Call nine one one!
睡眠不足の頭を掻きながら、ラビは備え付けの自販機のボタンを押した。音を立てて熱いコーヒーが抽出されるのを待つ僅かな時間、朝から49回目の大欠伸__なにもかも緩んでいるところへ、背中に衝撃を受けて真正面の自販機へ危うく額をぶつけそうになる。
「なんかおごってくださいよ、ラビ」
幾分か疲労に掠れた声がした。胸ポケットへ伸びた細く長い指がラビのIDカードを華麗に抜き取り、持ち主の了承も得ないまま
「アレン、お前なぁ、」 小さな扉を開けて紙コップを取りつつ、「自分の使えよ。今月これで14回目さ」 ラビはぼやいた。
ここのコーヒーは味としては最低の部類で、別の意味で目が覚める。舌に広がる酸味と熱さと、カフェイン摂取による中枢神経刺激が目的でなければ、好んで呑むものではなかった。
「そういうちっちゃいこと気にしてると、いつまで経ってもデカくなれませんよ」 勝手に使用したカードを指の間で遊ばせながらアレンが云った。さ迷った指がようやくドリンクを選ぶ__ミルクとシュガーを最大まで上げたホットコーヒー。
「ね、リナリー」
「そうね、」 ふわりとお馴染みの匂いが応えた。エルメスだ。ラビの目の前で手から手へ移動するカード__隣の自販機から転がり出る中国茶のペットボトル。それをちょっと掲げて彼女が微笑む。黒で引いたアイラインが見事なまでの弧を描いた。「ごちそうさま、ラビ」
短く切り揃えられてはいるが、丁寧に磨かれ手入れされた形の良い爪をした指先がラビの胸ポケットへカードを滑り込ませた。
「...お前らいつか金額分オレに差し入れしろよ」 と不服そうにラビは云い放つ。現時点でこのふたりに奢らされたドリンク代は、累積されて院内レジデントのトップだ。
まったく座り心地の良くない休憩所のソファに三人腰を下ろし、それぞれ飲み物に口を付ける。アレンに至っては持参の紙袋から顔ほどの大きさのメロンパンを取り出して齧り付き始めた。隣でリナリーが微笑ましいと云わんばかりの視線でその行動を見守っている。時期外れにイギリスからやってきた年下のドクターは、本場仕込みの英国紳士だった。そのフェミニストぶりで院内女性スタッフが選ぶ男性人気ランキングのナンバーワンを未だにキープし続けている。今まではずっとユウとオレがワンツーだったのになぁ、とまるで姉弟みたいな雰囲気のふたりを見つめながらラビはぼんやりと思考した。
視線にふと気付いたリナリーが、「ラビがコーヒーなんて珍しいわね、」 わざと意識を逸らすようなことを云うので、ラビもそれに乗って答えた。
「あー、真夜中呼び出されてそのまま泊まったんさ、」 舌に広がった苦味にやや眉をひそめて。「ひさびさに濃ゆいのが来たね」
「おつかれさま、」リナリーがペットボトルの口に直接唇をつけ、お茶を飲む。すこしどきりとさせる仕草だった。「わたしは今晩当直で朝からげんなりよ」
「リナリーでもそんなことあるんですね」 と片頬をハムスターみたいに膨らませたアレンが云った。
「兄さんがうるさいんだもの、」 苦笑い。彼女が手を上げて髪止めを外すと纏め上げていた黒髪がさらりと肩へ落ちた。どうしたって癖のつかない艶やかな黒は、ここにいないラビの同期を思わせた。
「...美容に悪いだのって。大きなお世話だわ、でしょう?」
「まーこんな仕事してちゃな、」
「リナリーはいつでも綺麗ですよ」
「お上手ね、アレンくん。ありがとう」
「ほんとにそう思ってるのに。」
あっという間に数個のパンを食べ終わったアレンが、すでにコーヒーとは云えない茶色の液体を煽った。彼がこうして休憩所で食べたり飲んだりを止めないときは、必ず決まって相当忙しいときだった。新たに取り出されたパン__病院真向かいのジェリーズカフェの一番人気の焼きそばパンは、初めてここにやってきた時からのアレンの大好物だった。
「アレンは何してたん?」
「合宿ですよーぅ」
一口でパンの半分を頬張って飲み込みながらアレンが云う。彼は見た目細いくせに食欲は人の五倍ほどはある。ラビもかなり食べる方だったから、面白半分に一度ふたりで競い合ったこともあったのだが、大食い対決は完全にラビの負けだった。
アレンは幸せそうにパンを咀嚼してから、
「今CCUでPCPS回してて。もうだいぶ落ち着いて、今晩乗り越えたら離脱できそうなんで、インターンに任せて僕は休憩です」
云いつつ紙袋に手を突っ込んだ。よく見れば彼は青の術衣の上にそのまま白衣を引っ掛けている。ということは、彼も昨夜はろくに眠りもせず、ずっと院内に詰めていたのだろう。
「そりゃお疲れさん」 と、ラビが両肩を竦めた。切ったり縫ったりカメラだのカテーテルを突っ込んだりするのは完全にラビの専門外だ。術後の全身状態の管理もしたことがない。同期のレジデントドクター達が時に無償で時間外労働を行っていることは知っていたし、彼らの使命感と熱意には尊敬もしている。ただ、自分とは担当する分野が違いすぎるのだ__それについては随分前に割り切っていた。ラビはブラックを飲み干すと紙コップを握り潰してダストへ向け放り投げた。
「ナイッシュー」
アレンが笑った。片手にフランクフルト__ぴりりと嫌な音を立てた白衣のポケットを探るもうひとつの手。PHSの液晶に表示された番号を見ると、アレンは短い溜息を零した。「リンクだ、」 口にフランクフルトを咥えてボタンを押す。
『どこにいるんですかウォーカー?』
応答の名乗りもしないうちに鋭い声がアレンの鼓膜を叩いた。
「休憩所ですよ、リンク。」
『15時から来週のオペの打ち合わせをすると云っておいたでしょう、いますぐ私の
「......」 アレンが手にした食べかけのフランクフルトをぴこぴこと左右に振る。口をもごもごと動かす。
『返事は? ドクター=ウォーカー』
「...60秒はさすがに無理です、」
三階の医局から麻酔科外来まで、全速力のアレンが階段を駆けて弾き出した
『口答えする暇があったら足を動かしなさい! いいですね、』
ブツッ__一方的に切れた通話にPHSをしばし見つめていたアレンは、渋い顔でそれを白衣のポケットに戻した。立ち上がる気配は微塵もない。そのまま残りのフランクフルトをきれいに櫛から食べ去った。
「呼び出し?」 リナリーが訊いた。
「リンクとカンファ予定だったんです。今日約束してたの忘れてた...面倒くさいなぁ」
「来週は何?」
「AEEのベンタール。リナリーの外来通ってるDMプラスRF合併のおじいちゃんですよ。どっかのお偉いさんなんだそうです」
「そんでピリピリしてんのか、ホクロふたつ」
「それ本人に云わない方がいいですよ、ラビ」
プルルルルル、再びPHSが鳴る。まるで汚いものでも摘むようにアレンがポケットから取り出したそれを、隣からリナリーがさっと奪い取った。アレンが驚いている隙に、彼女は躊躇なくボタンを押した。
『60秒はとっくに過ぎたぞウォーカー!』
苛立ちに叫ぶ声がスピーカーから小さく洩れ聴こえた。
「ハロゥ、ドクター?」 口元に淡い微笑を湛えリナリーが優雅に囁く。「オペ前カンファにわたしは誘ってくれないんですか? そんなにアレンくんとふたりきりになりたいの? クールな顔して案外独占欲が強いのね、」
電話の向こう側とすぐ傍で絶句する気配があり、リナリーは笑みを深くした。あのだいきらいな麻酔科部長の秘蔵っ子にいぢわるするくらい許されるわよね__というのが、彼女の主張だった。
『...ッ、ミズ=リー、莫迦なことを云っていないで電話をウォーカーに返しなさい。私は彼と話が』
「今晩ベットのなかでしたら?」
「リナリー!!」
悲鳴混じりに叫んだのはアレンだった。真っ赤になってPHSを持つ手を握られる。かわいいなぁとリナリーは声に出さず呟いた。
「じょ、女性がそんなこと云ったらいけません!」
「やだアレンくんたら。本気にしちゃって。冗談よ、」
「か、仮にジョークだとしても、です! それ返して...」 半分涙を浮かべて懇願されたら、リナリーに否応はなかった。素直に云う通りにする。アレンはふらふらとよろめきながら立ち上がると、戻ってきたPHSを耳に当てた。
リンク、と最後の子音を震わせてアレンが名を呼ぶのが遠のいていく。必死に口を動かしてはいるが、あの定規をそのまま人間にしたみたいな性格の麻酔科医にいったい何をどう云い募れば先程のフォローになるのかは、ラビにはまったく想像もできない。
防火扉の前で行ったり来たりを繰り返すアレンを見守りつつ、ラビは隣のリナリーを横目で盗み見た。グロスで艶やかに塗れた唇が弧を描いている__彼女には一生敵わないだろうなとこっそり肩を竦めた。オペをさせたらパーフェクトだと云われているアレンとリンクのコンビに割って入っていける人間は少ない。
「...リナリー、リンクが君にも同席を、って。一緒に来てくれますか、」
通話をオフにしたアレンが振り返って声を張った。プライベートな揶揄いを受けて彼が動揺したのは束の間で、もうすっかり優秀な心臓外科医フェローの表情をしている。
「あら、もちろん。アレンくんのお誘いなら喜んで」
ラビの視界を白衣の裾が翻り、タイトなスカートからすらりと伸びる両足がリノリウムの床を嬉しそうに滑って行く。階下へのエレベータを呼び出し、リナリーが先に乗り込んだ。アレンも後に続く。
「ラビー」
間延びした声と共に扉の影から白い頭が覗いた。ソファに座ったままのラビの横にある紙袋を指が示した。
「ジェリーさんのパン、とくべつ君にあげます」
あのアレンが他人に食べ物を譲るなんて珍しい__ラビが目を白黒させる。するとにっこりと微笑まれた__天使みたいだと患者からもスタッフからも評判の笑顔で。
「僕のカンだと、もうすぐラビにも
アレンが不吉な予想を一方的に告げ、エレベータの中へ消えたとき、ラビの胸元からまるでタイミングを計ったように音が響いた。
「えー...ちょっとそういうのヤメようよ。アレンさーん...」
ラビは手にしたPHSの液晶を見た__アレンと同じく外科医を専攻した、レジデント同期のナンバー。彼がプライベートな事で内線を掛けてくることはない。このコールは本当に珍しいなと考えつつ、ラビは通話ボタンを押した。
『...神田だ。』
背後のざわめきに負けずに、凛とした声が名乗った。
「もしもしユウ? オレだけど、何?」
『...このボケウサ!!』 突然の罵声/きーんと
「ちょ...えっ、なに、なんなんさ!」
『さっさと戻ってきやがれ! テメェがコンサルトしてた患者が腹刺しやがった!』
「え、マジ」
『ちっ...腹膜いってンぞ、たぶんな』
「い、行く行く! すぐ行くからそれまで頼む!!」
『オペの手配しておく。六番に入れるからな、直接来いよ』
一方的にぶつりと声は切れた。ラビは走り出すも慌て過ぎて突っかけたサンダルが脱げ掛け__たまたま医局から出てきた通りがかりのリーバーに顔面からの転倒を危うく支えられた。
「チーフあんがと!」 必死の思いで体勢を立て直し、くるりと身を翻して手を振った。リーバーが笑う。
「廊下走んなよー。でも急いで行けよー」
矛盾した励ましを背に受けて、ラビはオペ室へ向けて廊下を急いだ。頭の中は患者のことでいっぱいだった。自分が処方した内服の内容や、既往歴や最近の検査結果が駆け巡る。オペに伴うリスクを弾き出し、執刀医への伝達事項を脳内で整理する。ずっと引き摺っていたはずの眠気は、今はどこかへ吹っ飛んでいた。
__多忙な彼らの一日は、どうやらまだ終わりそうにはない。
ひとりはっきり説明つけなかったラビ=精神科医__これ当てれたひとはすごい。
(専門略語は雰囲気で読み流してもらえばいいので注釈はなし)
イメージがN.Y.マンハッタンだったりするので、米国の医療体制に準拠。インターン(実習学生)→レジデント→フェロー→スタッフドクターみたいな感じかな...