初春___ある宗教圏に住むものにとっては復活の祝いの時期の頃、アレンは家族から15の誕生日を祝福されていた。一年の大半を死の呪いに囚われて過ごすアレンにとって、この日目覚めていることは僥倖だった。朝からきょうだいたちが城を訪れ、愛すべきノアの末子に祝いの贈り物とキスをくれた。
「みんな、ありがとう」 照れくさそうに笑いながら、アレンは云った。
「ねぇ、ほら、アレン。ボクと千年公でケーキ焼いたんだよぉ。ローソク、消してね、」 「うん」 ニコニコとフルーツケーキを指差すロードに促されるまま、アレンは一息に消すべくおおきく息を吸い込んだ。15本の灯りはゆらゆらゆれて煙に変わった___ぱちぱちと拍手。 「おめでとう、アレン♡」
「ありがとうございます、千年公」 食卓に所狭しと並べられた食事は、すべて千年伯爵が手ずから作ったものだった。どれもこれも食材・味付け共に一流の品。ティキがふざけて侍従の真似事をしてくれた___アレンの席の椅子を引く/絶妙のタイミングで着席をエスコート。 「似合ってるよ、ボジー」 こめかみにやわい温もり。すぐそばに光る
血の鋼玉
=ティキからのプレゼント。カッコつけすぎ___双子の揶揄い/気障だねぇ___ロードの呆れ。
「耳たぶが重い気がします、」 苦笑してアレン。ビルマでの任務からなかなか戻ってこないと思っていた兄は、どこぞで一流のクラフトマンにこのピアスを作らせていたらしい。間に合わなかったらどうするつもりだったんだろう、と思案___この兄ならなにがなんでも間に合わせてしまうような気がする、と納得。
全員が席に着き、空のワイングラスを手に取る。アレンはちらりと千年伯爵を伺った。ニコニコ笑い___ひどく上機嫌。視線が合い、アレンはちいさく首肯した。食卓に整然と置かれたナイフを取り上げる___純銀製のそれを右手首に添えた。一息に引く/切り裂く/途端に溢れた血が下にあるグラスに零れ落ちる。同様に家族全員のグラスにもみるみるうちに血が満たされる。頃合を見計らって、アレンはナイフの代わりにナフキンで傷を押さえる。隣の席のロードがアレンの手に手を重ねてにこりと笑った。
「では、我々の未来に乾杯♡」
合図と共に、きょうだいたちが自分の血を飲み干していくのを、アレンはぼんやりと見守った。傷口はもう塞がっていた。それが美味しいものなのかどうか、アレンは知らない。自分で自分の血を飲む気には到底なれそうもない___ちいさく嘆息。でもそれは些細なことだった。必要とされるのならば、アレンはいつだってどれだけだって、みんなのために自らを捧げられる。ひとりぼっちだったアレンに居場所と家族の温もりをくれた千年伯爵には感謝してもしきれないし、直接の血縁関係はないものの、ノアの一族は正しくアレンのきょうだいたちだった。だからアレンに迷いはなかった。この、15の誕生日までは。
千年伯爵からアレンへの贈り物は、数冊のテクスト___帝国にあるパブリックスクールへの編入資格だった。 「ほんとうに?」 アレンは半信半疑、期待の入り混じった瞳で伯爵に聞き返した。
「ほんとうに、外に出て自由にしてもいいんですか、」
「ええ、可愛いアレン。もう15ですし、ブリテンの学生としては遅いくらいですが、貴方ならば大丈夫でしょウ♡ それに、身体のほうも随分と丈夫になってるみたいですシ♡」
「...たしかに、最近はすこぶる調子が良いみたいです、」 かすかな微笑を浮かべながらアレン。
「学校は全寮制でス♡ ここを離れて、すこし外の世界がどんなものなのか、知っておくのも良いでしょウ。今後のためにも、ネ♡」
「はい、千年公」 テクストを両腕で ぎゅっ と抱きしめながらアレンはふかく頷いた。 「ありがとう、僕頑張ります。」
そうして、ノアの末っ子は意気揚々カレー海峡を越えて女王のお膝元へと旅立って行った。旧い伝統ある学校の
寄宿舎での寮生活は、アレンに不安と気疲れをもたらしたが、それ以上に新鮮さと歓びをもたらした。時期外れの大陸からの編入生に対して、
監督生はとても親切だったし、寮長である教師も丁寧だった。唯一心配だったのは、アレンの左頬に走る引き攣れた赤い傷痕について興味本位に詮索されることだったが、不慣れな編入生に対して不躾な質問をするような生徒は存在しなかった。だれもがおそらく事故かなにかの痕なのだろうと、慮って訊かずにいた。それがアレンにとっては嬉しく、またほんのすこし申し訳ない気持ちにさせるのだった。
ある日、初夏の陽射しも暑い日、アレンは親しくなった友人たちに誘われて独特のルールとスタイルをもつ
球技に参加していた。友人と上級生からまずはゲームのルールについて説明を受け、背中を押されて輪の中へ入れてもらいプレイを楽しんでいるうちに、それは起こった。
最初のうちは
初心者を混じえていることもあって、比較的なごやかに行われていたゲームは、いつのまにか皆が恐ろしいほど真剣に勝敗を気にするようになった。些細なミスやペナルティにプレイヤーである生徒たちが不満を表し/憤慨し/激怒し/言い争う。やがてその波はとめどなく広がっていき、ついには観戦していただけの生徒も巻き込んでの乱闘になった。事態を収めるべき監督生までもがそれに加わり、騒ぎを聞きつけ止めに入った教師までもが殴り合う。ひとりアレンだけが呆然としたまま取り残された。ひとが変わったとしか思えない友人や教師たちを、止める術もわからぬままに。アレンよりもずっと小柄な下級生が取っ組み合う輪の中から弾き出されたのに、棒立ちになっていたアレンは はっ と気を取り直して駆け寄った。
「だ、大丈夫? どこか怪我、」 「おまえだ。」
ぐっ と腕を遠慮無しのちからで掴まれて、アレンは顔を歪めた。 「お前だ。」 怒気の篭ったおどろおどろしい声。とても下級生のものとは思えないしゃわがれた老人のようでいて、無骨な男の声。
全身が粟立つのを、アレンは感覚した。耳が痛いほどに静寂を伝えてくる。先程までの乱闘騒ぎが、一瞬で動きを止めていた。腕の痛みを堪えながら、アレンはのろのろと顔を上げた___恐ろしいほどの予感/その的中。
しろく小柄な身体はあっという間に襲い掛かった黒い憎悪の波に呑まれて、消えた。
ラビは、任務を終えて黒の教団本部へと戻る帰途にあった。汽車の時間までの暇潰しに、ラビはロンドンの街をぶらぶらと散策していた。通りの店を覗いては、リナリーあたりに土産でも買っていこうかと思案しながら歩き、ゆるやかに流れるテムズ川の水面に響く鐘の音を目安に駅へと足を返した。お世辞にも清潔とはいえない通りを近道だからと選んで歩いていたラビは、行く手によろよろとふらつく薄汚れた少年を見つけた。仕立ての良いだろうと思わせるピンストライプのズボンは茶色の水を滴らせ、白のシャツはところどころ裂けていて、泥と血で汚れていた。灰を被ったような頭はくしゃくしゃで、見るからに何か良くないことが___おそらく暴力的ななにか___があったのだと知らしめているのにもかかわらず、その少年に声をかけるものはおろか、避ける者も胡乱げな視線を送る者さえいなかった。まるでその少年がそこに存在してはいないかのように。
ラビは一抹の不安を抱えつつ、歩みの速度はそのままに少年へと近づく。8ヤード、5ヤード、3ヤード、
1ヤード。
「...大丈夫さ?」
少年は突然目の前を人間に立ちふさがれた野良猫のような仕種でちいさく震え上がると、そろそろとラビを見上げてきた。その端正な顔___恐怖のこびり付いた哀れな目。そして、ラビは息を呑んだ___その顔には覚えがあった。数年前、千年伯爵の城、護りに包まれて眠っていた白のこども、目覚める魔法の銀の睛に薔薇色の唇が問う___自分に向かって 誰、と。
突然の眠り人の覚醒にうろたえる自分に、夢見心地のやわらかな声___きみは、あたらしい、きょうだい?
朝靄のなか光り輝く湖面のような、惹きつけられる睛___ゆっくりと近づき、白い綿毛に包まれて消える。唇にしっとりとした温もり。注ぎ込まれるルーアル___目の眩むような歓喜/うろたえる___未知の感覚に。うろたえる___相手もまた。
キスした唇を戦慄かせて、両の目が驚愕と、恐怖と、嫌悪をさっと彩った。絹を割くような悲鳴___駆けつける複数の足音。部屋に飛び込んでくる誰かの影。自分を乱暴に押しのけて錯乱するこどもを抱きしめる男。刺すような憎悪___目の前の男から。自分は何もしていないと、とっさに云い訳したくなるのを飲み込む___千年伯爵と共に駆けつけた師が腕を強く引いた。部屋の外へ追いやられる。そうして自分と師は城を辞去した。師はそのあと数日は渋い顔をしたままだった。
記憶が頭のなかに溢れかえって、ラビはまずおっかなびっくり辺りを見回した。少年はひとりらしく、近くに連れはいそうにない。そもそも連れがいるのならば、こんなに悲惨な格好にはなっていないだろう。
「...あの、」 「うおぉっ、な、なにさ?」 目の前の少年に話しかけられたと一瞬気付かず、ラビは素っ頓狂な声を上げた。少年はちょっと怪訝そうに眉を寄せてから、 「ここはどこなんでしょうか、」 訊いた。
「どこ、って...ロンドン、だけど」
「ロンドン? ブリテンですか?」
「そう、」
「そう、ですか...」 少年は腑に落ちない顔で、 あの、 とまたラビを真正面から見上げた。真摯なふたつの銀。
「ぼくのこと、しってますか?」 「は?」
「だから、あの...」 もごもごと云い難そうに口篭る。 「あなたと、ぼくはしりあいでしょうか? ぼくのおうちとか、なまえ、とか...しりませんか、」
なんてこった。記憶喪失? 冗談だろ。
「あーっと、悪いけど...」 ラビは頭を掻いた___やっかいな相手/関わらないのが正解。少年は見るからに落胆したようすを見せた。ちくりと痛みそうになる良心を全力で無視。云い訳___汽車の時間に間に合わなくなる。
「...そう、ですか...すみませんでした。へんなこときいてしまって。さっきからだれにはなしかけてもむしされるばかりで、ぼく...ありがとうございました」 ぺこり、 頭を下げて少年はちょっと笑ってみせた。まるで白露の輝きのように儚げ。ラビの横をすり抜け、当てもないだろうに歩き出すその足取りはひどく不安定で、危うい。頭からつま先に至るまでぼろぼろな少年のその姿は、彼にはまったく似つかわしくなかった。迷子になってしまった少年___自分の名前すら憶えていない。
ゆっくりと遠ざかっていく足音___たまらなくなってラビは踵を返し、走り出す。怪我をしているらしい少年の腕をなるべくやさしく、そっと掴んだ。
少年がびっくりした顔で振り返る/脳裏に師の渋い顔が浮かび上がる___構うもんかとラビは心のうちで毒吐いた。