城に戻ったふたりを真っ先に出迎えたのは、ロードの膨れっ面だった。
赤い絨毯の上に仁王立ちした少女は、ティキとアレンを交互にじろりと睨みつけてアーモンド型の瞳を眇めてみせた。
「お帰りィ、ふたりとも。いったいドコにハネムーンしてきたわけぇ?」
その口調には怒りが滲み、場の空気は彼女の発する気で肌がぴりぴりするほど張り詰めていてアレンは唾を呑み込んだ。対してティキはといえば、さほど緊張してもいないようすで軽く肩を竦めていた。
「3日も帰ってこないほど遠出するなら、ボクの
能力でパパッと送ってやったのにさぁ」
「ローディア、ええとその、君はちょうど不在で、だから、」「アレンはちょっと黙ってろよぉ」
ぴしゃりと云い放って少女はアレンから視線を外すと、口元を歪めてティキの前に数歩、足を進めた。手にしていた馬術用の鞭の先を、ぴたりとティキの顎先に突きつける。
「...千年公に無断でこの子を連れ出して、いったいどういうつもりなわけぇ? ボクや千年公がどれだけ気ィ使ってこの子のこと護ってるのか知らないわけじゃないでしょお?」
「もちろん、ロード」 ティキは穏やかに少女を見下ろしながら答えた。 「だから気をつけたつもりだよ。旅先でアレンが口にするもの、触れるもの、すべてね」
少女はその言葉を嘲笑うかのように鼻を鳴らしてみせた。 「気をつけた
つもり? それじゃあ困るんだよ!」 こんな風にヒステリックになるのは断じて彼女らしくない。ロードが感情的に声を荒げるのに、アレンは驚いた。しかし彼女が鞭を持った手を振り上げたのを見て慌ててティキとロードの間に割り込んだ。
「待ってローディ! 僕が我儘を云ったんです、だから...!」
「どきなよ、アレン。ボクは今サイッコーにムカついてンだからさァ!!」
「どきません! そんなもの、家族に向かって振るっちゃいけない。落ち着いて、話を聞いて、ローディア。僕はこの通り元気だし、ちゃんと此処にも帰ってきたでしょう? もう君に断り無しに出掛けるなんてことしないから、だからやめて...!」
そう必死に云い募ったアレンを、ロードは一瞬切なげに見たが、すぐに怒りの視線をアレンの背後___ティキへと向けた。
「...なんで、ティッキーばっかり庇うんだよぉ...」 押し殺すような、低い呟きが少女の喉から零れた。ロードはまるきり癇癪を起こした子どものようだったが、アレンは気の強いこの少女が、今にも泣き出すのではと思い、気が気でなかった。そんなアレンを安心させるかのように、大きな手が肩に触れた。ティキだ。アレンを横へと押しやるように、力を込めてくる。
「下がってなさい、ボジー。ロードとはちょっと腹割って話し合う必要がありそうだ...」 彼は口元を吊り上げると、ポケットに突っ込んでいたシルクの手袋をゆっくりと両手に嵌めていく。
「ティキ...? なにを、」
まさか、とアレンは自分の身体を遠ざけるティキをゆっくりと見上げた。
「...そら、その鞭俺に当ててみろよ。
当たればのはなしだけどな、ロード?」
少女の顔から感情の一切が払拭され、互いの紫が明確な
殺意を灯し、鞭が唸った瞬間。
「やめなさイ♡」
絶妙のタイミングでふたりを止めたのは、千年伯爵その人だった。
「こんな玄関先で、みっともない。ふたりとも、そこで引かないとお仕置きしますヨ。アレンが困ってるじゃないですカ♡」
「公...」 いつの間にかアレンの両肩には伯爵の手が置かれ、ふたりを止めようと飛び込むべく動き出そうとしていたのを押しとどめられていた。アレンがびっくりして背後を振り仰ぐと、伯爵はいつもの笑顔を にっこり と浮かべてみせた。
「お帰りなさイ、アレン。心配しましたヨ♡」
「...ただいま戻りました、公。黙って出て行ってごめんなさい......」
「ちゃんと反省してるならいいんですヨ♡ 男の子はやんちゃなくらいがちょうどいイ。元気そうでなによりでス♡」 伯爵はアレンの真白な頭を撫でた。本当に伯爵が自分を許してくれているのかはわからなかったが、アレンはもう一度ちいさくごめんなさいと呟いた。
「さて! アレンとティキぽんも帰ってきたことですし、少し早いけれどティータイムにしましょうカ♡ ロード、アレンと先に行ってお茶の仕度ヲ♡」
「えー...」 少女は不服そうな声を上げたが、やがてしぶしぶと鞭を手放してアレンの腕を取った。 「わかったよ、千年公ぉ。行こ、アレーン」
「ちょ...ちょっと待ってローディ! 千年公、あの、ティキを...!」
ロードに腕を掴まれ、半ば強引にアレンは引き摺られていってしまった。子どもの不安そうな瞳が、廊下の角の向こうへと消えるまでティキを案じていた。
しばしの沈黙のあと、伯爵はティキに手袋を脱ぐよう促した。大人しく従う。
「...さて、ティキ・ミック卿」 「弁解することは何もないスよ、千年公」
ふむ、と伯爵は思案する振りをした。手にしていた傘をくるりと振り回すと こつん と床を叩く。ぎらりと眼鏡の奥の瞳を光らせて、伯爵は口を開いた。
「あの子の身体は一人のものじゃないんでス。そのあたり、慎重になってもらわないト♡」
「スイマセンっした」 平坦な口調でティキは云った。乱れて額にかかる前髪に指を通す。
「まァ、トラブルもなかったみたいですし、今回は大目にみましょウ♡ ただし今日のお茶会に参加することは禁じまス♡ いいですネ?」
反省の色の片鱗すらも見せないティキに、千年伯爵からのペナルティ。ふたつ返事するティキを残して、伯爵はロードとアレンが消えて行った廊下を進んでいく。虚ろにその背中を見送ったティキ・ミック卿は、おもむろにシガレットケースから紙巻煙草を取り出して口に咥えた。
「家族って面倒くせーな......」
ぐいぐいと腕を引っ張り自分を先導する少女に、アレンは必死に云い訳していた。
「...だから、僕もその、てっきりティキは公から許可を貰ってるものだとばかり思ってて...途中で云われて、連絡入れようとしたんだけれどもう海の上だったし、それで、その...ごめんね。」
「それは、もぉいいんだってばあ」 ロードは興味なさげに退屈な口調で返した。 「それよりもぉ、」 少女は云うと、目的の場所の扉を開いてアレンを押し込んだ。
「ローディ? ここ、」 「ほら、全部キレイにしちゃいなよ。なんのバイキン持ってきてるかわかりゃしない!」
「......まるで家出して帰ってきた猫みたいな扱い...」
「あれぇ?
消毒液頭からぶっ掛けたほうがよかったの? アレーン」
「
よしてよ、ローディア...」 きゃはは、メゾソプラノの笑い声がシャワー室の壁に反響して広がる。アレンは苦笑しながら衝立の陰へと移動した。備え付けのボックスの中に上着を脱いで放る。タイを緩め、シャツの釦を外しながら、ふと気付いてアレンは衝立の向こうの
姉へと呼びかけた。
「ローディ?」 「なぁに、」 ふしぎに甘さを感じさせる声がのんびりと答えた。
「...いや、あの、いつまでそこにいるの?」
「いちゃダメぇ?」
駄目っていうか、 口篭りながらアレンはシャワーの
蛇口を捻る。 「落ち着かないよ、」
冷たい水はやがて温かな流れを作りだす。砂埃で汚れただろう髪を一通り濡らすと溜息が出た。シャンプーの液を手に取るとほのかに花の香り。中庭の手入れをしていないことを思い出した。ああ、きっとまた枯れている。
「ねぇアレン」 話しかけてくるロードの声に黙って耳を傾ける。 「何処に行ってきたの、」
「...その、ちょっとカイロまで、」 目を瞑りながら答える。エジプトぉ? ロードが呆れたように息を零したのが水音混じりにはっきりと聴こえた。
「日蝕を、見てきました」
「...あーなんか聞いたかも。皆既のショウがあるって、」
泡を立てて全身を念入りに洗う。
そとに出るのはほんとうに久しぶりで、その分恐ろしかった。ロードの云うとおり、どんな穢れに触れてきたのだろう。ティキは気を配ってくれていたし、アレンだって気をつけてはいたけれど。黙々と洗い、湯で流すうちに安堵の気持ちが大きくなる。目覚めたばかりなのに、
また死ぬのはごめんだ。 「どうだった?」 ロードの愉快そうな声。綺麗でした、と返す。
「きれいで...静かで。太陽も月も穏やかだった。空だけが慌てるみたいに色を変えて。ただ静かに始まって、そうしてすぐ終わっちゃった...」 閉じたままの瞼の上に蘇る黒い太陽。
「...アレンがなにを考えたのかわかるよ、」 水音越しにロード。どきりと心臓が跳ねる。
「ローディ、」 「こんなふうならいいのに って思ったんでしょう、」
「
最後の日がそんなふうに心安く美しいものでありますようにって、思ったんでしょう」
振り返ると、ロードがいた。手が伸ばされる。濡れるのを厭わずにアレンに触れる。哀れむ。 「...バカなアレン、」
少女の名前を呼ぼうとして、吸い込まれて消える。触れ合う唇はいつもあたたかでやわらかだった。涙がこぼれそうなくらい。
「...そんな感傷、ティッキーにわかるはずもないのに、」 間近で拗ねたように云う姉に、アレンはゆるりとただ笑みを返した。
(そしてあなたは解ってくれるのに、叶えてはくれないんだ)