口元に表した。口髭が、アレンの記憶にある通りの形を成し、押さえきれない衝動が少年の身体を動かした。
「眠れなくて...」ふらりと足を踏み出してアレンは云った。「そうしたら、あなたが...」
「ああ、うたた寝していたようだね、起こしてくれてありがとう」
 男はアレンが伸ばした手に手をそっと添えた。「ウォーカー君?」
「アレン、て...呼んでください。前にお逢いしたときみたいに、」糸の切れた人形のように、アレンは男の足下に膝を突いて懇願した。「お願いです、どうか、」
「アレン」落ち着いたトーンで男が呼んだ。少年の望むものはきちんと理解していると、そう確信に満ちた目で。「アレン、おいで。抱いてあげましょう」
 その一言に少年は全身で震えた。手を引かれるままにおずおずと立ち上がる。遠慮しながら膝に乗ると、力強い腕で肩を抱かれた。広い胸に頭を寄せて、アレンは ほぅ と息を吐いた。こどものように膝の上で抱かれながら、この上なく穏やかで満ち足りた気分だった。
「君はよく頑張って来た。話を聞いていて思ったよ。偉いですね、」
「まだ...あなたの話を聞いてなかったのに...リンクがいなけりゃ、もっとゆっくりお話していたかった」
「うん。それは私も残念だ。だから、また、逢いましょう」
「...ほんとうに?また逢える?」
 男は含み笑ったようだった。あまりにも幼い物言いにおかしくなったのだろう。でもアレンはそれでも構わなかった。むしろ男の前ではこどもでありたかった。
「もちろん、アレン。きみが前に向かって歩き続ける限り、きっとまた逢えるでしょう」男は云い、アレンの額にくちづけた。こどもは幸せそうに目を瞑ってそれを受けた。父さんダディ、呼び声はとおく、睡魔に飲み込まれて消えていった。

 眠ってしまったこどもを、ミロット氏は客室まで抱えて運んだ。空いたベッドにアレンを下ろし、ていねいな手つきで布団を掛けてやった。額に掛かる髪をそっと払うと、赤く引き攣れた傷跡がいくらか薄くなっているのに男は気づいた。その呪いの傷跡に愛しげに唇を落とし、よく眠るアレンの頬をしばらく撫でた。ゴーレムも隣のベッドで眠る監査官も、どちらも起きる気配は微塵もなかった。
「おやすみ、坊や。かわいいアレン、」規則正しい寝息を零す唇に、今度は少しつよくキスをして男は満面の笑みを浮かべた。「また、我輩と遊びましょウ♡」








Milot Hulen Leiferman / The earl of millennium のアナグラムです。読み方がちょっとドイツ風なのは単に趣味。ふつうの人間の姿の伯爵が、マナと瓜二つの容貌だったとして、千年伯爵と知らないアレンくんがちょう懐いてたらかわいーなーと、そういう萌え。