スヴァディルファリを駆る者の正体
冷えた身体が温もっていくのに彼は安堵の溜息をついた。泥汚れを落とし、あちこちについたちいさな傷に染みる湯にときおり顔をしかめつつ、ラビと名乗った青年に感謝する。ちいさな浴槽に浸かりながら、彼はじっと揺らめく水面を見つめた。灰色かと思っていた髪は洗えば冴えた雪色をしていた。瞳はつめたい冬の色。これがぼく___小さな呟き。
名前を忘れてしまった。
友達も家族も忘れてしまった。
いくら考えても、おそらく居たのだろう、という曖昧な感触しか頭の中には残っていない。確かなのは生活上の基本的な行動を憶えていること、世界についての基礎知識と、英語が話せること、それから―――
左手を持ち上げる。赤黒く爛れたように引き攣れる皮膚。真っ黒で硬く厚い爪。そっと腕をなぞる。肩口でそれは滑らかな感触に切り替わる。感覚は右腕となんらかわりなく、それでも彼の心のどこかを不安にさせた。
いつの日かこの赤に、全身を飲み込まれてしまうような気がして。
同行中の探索部隊に、急用で予定していた帰途の列車には間に合いそうもないので先に本部へ帰還してくれ___無線ゴーレム越しに連絡を入れる。特に理由を追求されることもなく、対応した部隊長はお気をつけてとラビに云い残して通信を切った。
深く溜息。どんなお小言が飛び出すか、覚悟の上でゴーレムを接続させた電話機のダイヤルを回す___回線のオン/オフ、数回のコールののち、交換手が応答。
≪ハロゥ、こちら黒の教団本部通信班第一交換室。ブックマン・ジュニアですね。どちらにお繋ぎ致しますか?≫
「オレんとこのジジイ、ブックマンに。至急だって云ってくれるさ?」 ≪畏まりました。受話器を置いてお待ちください。≫ 流暢な案内、耳に心地良いオペレータの声___セクシーだよなぁ、ラビの雑感。受話器を置いて数十秒後、じりりりりんと受信。
≪ラビか、私だ。何事かね?≫
「えーっと、ジジイ...きょ、今日は大変お日柄も良く...」 一瞬の沈黙。
≪こちらは嵐が来るようだが?≫ 「あ、そう?」
≪...こンの馬鹿弟子めが、今度はいったい何をしおった?≫
いやあ、苦笑してラビ。 「なあジジイ、188X年X月XX日、千年伯爵を訪ねてったろ、あのときさ、」
≪お前にしてはまた随分と珍しい部類の記録だな。それが?≫
「あの白い子って、いったいなんだったんさ?」
≪...なぜ今頃になって気にかける?≫
「いやー、そのなんていうか...なんかいたんだけど、ロンドンに」 ≪莫迦な≫
師の動揺する声___初めて聞く。だよなぁ、となんとなく納得。
「よくわかんねーけどさ、特別なんだろ? 結界付きで存在を護るくらい...」
≪あの方が覚醒めて外界に? それは確かなんだろうな、ラビ≫
「オレの目を疑うのか、ジジイ。ブックマンの弟子の目を?」
沈黙。次いでいつもの冷静な声音。 ≪彼は無事か?≫
「...ひでぇ格好でフラフラ歩いてたんで、とりあえず保護しといたけど。まずい?」
≪...そうか。いや、よくやった、ラビ≫
あれ怒られなかった___ひとまず安堵。
≪...電話では心許ないな。私もそちらに赴こう。何処に居る?≫
通話を終え、ゴーレムを電話機から外して懐に仕舞う。陽が落ちると気温はぐっと下がっていった。初夏とはいえ油断をすればすぐに風邪をひくだろう___ぼんやりと考えながらラビは軋む宿の階段を上る。とりあえずと入った宿はけして上等なものではなかったが、見るからに訳有りの者を泊めてくれる親切さは持ち合わせていた。
鍵を開けて部屋に入れば、ラビが連絡を入れるために出て行く直前に火を入れたストーブがじんわりと空気を暖めてくれていた。ほっと一息ついて、ラビは紙袋をベッドの上に置いた。
中身は真新しい衣服と傷薬だった。ちいさなバスルームへ続く扉の前に立つと、ラビは数回ノックした。はい、と返事がある。開けてもいいかと問えば、あっさりと了承の返事。扉の向こうは立ち込めた湯気で白くけぶり、中には同じくらい白い少年が大きめのバスローブに身を包んで立っていた。
「ラビ、」 ちからの抜けたような声で彼は云った。
「ひとりにしちゃって悪かったさ。ちゃんと温まれた?」 幼い仕種で彼はこくりと頷く。その拍子に髪先から零れ落ちた雫を見とめて、ラビはタオルで彼の頭を拭いてやった。大人しくされるがままの様子に、ラビは慣れているな、と感じる。 「...傷の手当てをしよう。食事はそれからさ、」 できるだけ明るい調子で。 「なにか思い出せたことは?」
タオルの下、ラビの手の中で少年はちいさく首を振った。 「そっか...ま、焦ることはないさ。ゆっくりでいいんだからな」 こくり、動くあたま。髪がおおよそ乾いたところで、ラビはタオルを畳んだ。
ベッドの端にふたり腰掛けて、ラビは向かい合った少年の傷に薬を塗り込んでいった。時折震える身体に、「染みる?」 問えば 「すこし、」 赤く腫れた口元には氷水で絞ったタオルを渡して宛がうよう促す。彼は真っ赤な左手でそれを受け取った。 「その手...」 驚いたように云うラビに、少年はちょっとだけ怯えのようなものを覗かせて、すぐに曖昧な笑みを浮かべた。 「左だけ、色が違うんです。僕の手、」
云いながら彼は袖を巻くり上げた。晒された腕にラビは息を呑んだ。正確には、その手の甲に埋め込まれたものに。
「...この左手と、頬の傷、何か手掛かりになるでしょうか、」 ぽつりと彼は云った。
「きっとな、」 薬瓶に蓋をしながらラビ。動揺が表れないよう慎重に。 「オレのジジイが、職業柄顔が広いんだ。もしかしたらお前のこと知ってるかもしれないし、」 流暢な嘘に (偽善者め) 遥か彼方から飛来する声。 「...知らなかったとしても、出来る限りの協力は惜しまないさ、」
「...ありがとうございます」 俯いたまま彼は云った。落ちる沈黙のあと、ふいに ぐぅ と腹の虫の鳴く音___耳まで真っ赤にして彼は縮こまった。
ラビは溜まらず噴き出した。笑い続けていると彼は恨めしそうにラビを見上げた。 「わりぃ、わりぃ、とりあえず飯喰いに行こうぜ、なっ!」
くしゃくしゃと乾いたばかりの頭をかき混ぜる。まだほんのりと赤い顔をした少年は、出逢ってはじめて嬉しそうな笑みを浮かべた。
宿の1階は食堂で、ふたりは一番隅のテーブルを選んで座った。一見して食の細そうに見える少年は、運ばれてきた料理をぺろりと平らげていく。
「気持ちのいい食べ方するじゃん、」 ラビはミートパイを切り分けながら笑った。イギリス料理を目の前にして仕方がない以外の言葉を口にすることになるとは。
「ご、ごめんなさい...」 フィッシュアンドチップスを飲み込んで彼は云った。 「奢ってもらってるのに、」
「いいって。腹減ってんだろ? 遠慮せずどんどん食べるさ、」 くたくたのトマトをフォークに刺してしばし眺めたラビは、観念したようにそれを口に放り込んだ。
「ラビは、どうしてこんなに親切にしてくれるんですか?」 グラスに注がれた水を一口飲んで少年は尋ねた。 「...こんな厄介者に、」
「ただのお節介さ、」 何気ないふうに答える。 「あんな状態じゃあほっとくのも後味わりぃし、」
真正面から見つめる銀色___すこしどきっとさせる。ラビは へら、 と笑ってみせた。 「早く記憶が戻るといいな、」
「ほんとに、ありがとうございます。ラビ、」 そろそろと息を吐くようにして少年は微笑んだ。 「ラビに出逢えて、良かったな」
「それはこっちの台詞さ、...えーと、」
「?」 「なんか、話づらいときあるよなぁ。仮にでも名前決めとかないと、」
「僕の?」 少年は数度瞬きした。 「なまえ?」
「そう、名前。おいとかちょっととかで呼び続けるわけにもいかないしさ」
名前、と少年はもう一度唇を動かした。 「ラビが考えてくれるの?」
「えっ...」
「だって、僕よくわかりません」 妙に開き直った口調で彼は云った。 「考えてくれる、でしょう?」
まいったな、とラビは頭を掻いた。 「そう云われてもなぁ...」
「じゃあ、適当に僕に似合いそうな名前とか、ラビが呼びやすそうな名前でいいです。それ挙げてみてください。もしかしたらほんとうの僕の名前があるかも、」 それをきっかけに思い出せるかもしれないでしょう? そう云われてしまったら、ラビに否応はない。じゃあ行くぜ、と軽く息を吸い込む。
「ザック、イディー、ザン、ウィリアム、ビッキー、ユーリアン、トーマス、ステファン...」 静かに耳を傾けていた少年は、ふるり 首を横に振った。 「ロバート、フィリップ、オリバー、ニコル、マイケル、ロイド、ケヴィン、ジャック、イアン、ハリー、ジョージ、フランシス、」 ここまで云うと、彼はちょっと目を瞠った。
「どした?」 「いえ...器用だなぁと思って、」
ああ気付いたんだなぁ、意外と聡いのかもしれない___ラビはこっそり感心するとあとを続けた。エリオット、ダニエル、クリストファー、バードルフ___途端に少年がしかめっ面になる。
「僕、そんな風に見えますか? 卑屈な悪役みたいに?」
「嘘うそ、ジョーダン! そんなに怒るなって。“ヘンリー4世”好き?」 憮然とした口調で少年は応えた。 「戦争のあるはなしは好きじゃないんです」 その答えに対するラビの所感___血とか苦手そうだもんな。
「ベネット、ボニーフェイス...」 ラビはちらりと少年のようすを伺った。
「“A”で始まる名前は?」 と少年。 「云ってくれないんですか?」
「Aか...アルジャーノン、アルフレッド、アルバート、アーサー、アーノルド、アレクシス、アンドリュー、アーネスト___これなんか似合うと思うけど、」
ラビの言葉に少年はまたもや首を振った。 「続けてください、ラビ。できるだけ短い音の名前を、」
「アディス、アーロン、アビエル、アンディ、アゼル、アディー、...どう?」
ふるり、白い頭が揺れる。考え込む振りをして、ラビはようよう覚悟を決めた。なるべく自然にその記録に残されていた名前を口にする。
「アル、アリー、アラン...
―――アレン」