He's called "Phantom"
(ラビがディック寄りなかんじ/なんかこわい)
(アレンくんラビにすごく苦手意識/ティキに懐きすぎ)
その男は贋作ばかり描いていた。
だから自分はそばにいたのかもしれない、そうなんとなく思った。男は時間さえあればキャンパスに向かっていた。筆先には迷いといったものがなく、初めてその姿を目にしたときはずいぶん感心したものだ。
ただ、芸術にまったくといっていいほど知識のない僕から見てさえ、彼が描く絵はさまざまな作風だったから疑問に思っていたのだった。当時僕が勝手に住み着いた部屋の主は鮮やかな赤毛の青年で、その色があまりにも不吉だというので生まれて間もなく親に捨てられたのだと僕に零した。彼が持っていたのは絵の才能だったが、それは他人の作品を一瞬でも目にすれば細部までそっくりに模倣できるというものだった。幸か不幸か、彼が手慰みに描いた一枚の模写がマフィアかなにかの目に留まったのだろう。男は指示されるままに絵を描きそれを売って生きていた。ただの模写なら捕まることはないだろうが、彼の危険はそれを本物と偽って好事家に売りつけ金に換える悪党の片棒を担いでいることだった。
もちろん、僕に男を告発する理由なぞない。狭いアパートの一室を間借りしていた恩もあったが、何よりそんなことを気にしている余裕がなかった。僕は十代始めにして多重債務者だった。養父を亡くした後、身元引受人になった男の借金を押し付けられたからだった。それを日々返済していかなければならず、また地の果てまでも追って来る取立てから逃げなければ身体のパーツすべてを切り売りされそうな毎日だったのだ。夕方から明け方にかけて酒場や賭場に入り浸って、大人相手に金を稼ぐ。得意なのはポーカーだった。僕の左手は神の手だった__どんなイカサマでも絶対にばれることなくやり遂げ勝ちをもぎ取れた。誇れる才覚でないことは僕も、彼も同じだ。だから僕は、流浪の孤児にとっては比較的長い期間、男の傍にいたのかもしれない。
もう何年も前のことをこんなふうに思い出してしまったのは、職場では上司に当たる僕の男が絵画のはなしなんてしたからだ。
「ほんと、びっくりするほどおまえに似てんだよ、ソレ」
この街でいちばん流行っているカジノのフロアマネージャを任されている男は、仕事上がりの酒の席でそんなことを云った。
「……なんかきもちわるいですね、」 カクテルグラスの縁をなぞり僕は呟いた。アルコールが喉を焼いていく感覚はいまだに慣れない。それでも付き合うのは僕に酒を教えたのがこの男だからだ。行きつけのバーのカウンター席、たまに肩を触れ合わせたり、酔いが回ると人目を気にせずキスしてくるティキをあしらいながら夜が更けていく。その時間はきらいではない。
「一度観てみろよ、連れてってやるから、」 何が面白いのか彼はしつこく僕を誘った。過去のことで、絵描きや絵そのものに良い思い出なんてないのに。だいたい、ティキだって美術になんか興味がないくせにおかしい。実家の用事か何かにひとりで行くのが嫌だから僕を巻き込もうとしているのだと、そのときは思っていた。仕方ないから付き合ってやろうとも。
そのまま彼のマンションに泊まり、翌日ふたりで件の絵を観に出掛けた。到着したのは憶えのある建物だった。彼の一族が出資だか経営だかしているビルのような気がする。予感的中とばかりに僕は密かに口元を歪めた。付いてきてほしいなら素直に頼めばいいのに。ティキの背を追いながら、僕はその個展の区画へと足を踏み入れた。さいしょは小さな額縁の絵が数点壁に掛けられていた。風景画だ。ゆっくりと進みながら、手招いて僕を呼ぶティキに近づいていった。
白い壁を曲がった瞬間、目の前に飛び込んできたその絵に、僕は言葉を失った。
「どうだ、な? びっくりだろ、」 陽気に告げるティキは絵を観ていて僕が冷汗をかいているのに気付きはしない。それ以上進むこともできず、かといって踵を返すことで不審に思われたくなくて、なんとかその場に踏みとどまった。
その絵に、僕はいやというほど見覚えがあった。
その絵を、描いたのが誰なのか心当たりがある。
金の額縁に飾られた絵のなかの真っ赤なソファはもっとくすんで汚い色だったし、座り心地は最悪だった。申し訳程度に引っ掛けられている白いシーツには、本当は体液が染み付いてひどい匂いがしていた。しどけなくそれらに寄りかかる少年は、あまり会話をしたことのない同居の絵描きの男に懇願されてデッサンのモデルになったのだ__幾度目かのとき、服を脱いだ。そして最後は、あの部屋で過ごした最後の日は、秋晴れの暖かな陽の光の下で……
「おいアレン!」 大きな声がし、腕を掴む強い力を感じた。「どうした? 顔真っ青だけど、」 ふらついて倒れる寸前だったらしい。僕はティキにしがみつき、気分が悪いと訴えた。彼はこういうときひどく甘やかしてくれる。
「どうかしましたか?」 スタッフだろうか、誰かがそう声を掛けてくる。僕は項垂れて極力絵からも人からも顔を背けていた。だから気付くのが遅くなったのだ。声だけで気付くには月日は経ち過ぎていた。ふいに飛び込んできた毒々しい赤色に、僕は今度こそ本気で悲鳴を上げそうになった。
「顔色が悪いさ。ちょっとした小部屋があるので、そこへどうぞ」 顔を覗き込んできた男は、にこりと笑ってみせた。まさか気付いていないのだろうか。それならいい、そうであればいいと僕は目を閉じくり返し唱え続けた。このまま過ぎ去ってしまえばいい。僕を軽々と両腕に抱えるティキは、男の云う通りにどこかの部屋へ僕を運ぼうとする。
「ティキ、うち、かえり、たい……」
「ちょっと休んでからな。おまえほんと酷ぇぞ」 昨夜ヤりすぎたかななんて呑気で恥ずかしいことを云うティキを、ぶちのめしてやりたい。こうなったらもう、黙って眠ってしまおうか。そうしたら誰も話し掛けようなんてしないはずだ。
ソファの上に寝かされ、僕は目を閉じて寝たふりをしていた。三〇分ほど経ったころ、ティキが傍から離れる気配がした。扉の閉まる音がして僕は慌てて身体を起こした。「……まっ、」
くらりと眩暈がする。ばかみたいだ、もう忘れて消し去ってしまったと思ったのに。あの日を思い出そうとすると激しい頭痛がするのだ。原因は、すべてあの――
がちゃりとドアノブが回った。現れた色に僕は絶望を見た。赤毛の絵描き__ずっと忌避してきた、僕の。
「よう、気分は良くなったさ?」
さいしょの男。
「……ご迷惑をお掛けしました。もう帰ります」 毛布を剥ぐと僕は急いで靴を履いた。ふたりきりなんて。でも扉の前に立ち塞がれてしまうと、僕は動けなくなってしまった。情けない。
「……オレのこと憶えてて絵を見に来てくれたのかと思ったよ」
「な……んのことだか。そこ、どいてく」「アレン」
大袈裟に肩が震えるのを、僕は隠せなかった。
「ち、違う、たぶん、人違いです。僕はアレンなんて名前じゃ、」
ふぅんと鼻先で笑われる。「おまえの連れ、思いっきり名前呼んでたじゃん。アレン、て」
「……ぼく、はあなたを知りませんから。だから、きっと違うアレンですよ。お願いですから、どいてくれませんか。帰りたいんです……」
「今はあの男と住んでるんさ?」 関係ないでしょう、とか細く答えるのが精一杯だった。絵描きは片目を細めて笑った。右の眼帯は、きっとあのとき、僕が……「傷つけた、そう、アレンのせいだよ」
この男はテレパシストなんだと昔、子供心に思ったことがある。こんなふうに僕の思考を読み当てて、逃げ場を塞ぎ、追い詰めるのだ。やっとの思いで逃げ出したのに。なんで今になって、こんな。勝手に押し付けられた借金がきれいになった矢先だ。僕はつくづく不幸の星のもとに生まれたんだとしか思えない。ああ、どうしよう、足が竦んでちっとも動かない。ほら、彼が、ラビが、近づいて、来る。
「なにやってる?」
ふいに救いの声がした。「ティキ!」
僕はどうにか足を動かして彼の胸へと飛び込んだ。僕とラビを見比べる気配。腰を抱く腕に力が篭るのを感じると、とてつもなく安心した。「正面に車回してきた。歩けるか?」 僕は無言で頷いた。きっとティキに勘付かれただろう。それよりもはやく、あの視線から逃げたい。背に突き刺さる翠緑の隻眼は、いつかの日と同じ意図で自分を見ているにちがいない。
どうやって車まで辿り着いたのか、記憶は曖昧だった。はっきりと認識したときには僕は助手席できちんとシートベルトをして座っていた。ハンドルを握るティキはマンションに着くまで無言で、だから僕は再び目を閉じることにした。滑らかにタイヤが動き、サイドブレーキを引く音に目を覚ます。ティキは扉を開けずにじっと僕を見た。
ああ、なにか云わないと。
そう思うのに、舌は張り付いて重かった。俯くと涙が零れ落ちて、僕はますます惨めな気分になった。このひとに失望はされたくない。いつだって対等でありたいのに。
「アレン、いいよ、云えよ。喋って楽になれ」 大きな手が、だいすきな手が頬に触れた。たったそれだけで溢れる涙の量が増す。でもどうやったら、ティキにあのことをきちんと伝えることができるのだろう。わからずに僕は嗚咽を漏らした。つむじに唇が押し当てられる。握り締めた左手が、ひどく痛んだ。
「なんかあったんだな、あの野郎と。からかわれたか、」 首を振る。違うんだ、今日が最初に逢ったんじゃない。あなたと、出逢う、前に僕は。
「かわいいからなぁ、おまえ。ごめんなひとりにしちゃって、」 濡れた頬を指が何度も擦った。僕はどうにかしゃくりあげるのを落ち着けると、顔を上げる。キスをされる。ああ、云ったら楽になるだろうか。まだぜんぶ、あなたに伝えていないこと。
「ティキ、」 金の瞳が僕をやさしく見つめて待っている。「……憶えてますか、出逢った頃のこと」
「ああ、」 鼻を擦られる。「もちろん」
僕は息をひとつ吐いた。過去の痛みを感じる左手を、そっと彼に向かって掲げた。そこにある引き攣れた傷痕がいちばん酷かったときを、ティキは知っていた。整った眉間に皺が寄る。ティキはさっと怒りを瞳に宿した。「あいつなのか?」
僕はただ、黙って頷くことしかできなかった。
(ぶっちゃけていえば、元彼ラビ/今彼ティキという...)