じりりりりりりん、 無数にある
電話のひとつが音を立てる。じりりりりん、 千年伯爵は編み物の手を休めると着信を知らせるその音へと目を向けた。ダイヤルのないそれには、おおきく“0”の文字がある。
千年伯爵への
直通電信___知る者は限られている。
伯爵の丸眼鏡が きらり、 光り、手が受話器を持ち上げる。
「マン・アント? ...おや、これはこれは珍しイ♡ ええ、ええ、それは勿論。歓迎いたしますヨ、ブックマン♡」
少年は師に連れられて、とある国の渓谷の奥にある城へとやって来ていた。様式は随分と古いもので、仕える者の気配も少なく、ひそやかにその城はそこに在った。象徴とも云える螺旋階段は、天才であった昔日の人物が建築家として芸術家として完成させた稀有なものだった。師と少年を案内する侍従らしき男のあとについて階段を昇りながら、少年は瞳だけをしずかに動かしあたりを視ていた。階段の数、手すりの細工の色彩やかたち、差し込む日光の明度や影の形、あらゆるものを脳に貼り付けていく。それは少年にとっては息をすることと同義だった。稀有な才能なのだと気付いたのは、同様の才能をもつ師に出逢ったからだ。それからふたりは世界中を旅している。
師は行き先を告げることをあまりしなかった。少年もしつこく訊こうとは思わなかったし、今回もまた同様だった。階段を昇りきり、長い廊下を進んでようやく侍従は大きな扉の前で足を止め、 「主人はこちらにございます、」 云ってかるく扉を叩く。
「どうゾ♡」 しゃわがれた声が弾んだ調子で応えた。扉の向こう側にひとつのまあるい影。貴族の着るような上品な服、奇妙な装飾つきの山高帽。ふしぎな威圧感に少年は ごくり、 唾を飲み込んだ。
「
ようこそ、ブックマン♡ お待ちしておりましタ。そちらはお弟子さんですカ?」
「
さよう、不肖の弟子だ。今年で13になる。よければ見知ってやって欲しい、千年伯爵よ」
互いに旧い言葉で挨拶を交し合う男と師を仲間外れにされた気分で見つめながら、少年は千年伯爵と師の呼んだ男を記録する。黙って師のあとに従いながら、師の目的と意図とを探ることにしか少年の興味は向かなかった。ソファを勧められ、侍従の運んできた焼き菓子を頬張る。自分では静かに室内を見回していたつもりだったが、思いのほかきょろきょろとしていたらしい。師が会話を止めて短い溜息を落とした。 「...そんなに気になるなら少し見て廻るといい。構わないかね、伯爵」
「どうゾ♡ べつに見られて困るものもないですからネェ」
これは体よく自分を追い出す口実かな___少年は思ったが反論はせずおとなしく師のことばに従った。予感などという不確かで曖昧なものを信じるつもりはなかったが、少年はなんとなく二度とこの城を訪れることはできないのだろうと感じていた。それならばこの城を十二分に“記録”しておくのもいいかもしれない。廊下に出て、気の赴くままに歩む。途中少年を見咎める者はだれもいなかった。手近な部屋の扉をノックもなしに開けても、ひとが住んでいる気配は見つけられない。この城、冬は寒くて夏は暑いんじゃないかな___土地の気候を無視した造りにそんなことを思う。頭の中に創られていく城の見取り図と太陽の位置と風通しとを考慮して、少年は城の中でいちばん過ごしやすいだろう場所を推測し探した。廊下を進み、階段を昇り、部屋の数をかぞえながら少年は おや、 と首を傾げた。確かにこのあたりのはずなのに、目星をつけた場所をいつの間にか通り過ぎている。計算を間違えたかと思い、何度か試してみたがやはりおかしい。そこで少年は初めて違和感を___なにか強い意思を感じ取った。今度は注意深く歩を進める。計算どおりの位置で足を止める。横目に見遣ればドアはなくただ壁があるだけ。
ちり、と痛みを感じたのはその時だった。
莫迦な、 少年は思わず右眼を押さえた。眼帯の下に隠した眼、封じた眼___それが、痛む?
どくりと心臓が脈打つ音が耳元でうるさく鳴った。
うそだ___少年が呟く。眼が開く、世界が変わる___見える。目の前に在る観音開きの扉。先程までは形すらなかったもの。吸い寄せられるようにして、少年はその取っ手に触れた。抵抗もなく扉は開かれる。現れたのは無垢な部屋だった。どこか暗い印象のある他の部屋とはまったく異なった、しろく清潔さに溢れた___ひとの気配のある部屋だった。
品の良いソファと揃いのテーブル、その上に置かれた読みかけの本___子供向けの童話集。手に取り栞の挟まれた頁を開く。ツバメが云う___“I am going to the House of Death. Death is the brother of Sleep, is he not?”
少年は本を元通りに戻すと、奥の扉へと歩み寄った。開けてみてそこが寝室であることがすぐにわかった。彼は初めてみる寝台に興味深げに近づいていった。サテンを幾重にも重ねた白い波を掻き分け進むと、少年は息を詰めた___シーツに埋もれるようにして横たわる、こどもを見つけたからだ。
はじめ、少年は
それを人形だと思った。髪は造り物のように真白であったし、肌は陶器のように艶やかな光りを放っていたからだ。次に屍体ではないか、と思った。人形にしては関節にいっさい継ぎ目がなく、あまりにも自然にそれは在ったが、頬や唇に生気を感じさせる赤みはなく、重ね組まれた両手の爪の色はひどく蒼く、なにより横たわるそれの胸は呼吸に合わせた上下をしていなかった。
死んだばかりの温もりの残滓もどこからともなく匂い立つような“死”の気配もなく、そのまま捨て置かれ腐りかけているわけでもなく___師はこのこどもの死を弔うためにわざわざこの城を訪ったのだろうか。横たわるこどもは澄ました顔立ちをしていた。ちょっとした見た目だけでは性別を判じるのは難しい。少年はそっと近寄り、こどもの顔を覗き込んだ。シーツに手を突けばベッドはやわらかく少年の体重を受け止める。睫毛はタンポポの綿毛のようだった。白い色彩のなかで、頬に走る赤黒い疵だけが痛々しい。閉ざされたこどもの瞳の色を想像していた少年は、
―――だぁれ。
返り咲いた薔薇色の唇がそう象るのを、夢の中の出来事のように見た。