carpe diem!
お風呂をもらって濡れた髪を拭きつつ自室へ戻ると、見知らぬ男が堂々と部屋の真ん中に立っていた。
あんまり驚いたものだから、声も出せずに僕が ぽかん と口を開けたまま呆けていると、男は気障ったらしく片目を瞑り唇の前に白い手袋に包まれた人差し指を立てた。
しーっ。
ここでようやく僕の声帯は本来の役目を思い出したらしく、な__叫び声を上げる直前に息苦しさが容赦なく襲ってきた。
「騒ぐな。しーっ、静かに。イイ子にしてたらなんもしねーよ、おじょうちゃん」
吐息が触れるほど近くで囁かれる。シルクハットの影から金目が僕をするどく刺した。男の手はおとなの大きさのそれで、鼻と口をすっかり覆われ背中から肩へと周った腕の中に捕らわれては反論も抵抗もできはしなかった。ただ息苦しさから解放されたくて必死になって頷きを繰り返すと、不審者は にっこり 笑ってゆっくりと手をどけていった。
「ウォーカー?」
その誰何の声に悲鳴を上げなかったことを、僕は自身で褒めるべきなのか後悔するべきなのか未だに判断に迷っている。部屋の外から届けられた僕を示す名を呼ぶ声は、この家の同居人兼監視役のものだった。 「ウォーカー?」 訝しげな声。ひとつ大きく息を吸い、 「...はい、なんですか、リンク、」 慎重に慎重に息を吐いて返した__眼前で輝く男の瞳に囚われながら。
「なにかあったんですか、入りますよ、」 まずいまずいまずい。そのとき僕は相当焦っていた。こんな男といっしょにいるところを見つかったら、また何を云われるか判らない。僕にはまったく非のないことなのに。謂れのないことで責められることほど、悲しく堪えるものはなかった。誰だってそうでしょう?
僕は大慌てで、とにかく長身のこの男を隠すにふさわしい場所はないものかと部屋中視線を巡らせた。クローゼットはあまりにちいさく、選択肢で残ったのはベッドくらいのものだった。なにをどうしたものか、自分より上背のある男を引っ張り毛布を被せてベッドに無理やり押し込んだ。状況を理解しているらしい侵入者は、文句を云わずにその場所へと潜り込んでくれた。一安心したのもつかの間、 「なにをしてるんです?」 背後から容赦なく切りつける声が飛んできた。
「べ、つにこれと云ってなにも、」 僕は表情筋を全力でさりげないものに整えながら振り返る。 「もう休もうと思ってたところです。いったい何の用ですか、リンク。師匠からの連絡は一向になしのつぶてですよ。僕なんかに期待したって無駄だって、ずっと云ってるでしょ」 畳み掛けるように言葉をぶつけた。普段なるたけ避けるようにしている話題を、ここぞとばかりに口にする。きっと相手はそこに乗るはずだった__彼らは僕が師匠と呼ぶ人物を確保するためだけに、僕をここにわざわざ飼っているのだから。
「...なにか、隠しましたか」 勘のイイヤツ__舌打ちしそうになるのを笑顔で打ち消す。 「なんのことです?」 僕はやましい事などなにひとつこれっぽちもないのだと云う表情で笑った。態度は堂々と。駆け引きにおけるポーカーフェイスを脊髄反射的に作れるまでに僕を仕込んでいった師匠の教えを前面に引き出して。リンクが眉を寄せる。 「君の笑顔付きの言葉ほど信用ならないものはない」 くそったれめ。
「ケイタイならさっき居間に置いてきました。学校からは寄り道せずにまっすぐ帰って来ました。いつもみたくケイタイの中身チェックして、護衛のひとに僕の一日の行動の報告聞けばいいでしょう! なんだっていうんですか! もう3ヶ月、3ヶ月ですよ、リンク。いくら上司の命令だからって、いい加減ばかばかしいとかは思わないもんなんですか!」
ああくそみっともない。積もり積もった鬱憤をこんなふうに撒き散らすなんて。最低だ。僕はまだ湿ったままの前髪をくしゃくしゃに掻き回した。こんなふうに本音をぶつけてしまうなんて、ほんと最低だ。最低で最悪だった。
僕を監視する筆頭__リンクはしばらく沈黙し、 「...今日一日のチェックはすべて終了してます。普段通りでまったく異常はなかったと、」 云った。 「私の勘違いでしたか」
リンクの視線がこちらを向く。僕の背後__ベッドへ向く。まずい。彼はうまく目立たぬよう隠れているだろうか。多少のふくらみは、僕がベッドから抜け出して来たように整えてはみたけれど。
「明日も授業があるでしょう。風邪を引かないうちに、早く休みなさい」 リンクは何にも気付かないようすで踵を返し部屋を出て行った。どうにかやり過ごせたことに僕は心底安堵した。こんな緊張はもうごめんだ__賭けポーカーのスリルとは全然違う。あれはいくら経験しても楽しめる部分が残っているのだけれど。
僕はまだ残されているもうひとつの問題へと振り向いた。この部屋に盗聴器まで仕掛けられていなくてほんとうに良かったと思う。そのあたりのプライバシーを守ってくれる良心は、彼らにだって残されているようだった。僕は毛布に手を掛けた/捲くった__なのにそこには誰も__なにもなかった。
「え...?」 「ここだよ、少年」
声がした。予想もしなかったところから。 「お前、男の子だったんだな、」 揶揄する声。嘘だ。なんでそんなところ__ベッドの下だなんて、いつのまに__いや、そもそもそんなところに大人ひとり隠れることのできるスペースだなんて――
男はゆっくりと、そのまま起き上がって見せた。まるで映画かなにかみているようだった__そう、CGのような。僕のベッドを突き抜けて上体を床から起こす不審者。腰から下はシーツとベッドで隠れて見えない。なんだこれは。
「驚いた? これ秘密な、しょーねん」 甘いウィンク。女性ならたちまち蕩けてしまいそうな__僕は男だからどう反応のしようもなかった。ただ本当に映画俳優のようだなと思っただけだった。時代錯誤な黒いシルクハットにマント、その下の黒いフォーマル、土足のままの革靴__世間を騒がせている怪盗そっくりの姿も、その印象を加速させるのかもしれなかった。
「匿ってくれてサンキュ。いつかお礼をさせてくれ、」
白い絹越しの手が、僕のフェイスラインを滑って離れて行った。彼を誰にも見つからず追い出そうとしていた僕の課題は、向こう側からあっさりと解答が提示された。彼はそのまま__おそらくこの部屋へ侵入を果たした時と同じ方法で__壁をすり抜けて外へと逃れた。フィクションみたいに。
翌日、朝食の席で家主が目を通していた新聞の一面に、黒いゴシックの見出しが予想通り躍っているのを僕は見た。
"被害総額4億円の宝石盗まれる/怪盗ノア現る"
(たぶんおもいっきりギャグになります怪盗パロ!笑/まだあんまり構想詰めてません勢いだけ)