Nemo in amore videt!


「新型インフルのワクチン? H5N1株の?」
「...臨床試験だそうですよ、我々対象に。数日前に伝達があったでしょう、見てないんですか、ウォーカー」
 雑然と教科書参考書その他書類が積まれた医局のデスクに紙を叩きつけてリンクが云った。億劫そうにアレンはその紙を見た。
「で、同意書?」
「イエスとサインなさい、ウォーカー」なんの説明もなく署名を強要してくる麻酔科医をアレンは見上げた。10時間以上に及ぶオペを終わらせて、患者をICUにぶち込んで家族にムンテラして、汗染みの出来た術衣を着替えて、一般病棟にいる他の患者の様子を見てきてようやく椅子に座って、それでもまだこれからオペ記録を書かなければならないというのに。
 絶対自分が疲れているところを狙ってやってきているとしか思えない__アレンは注射はだいっきらいだった。自分が針を刺したりするにはまったく構わないが、
「やです。だって痛いでしょう!」
「キミは子供ですか?! というかそれが医者の台詞ですか?!」 口を尖らせるアレンに向かって、リンクは呆れた調子で云った。 「なんでもいいからとにかくサインなさい」
「ひどいですリンク! だいたいそんなろくにICもしてくれてないのにサインしなさいだなんて!」
「ドクター=ウォーカー。書面にきちんと全部書いてあるでしょう読みなさい」
「僕はまだ博士号は取ってないのでドクターじゃないです」「屁理屈を捏ねない、ドクター。この国じゃキミでもドクターと呼ばれるんです」
「...ワクチンだなんて、どうせ僕らを蟻か蜂も斯くや、延々と休みなしに働かさせるための陰謀じゃないですか。リンクは僕が過労死しても何とも思ってくれないんですか?!」
「新型インフルエンザで死なれるよりかはマシです」
 その言葉に、アレンは丸々と目を見開いた。次いで両手で顔を覆い、めそめそと泣き出した。「ひどいリンク...僕毎日こんなに頑張ってるのにまだ働かせる気なんですね...僕のお金だけが目当てだったんだぁぁぁ」
「嘘泣きはよしなさい、ああもう!」 なんだってこんな、同意書ひとつ取るのに時間を掛けなければならないのだ__リンクは綺麗に編まれた後ろ髪が崩れるのも構わずに頭を掻き回した。
「痛いのが嫌なんですね? だったらぜったい痛くしないようにしますから、」
「...え、リンクがしてくれるの? 麻酔掛けてくれる?」
「世界のどこにたかが皮下注で部分麻酔を必要とする医者が...だいたい麻酔の注射の方が痛いと思いますが、」
「う、それは...」
「じゃあほら、とにかくサインを」 白衣のポケットからペンを取り出し、アレンへ差し出す。彼は往生際悪く、少し渋ったあとに複写用紙の一枚目にさらりとサインした。
「だいたい、キミがもし新型に罹患したら、もれなく私も道連れでしょう。空気感染プラス接触感染危険で、1〜2週間は自宅待機しなさいというのがセンター推奨の感染拡大予防策らしいですから」 吐息つくよう零すと、アレンがペンを握ったまま ぽかん とリンクを見た。途端に嬉しそうな表情になって、立ったままのリンクの襟を引っつかむと、外科医ならではの腕力でアレンはパートナーの顔を引き寄せた。
「リンクだいすき、」 激務ですこしだけかさついた唇が触れた。また甘やかしてしまった__内心眉を顰めるリンクになど気付きもせず、アレンは明るい声で云った。


「死なばもろともってことですよね!」




(違います、こら、ウォーカー! ここは医局ですから自重なさい!/リンアレ__すでにできてる麻酔科医と外科医パロ)