朝は染みひとつないとばかりに晴れ渡っていた青空は、昼を過ぎる頃にはすっかり灰色の雲に厚塗りされていた。弱々しい太陽の光は、廊下に窓枠の影を描くことさえ出来ない。アフタヌーンティーを外でと思っていたけれど、きっとその頃には雨が落ちてくるだろう。ちぇっ、 ロードは呟いた。今日は珍しくきょうだいが集まっているというのに。それもいちばん末っ子のノアが朝からきちんと目覚めている日に!
 千年公、天気を操作できるゴーレムとか造ってくれないかなぁ、アクマでもいいんだけど、考えながらロードは居間に通じる扉を引いた。
 雪解けからようやく春の陽気に包まれて、ここ数日は暖かで過ごしやすい日々が続いていた。とはいえ春の天候は移ろいやすく、この千年伯爵の城は寒冷な土地に建てられたにしては様式が不適当で、ありていに云ってしまえば、寒い。ゆえに暖炉には未だに火が入り続けている。居間は暖かで、そのぶん空気は淀んでいた。暖炉の前で銃を分解していたきょうだいが、入ってきたロードに気付いて顔を上げた。 「よぉ、ロード。久しぶりー」
 「うん。久しぶりデビット。なにやってんの?」
 「掃除中オーバーホール、」 「中身空っぽなのにぃ?」 「ばっか、だから重要なんだよ。点検も兼ねてンのー、」
 デビットは意外と細かな作業が好きだ。バラバラにされた銃は、もう一度正しく組み立て直す事ができるのかどうか不安になるくらいに分解されて、暖炉の前を占拠していた。いつも互いに銃を突き付けあっている双子が、離れ離れになっているのには、おそらくデビットが二人分の銃を掃除しているからだろう。
 ふぅん、相槌を打ってロードは今度は指差しして云った。 「で、あっちは?」
 示された方をちらりと見遣ったデビットは、にやにやと笑いながら答える。 「見てみれば? けっこー面白いことになってんぜ、」 云って手元に視線を戻す。彼は彼ですっかり銃の掃除に夢中らしい。部品のひとつひとつを丁寧に拭き上げる手には淀みがない。
 双子の片割れに云われたまま、ロードはデビットから離れて そちら へと歩み寄った。王に見放されて空っぽだったこの城に、家具を運び込み改装を施したのは千年伯爵とロードだった。彼女の気に入ったソファーとテーブルで、硝子製のチェスセットで対戦しているのは、もうひとりの双子の片割れと、
 「ティッキー?」
 「ん? ああ、ロード。なんだお前いたの、」 煙草を咥えながら、男が振り返る。普段は各地を放浪している根無し草のノア。
 振り返ったティキの額をロードは がこ、 手にしていた何かの入れ物で叩いた。 「いるに決まってんじゃん。ここを何処だと思ってるのさァ、」
 悪い悪い、全く謝罪する気のないようすで男は云った。目が真剣に盤に注がれている。ロードはふたりの間を覗き込んだ。うつくしい硝子の駒と盤を扱うのは、普段ならばここにはいないノアの末っ子と誰か___たいていは千年伯爵かロードだ。ティキがここでチェスをするのは、ひょっとしたら初めてなのではないか。
 顎に当てていたティキの手が、透明な駒を掴んで動かそうとしたところを、 ひょい と奪い去ってロードはかつりと盤に置いた。ティキが進めようとしていたマスとは違う場所へ。ヒヒッ、 それを見ていたジャスデロが引き攣れた笑い声を洩らす。
 「...ちょっと、邪魔するなよ、」 不満露わにティキはロードを睨んだ。少女は だって と言葉を区切ると、自分が打った一手に対して返された一手に、すぐさま次の駒を動かした。 「このままじゃあ24手もしないうちにティッキーの負けだよぉ、」 「ヒヒ! 不様!」
 「お前らね...」 口の中が苦い気がするのは、けして煙草を噛み切りかけたせいばかりではないはずだ、とティキは思った。ティキの持ち駒はあっという間にロードに奪われて、盤上では凄まじい反撃が始まっていた。悔しいけれど実力差を認めないわけにはいかない。
 「ヒヒ! ロード強い、」 カツン。
 「ありがと〜。だけどジャスデロも結構イイ感じじゃなぁい? 知らなかったなァ、チェスできるならもっと前から遊べたのにぃ」 カツン。カツン。
 「ティキ負かそうとしてたんだけど、デロが負けそう!」 カツン。カツン。
 「ボクよりアレンの方が強いよぉ〜。千年公と対等にやり合えるのってアレンくらいだもん」 カツン。
 カツン。カツン。カツン。他愛のない会話をしながら、二人は駒を進め、奪い合い、ゲームを終盤へと導いていく。ティキはつまらなさそうにそれを眺めた。
 かつ。少女が丁寧に硝子の駒を硝子の板に置いた。 「うーん...引き分けステイルメイト、かな、」
 「ヒヒ! 残念!」
 「え、なに? これって引き分けなの?」
 「ティッキーはルール覚えることから始めた方がいいと思うよぉ、」 「ヒヒ! 覚えろ」
 ふたりから揃って呆れ顔で云われ、ティキは大人しく肩を竦めた。 「ソウシマス、」
 ロードとジャスデロは改めてゲームを始める気らしく、手際よく駒を初期位置に並べ直していく。仕方なくティキはジャスデロの向かいのソファーを少女に明け渡した。ジャスデロがポーンを握る。
 「いきなりどうしたの、チェスなんてさ?」 ロードはティキに向かって訊きながら、ジャスデロの右手を示した。白くけぶった硝子細工が現れる。ロードが後手。ジャスデロが盤をくるりと回した。
 「アレンとチェスがしたいんだってさ、」 ジャスデロが駒を動かす。ポーンをe4へ。ロードが受ける。ポーンをc5へ。淡色しろ=ジャスデロがナイトをc3/濃色くろ=ロードがナイトをc6へ。
 「ふぅん? アレン強いからさぁ、コテンパンにやられちゃうよ?」
 「...あの子ボジーなら少なくともお前らよか優しく教えてくれそうだけど、」
 「ニヒヒ、何事も実践が一番!」 「そゆことぉ」
 この場にアレンがいれば、ロードの打った手はオープニングのひとつシシリアン・ディフェンスで、黒番で積極的な反撃を志向して勝ちを狙いにいくのに良い定石なんですよ、と微笑みながら丁寧に説明してくれたのだろうが、生憎とその末のノアは不在だ。
 「...そういえばボジーは? 俺まだ見かけてないんだけど、」 3手目のポーンがg3/g6へ動き、次いで4手目でビショップがg2/g7へと動く。
 「ボクも見てないんだよねぇ、」 「ヒヒ! アレンならどっか行ったよ、」
 何処に? ティキが視線で問うのに答えたのは、デビットだった。
 「スコップ持って歩いてるの見かけたぜ、」
 「ああ、じゃあきっと中庭だねぇ」 嬉しそうに云ったのはロード。
 「庭の手入れしに?」 理解できないと首を傾げるジャスデロ。
 『けっして咲かずに枯れる庭の花! 世話をするのはアレンだけ!』 ジャスデビ、、、、、の斉唱。
 ティキの沈黙。
 「アレン、まぁだ諦めないんだねぇ。そこがいいところなんだけどさぁ」
 「ねぇ、どうしてあの庭には花が咲かないの?」
 定石に従った序盤を済ませたところで、淀みなく動いていた二人の手が一旦休まる。勝負には関係のない会話___頭の中では白黒双方の意図の読み合い。
 ふふ、ロードは楽しくてたまらないといった顔で笑う。ジャスデロとの勝負も、今頃たったひとりで土いじりをしているのだろうアレンのことも。 「呪われてるからだよぉ、」
 「げ! マジかよ、初耳だぜソレ!」 デビットが飛び上がる。そういえば彼ら双子の部屋は中庭の正面あたりだったろうか。ティキはふと考えた。本当ならば少し...いい気味だ。
 「ホントだよぉ、」 ロードは云う。キングサイドを一気にこじ開けようとする白の動きを、柔軟に駒を動かして封じながら、白へと切り込む隙を探す。
 「アダムが呪われてるんだよ。血を吸って穢れた...だからアレンがいくら種を蒔いたり、苗を植えて手を掛けても、ぜったいに花が咲いて実を結ぶことはできないの。呪いが命を絶っちゃうから...」
 クスクス。笑うロードを、ジャスデロがふいに見つめた。
 「なぁに? もう降参?」
 「ヒッ! 違うよ...」 駒を進める動きのなかで、視線だけが奇妙に動く。ジャスデロが云えず押し黙った理由を、ティキはその視線の先に見た。部屋に入ってきたロードが、自分の額を叩いた時に使われた物。隠すでもなく置かれた、何かの入れ物___ブリキの缶に貼られたラベルには、緑色のゴシック体で<herbicide>の文字が踊っていた。

 

 

 

the Desperate future.