酩酊とは、自発的な 狂 気 以外のなにものでもない

 ――なにを云われたのか、僕にはわからなかった。
 いま目の前にいるこの男は、24時間常に僕の傍に付き纏う邪魔なこの男は、何と云った?
 耳元で師匠が僕を苛めてくる。“マナの仮面を被るのは――”
 ああ! ああ!
 なんてひどいことをあのひとは云うのだろう。僕にとってのマナがどんなにか、憧れで、大切で、焦がれ求める存在なのだと知っているくせに!
 そしてこの男はいまなんと云った?! loveの音が遅れに遅れて僕の耳へ届いた。脳へ食い込んだ。なんておそろしいことば!
 その一瞬で、僕の身体は恐怖に強張った。アクマにすっかり囲まれた時だって、崩壊してゆく方舟の中でさいごの覚悟を決めた時だって、こんなに恐ろしくはなかった。首の後ろの産毛まで総毛立つようだった。すっかり動けずにいる僕の両頬を、信じられないくらいのやさしさが包んでいる。彼が触れている部分だけが暖かで、気持ちが悪い。寒気がする。震えたくなんてなかったのに、僕の意思に反して身体はひとつ大きな身震いをした。すると間近で真っ直ぐに見つめてくるふたつの瞳が、哀れむ色を滲ませた。ああ、物凄く腹が立つ。
「どけよ!!」
 任務中にだって、あまり使ったことのない口調だった。僕は容赦なく左手を振り上げ__リンクが触れたか触れないかの位置でそれは弾かれた。ベッドの上に腕が落ちる。もう指先はぴくりとすら動かなかった。いつか、中央庁の奴らに囲まれて師匠との面会を許されたときよりも、もっとずっと強い拘束__封印だ。手のひらに錘をずしりと置かれたようだった。
 左手からじわりと染み込んだ何かの仕掛けは、僕の身体を鉛に変えていく。息をするのすら辛い気がする、声を出すのも困難になっていく。イノセンスは封じられ、手足は思うように動かすことすらままならず、僕は喉を逸らして喘いだ。彼の瞳は見えなくなったが、依然として突き刺すような視線であることには変わりなかった。もしくは、ぼくの、なにかを引きずり出そうとするような...
 細かな震えがやってきた。指先すら動かせずにいるのに、僕は確かに自分が震え出すのを感じた。
 それは純粋な恐怖だった。
 抵抗する力をまったく奪われて、僕は心底目の前の男に恐怖していた。
 師匠の声が遠く、とおく向こうに聞こえる__ああ、ねぇお願いです、師匠...行かないで...ぼくを...
 何を懇願したかったろう。言葉にはもちろん出来なかったし、胸の裡に呟き落とすことすらもできなかった。
「ウォーカー、」
 “アレン、おまえ――” 繰り返される声、聞きたくない、ききたくない...じゃないと僕は!
 生暖かい手のひらが額に触れた、少し前髪を掻き分けて痣に触れ、頬を擦り、僕の唇に指が掛かった__すべてやさしい仕草だった。リンクがそうしたのだ。
「...ウォーカー、声を殺して泣くものじゃない...」
 彼が云った。ひどく後悔しているように。優しげに。マナでも、師匠でも、コムイさんやリーバーさんや、リナリーやラビや神田でもなく。あの、リンクが!
 吐息とも嗚咽ともつかない音が喉を通り、無理に開かれた口から零れ出た。視界はもうぐちゃぐちゃだった。涙ってこんなに熱いものだった?
 至極みっともなく、僕はリンクの影で泣いた。そのあいだずっと、リンクは紳士的に、僕と少ししか歳の違わないくせに、大人の顔して僕が泣き喚くのに寄り添ってくれていた。
 彼に云っても仕方のないことばかり、僕は叫んでいたような気がする。僕を置いていってしまったひとたちのこと、まるで腫れ物に触るように僕を慰めようとするひとたちのこと、敬遠するひと、疑惑の視線――苛々して、鬱陶しくて、皆みんなだいきらいだ!そういったことを。
「あんただってさいしょ...」
「君が14番目、だった。我々の推理は当たっていた。...満足していますよ、」
「なにそれ...」
 リンクはほんの少し口元を歪めて笑った。自嘲するように。彼は胸元から糊のきいた白いハンケチを取り出し、僕の眦や鼻を拭ってくれた。 「ねぇリンク、」 彼としっかり目を合わせるまで、僕は待った。 「ぼくをころしてくれる?」
「ウォーカー、云ったでしょう。私は、」 彼は普段の、僕にもっと野菜を摂取するべきだと諫言するのとまったく同じ調子で、
「泣いたら君を、愛してあげよう、と」



 そうして、ぼくを押しつぶす重圧はすっかり消えた。



 肩口から流れ落ちている鮮やかな金髪を見上げながら、そういえば金髪とは縁がなかったなとぼんやり考えていた。
 リンクは、その淡白なようすからは予想も出来ないほど、実に上手く僕をリードしてみせた。案外経験豊富なのかな、そう後から訊いてみたら彼は首まで真っ赤になって絶句したので、僕は笑ってしまった。相性が良いってことかもね。
 そう、実際相性が良かったんだと思う。リンクは観察眼にかけては自信があるようだったし、出逢ってからずっと僕と付かず離れずの生活をしてきたのだ。そして僕は他人に迎合するという点において、驚異的な才能を持っている。なるべく迫害されずに孤児というやつが生き延びていくための知恵だった。
 僕は彼からのキスを受け入れ、指先に身を捩り、背に腕を回した。
 たとい彼が僕のあんまりな様子にちょっとお情けをかけてくれただけだったとしても、その時の僕は満たされていた。あんなに気持ちが悪いと思っていた体温は、心地良い温もりに変わり、僕を現実から浮かせる熱となった。時折苦しげに吐かれるリンクの息が僕の背骨をざわめかせ、絶妙な力加減で触れてくる指を もっと とねだる。薄く冷えた唇が涙で腫れた瞼を掠めた。その温度が気に入らなくて、僕は彼の髪を掴んで無理矢理引き寄せると口吻けた。すっかり同じ熱さになったところで満足して、彼の顎を舐めたら鼻を思い切り摘まれた。僕らはひとしきり笑い合うと、互いに目を瞑って抱き合った。きっとこれが最初で最後、彼が愛してくれた記憶になるのだろうなと思ったら、無性に名前を呼んでみたくなった。




(ああきっとその名は最期に残しておくよ。ぼくをころしてくれるすてきなおうじさま)