哀しみが注がれる。
 それだけで息が詰まって死んでしまいそうなくらい、悲しみに満ちみちた瞳が見つめている。
 「...、......」
 呼ばれた名前が涙となって降り注ぐ。
 伝えたいことがあった。けれど言葉は声にならず空に消えた。だから代わりに手を伸べる。泣き続けるそのひとの頬に。
 指先に震えるぬくもり。
 ああ、いとしいひと。





 「......קַיִן.........」
 零れ出た寝言は、やけに近くで聴こえた。
 ふっと浮上する意識と感覚___ラビはすぐそばにあるちいさな温もりに気がついた。ぎょっ、、、として目を覚ます。鼻先に白い髪に覆われたちいさな額。
 「ちょ、なんで、」
 (オレのベッドにいるさ!)
 身体を起こそうとすると、胸元に重たい感触。あかい手がラビの襯衣を握り込んでいる。手の甲に埋め込まれた黒の十字架は、どうみてもイノセンスとしか思えなかった。寄生型イノセンスの所有者___生まれたときからエクソシストとして千年伯爵と戦うことを運命付けられている者が、なぜその伯爵のもとで大切にされていたのか解らない。その彼の身が傷つけられ、記憶を失くした過程も。やっかいごとだと重々承知していながら彼の手を掴んでしまったのは、記録者としての好奇心に負けたからだ___半分は。もう半分の理由は、たぶんもうずっと前に―――
 「......אַחְ...」
 (アフ―――兄さんブラザー?) ふたたび零された言葉を、今度はちゃんと聴き取る。とうの昔に途絶えて久しい聖古語ラシヨンでの呟きはひどく頼りなかった。彼の白い睫毛が震えて、眠りに浸かっていた銀を覚醒めさせる___強烈な既視感デジャヴにめまいがした。
 「...ら、び?」
 「おはよう、さ」 困ったようにラビは胸元のアレンの手を指し示す。
 「え、あれ...? うそ、ぼく、」
 アレンの顔にさっと朱が差した。 「ご、ごめんなさいっ」 左手を解いて飛び起きる。その拍子に狭いシングルのベッドから落っこちそうになって、結局ラビの胸元にしがみつく。
 「...ごめんなさい......」 耳まですっかり赤くして、アレンは謝った。
 「いや...なんかもう、別にいいんだけどさ...」 カーテンの隙間から差し込む陽の光が、やたらと目に染みる。朝からすでに疲れた声でラビは云った。



 朝食を済ませ宿をあとにして、ラビはアレンを連れてグレーター・ロンドンへ向かった。午前10時ちょうどに発車するエディンバラ行きの列車に乗るためだ。駅のホームへ滑り込んでくる汽車を、アレンは物珍しげな目で見ていた。好奇心に溢れたそのようすは、まるでちいさな子どもだった。
 「汽車見ンの初めて?」
 「はい! どうしてあんな大きくて重そうなものが動くんでしょう...」
 「石炭やコークスを燃やして水を温め蒸気をつくる。そいつを溜めてシリンダに送り、ピストンを動かして主軸に力が伝わり車輪が動く...要するにこういうもの、、、、、、の動力とするのに複雑な機構があるってだけさ。理論はいたって簡単・湯気で動かすってだけ。古代アレクサンドリアのヘロンだって気付いてたことさ」
 「...ヘロンって...三角形の面積を求める公式の?」
 ラビはピュウッ、、、、と口笛を吹いた。 「よく知ってるじゃん」
 「幾何学ジオメトリーは好きです、から...」 次第に尻すぼみな声になりつつアレンは云った。ラビはそのようすを悟ってしばし沈黙した。 「なにか思い出した?」
 ふるり、 アレンが首を振る。 「はっきりとは、」
 「ただ誰か同じように幾何を好んでいたひとがいたような気がして...」 頭痛を堪えるような表情で、アレンは豊かな睫毛の下の瞳を曇らせた。その肩をラビが軽く叩く___ふっと力が抜けて、アレンは口元を綻ばせながら隣に立つ青年を見た。感謝の気持ちを視線に乗せる。隻眼が弓月を描いた。
 「せっかく1等席のチケット取ったんだし、楽しく行くさ」



 「とは云ったものの、暇さ...」 欠伸を噛み殺しつつラビは椅子に座る姿勢を正した。目的地まではまだまだ時間がかかる。向かいの席ではアレンが列車の振動に揺られつつ眠りについていた。
 (よく食べてよく寝て...なんかほんとにお子様だな、)
 本人が聞いたら真っ赤になって反論しそうな感想を、ラビは独りごつ。
 「...Dus Wat is uw mening?」 いつの間にか音もなく客室の中に現れた師に驚くこともなく、ラビは訊いた。老師___ブックマンは両の袖を胸の前で合わせた東洋的な立ち姿で、弟子の問いに吐息のような相槌を打った。
 「...Er ist wirklich die gleiche Person, und diese Person scheint」
 「Il a amnésie,」 疲れたようにラビ。 「Sí,Yo todavía tenía mis dudas?」
 「未熟者の弟子の言なぞ信用できぬわ。Equo ne credite,Teucri」
 「さようで、」 ラビは不貞腐れた様子で窓枠に肘を突いた。 「で、結局どうするさ? Θα τον οδηγησει να λαβει μακρια του καστρου?」
 「そうだな...」 ラビの隣に腰掛け、煙管キセルを取り出したブックマンは、草を詰めながらしばし思案しているようだった。燐寸の擦れる音、かすかなニンニク臭、深々と息を吸い込んだ師の口から吐き出される煙。ラビはアレンが起きやしないかと不安な気持ちを抱えつつ言葉を待った。
 「Os factos permanecer.Ele nosso visitante como se saem o tapete vermelho. よいな、ラビ」
 おそらく師もこの謎の多い少年に並々ならぬ興味があるのだろう。ブックマンを生業とする者としてその判断に異存はなかった。だが自分よりは彼の素性について詳しいはずだ。でなければ、師が孫の年ほども離れたこの少年に対して丁寧な物言いをする理由が解せない。
 「...なぁ、ジジイ。知ってるか?」 相手に爆弾を投下するつもりでその事実を告げる。 「こいつが、寄生型のイノセンス、、、、、、、、、を左手に飼ってる、、、、、、、、エクソシストだってこと、、、、、、、、、、、
 師が驚愕を露わにし、眼前の少年をまじまじと見つめるのを、ラビはどことなく胸のすく思いで見遣った。
 「名前は、アレン。それ以上をオレは知らない」
 師の顔がラビを向いた。感情の読めないブックマンの表情で。
 「...お前にはまだ早い、」
 かちん、、、ときたラビの心情を読んだように、だからお前は未熟者だというのだ、とブックマンは溜息を零した。
 「それに、今ここでする話でもなかろう。いずれ、また―――そら、彼が目を覚ます」
 その言葉に応えるように彼___アレンがちいさな呻き声を洩らした。ついで煙草の煙に咽る。目覚めた少年は自分を見つめる視線が知らぬ間に増えたことに、不思議そうに瞬きを繰り返した。



 彼は父の膝の上にいた。彼は父が大好きだった。
 ねぇ___移動中の馬車の荷台で彼は彼の父に訊いた。どうしてぼくにはおかあさんがいないの?
 「いないわけではないよ、」 穏やかに父は云った。 「子はすべて母の胎から生まれ出る。母のない子はいない」
 ではどうしてぼくのそばにいないの、と彼は訊いた。
 「それはおまえの両親が、塵と死の中におまえを打ち捨てたからだ。」 彼は復活祭イースターに生まれた子だった。生まれてすぐに、両親は彼を手放した。そう事実を告げられても、彼はありのままにそれを受け止めるしかなかった。実の親に捨てられた恨みや悲しみといったものは、ふしぎと彼の裡には湧いてこなかった。ただこの肉体に流れる血の由縁とは、すでに別離してしまっているのだという空虚があった。彼は父に向かってにこりと笑んでみせた。 「でも父さんはぼくのそばにいてくれるんだね」
 「この道を行く限りは、私はおまえを連れていくよ」 彼の頭を撫でながら父は云った。子どもだからといって侮った云い方をしない父だった。ときに彼にとって厳しいことも云う人だった。しかしそれは、父が自分をひとりの人間として扱ってくれているのだという尊厳を彼に与えた。だから彼は父が好きだった。
 父が死んでもなお、彼は父がすきだった。




 「お目覚めかな?」 灰を落とし、竹製の煙管入れにパイプを仕舞いながら老人が訊いた。この人はいつからいたのだろう、 とアレンは目をしばたたかせた。向かいの席で老人の隣に座すラビを見る___彼はにこりと口元を笑みに象った。
 「...ラビのおじいさん?」 「いや、血縁関係はない」 どこか憮然とした口調で老人は告げた。 「この小僧は私の弟子にあたる。」
 「ラビのお師匠さまマスター?」
 「さよう。我らはブックマンと呼ばれるさがの者。故あって今はエクソシストとなっている」___そっと目を伏せ拱手礼する。どう礼を返せばいいのか、少年は困ったようすで眉尻を下げる。
 「祓魔師エクソシスト? カトリックの方ですか?」 やや敬遠するよう云う少年のようすに、国民性をみたような気がしてラビはくつりと笑いを零した。 「いや、ワリィ。べつにアレンを笑ったわけじゃないんさ」 不安そうに身を硬くする少年に愛想良くラビは云った。
 「確かにオレらはヴァチカンとは無関係じゃあないけど、叙階は受けてない。本当の聖職者とは違うんさ」
 「...え? じゃあどういうことですか、」
 「説明する前に、少し左手を見せてもらっても構わないかね?」 老人が云った。厳かなその口調は逆らいがたいちからを帯びていた。アレンはそろりと云われた通り手を差し出す。ふつうの人とはかけ離れた形状の左手を。老人は驚くことも躊躇いも無くその手を取った。指先に嵌められた錆色の金属が冷やりと肌に触れる。 「ふむ、」 じっと視線を注いでいたブックマンは、ひとつ頷くと手を離した。
 「あの、なにか、」
 「これは確かにイノセンスだな、」
 「“イノセンス”___それは、この、ちいさな十字架のことですか?」
 「そうだ」 老人は自らの懐を探りつつ、 「“イノセンス”と“エクソシスト”は切っても切れぬ関係にある。何故ならばエクソシストとはイノセンスを操る者であり、イノセンスとは使い手を選ぶ。見なさい、」 取り出して膝の上に広げられた布の中には、細い鍼がいくつも納められていた。
 「これが私の“イノセンス”だ」
 「あなたの...?」 アレンはまじまじとそれを見つめた。 「僕の十字架とはだいぶん形が違う...」
 「同じものはひとつとしてないさ、」 何処に仕舞っていたのを取り出したのか、ラビが右手でちいさな手槌ハンマーを回しつつ云った。 「ま、原形のイノセンスっつーなら話は別だけどな。ちなみにコレがオレの、」
 アレンは自身の赤い左手をひどく不安そうに見やった。 「...それって、その、道具が身体から生えてきたりしたの? ラビ、」 その言葉に、ブックマン師弟は思わず顔を見合わせた。
 「ないない! それはないってアレン!」 ラビはきゃらきゃらと笑い声を立てた。
 「イノセンスの形態は主として二つ。装備型か寄生型か。それの違いだな、」 再び懐にイノセンスを仕舞いながらブックマンが説明を続ける。 「おぬしは稀にみる寄生型イノセンスインマクラタ=コンセプチオの適合者。教団にとっては貴重な人材と云えよう、」
 はあ、 と溜息つくような声でアレンは頷いた___理解が追いつかない。
 「つまり、どういうことなんでしょう」
 「つまり、」 ラビが云った。 「お前もエクソシストってことだな、アレン」
 「ぼく、も?」 アレンはきょとんとした顔で繰り返した。 「エクソシスト?」
 一般的にそれは、教会における位階で下級に属する悪魔祓いを行う者の名称だ。だがラビは聖職者ではないと断言した。では何者なのか。何を祓い清めるのか、、、、、、、、、
 「ラビと、同じ...エクソシスト。僕が...」 そっと十字架を撫でながら、アレンは呟いた。これがイノセンス___使い手を選ぶもの、とブックマンは云った。脳裏に閃くものがあった。イノセンスに選ばれし適合者___エクソシスト。それが自分。
 途端、宙ぶらりんになった両足が重力を得て安定した足場を得た感覚があった。イノセンス/適合者/エクソシスト___それらが自分であるというひとつの解答。記憶がないのだと気付いた瞬間から、ずっと続いていた不安定な気持ちが、鳩尾のあたりを滑り落ちていく。自分の出自も、名前すらも解らない自分に残っていた、唯一確かで間違えようのないもの___それがこの禍々しい左腕だとは。
 「おぬし、記憶がないそうだな」 静かな声が俯くアレンに問うた。頷く。
 「...気付いたら、道に立っていて。それまで何をしていたのか、自分が誰だったのか、名前もなにもかもわかりませんでした」 そうして途方に暮れていたところにラビがやってきたのだと、アレンは嬉しそうにブックマンに告げた。
 「ラビに話しかけられるまでは、まるで世界からはじき出されたみたいに感じていました。でもラビから仮にでも名前を貰って、いま貴方から話を聞いて、ようやく落ち着いたような気がします」 真摯な瞳___虚偽を知らない無垢な色。観る者の心を逆に不安にさせる。往く道の途中にある者が顔を向けたのは、足跡を辿る途か、未知なる先へと進む途か。
 そうして希望に満ちたちからのある声が、観察者たちが望むとおりの応えを紡ぎ、あるひとつところへ堕ちていった。



 「エクソシスト、そして貴方の云う“教団”について―――是非詳しく教えて下さい」



only the Third.