「おかえりなさいませ、ティキ・ミック卿」
そう云って深々と腰を折ったのは、アクマのメイド達だった。ティキはああ、とか気のない返事をしながら、シルクハットとステッキを無造作に身体の横へと突き出した。それを慣れた仕種でメイドのひとりが恭しく手に取る。
ティキは彼らに目もくれずに、勝手知ったる千年伯爵の城の回廊を進んで行った。無駄な広さに辟易しながらも、辛抱強く目的地に向かって歩き続けた。
城でいちばん日当たりの良く、それでいて風通しも良い部屋の扉を彼は軽くノックした。コン、コン。
返事がないままに、やや乱暴に観音開きの扉を開け放つ。部屋の中はこの城の他の部屋とはうって変わって、しろくあたたかく、乳飲み児のあまさと清潔さを感じさせる内装、部屋の主を体現したかのようで、ティキはいつも少しばかりの幻暈を感じずにはいられない。しかし気後れすることもなく、彼は漆黒を纏って足を踏み入れた。奥の扉をもう一度、今度はなるべくそぉっと音を立てずに開く。そこは寝室だった。天蓋から幾重にも手織りのレースのカーテンが静かに下りている。彼はそれを一枚ずつ掻き分けていく。白い波の中に、部屋の主が眠りに就いていた。透きとおる白磁の肌、白銀の髪、まだあどけないこどもの寝顔。ティキの同胞、けれど一線を画した存在。白のノア。
「アレン」
囁く。けれどこどもは目を開けない。ティキは柔らかなシーツの上に腰を下ろし、青白い顔色のまま死んだように眠るこどもの、胸の上にそっと重ね置かれた手を取り、その掌に口付けた。 「Acorde, Bosie」
静寂の後、こどもの瞼がゆっくりと持ち上がり、水銀の睛に光が射す。
「...ティキ?」 こどもは不思議そうに瞬いた。「まだお仕事終わってないのじゃあ...」
「終わったよ、」 ティキは再びアレンのてのひらに懇願の
接吻を落とした。
「おかえりをくれないの、」
「ぇ...、おかえり、なさい、」
薄く頬を朱に染めてぼそぼそと云うアレンにティキは笑いを零した。
「ただいま」 そうして手触りのいい細い髪をくしゃくしゃとかき混ぜると、こどもは厭そうに目を細めた。ちっちゃな子みたいにしないで、といつも云うアレンのすべてが、ティキにとってはいとけなくてならない。
アレンは仕方ないな、というふうに溜息ついた後、ようやくシーツから身体を起こして云った。
「僕はどれくらい
死んでたのかな、ティキ」
「そんなふうに云うものじゃないよ、ボジー」
「でも事実だもの」 アレンはそっけなく云うと、ふい、とティキから顔を背け、手を解いてベッドの反対側に足を下ろした。
男は黒い
礼装の肩を困ったように竦めたあと、壁際にある紐を強く引っ張った。それを見ていたアレンは、別にメイドを呼ばなくてもひとりで着替えくらい出来るのに、と口を尖らせた。
「ちょっと急ぐんでな、」 え、とアレンは訊き返した。そしてすぐに顔をさあっと蒼褪めさせ、
「ま、まさか公がお呼びですか?! どうしよう早く仕度しなくちゃ...ああスーツは何にしよう? 下ろし立てのがいいかな、それともお気に入りの......」
「こらこら、ボジー。落ち着きなさい」
「何を悠長に構えてるんですティキ...! 公がお待ちになってるんでしょう? 手伝っ、て、」 云いながらアレンはナイトシャツの袖を抜こうとして、四苦八苦していた。慌てすぎだ。
「バスタ、アレン。べつに千年公はお前をお呼びじゃないよ」
「なんだ...」 明らかな落胆と共に、ほっとした表情でアレンはティキを見上げた。すると今度はまた拗ねて頬を膨らませる。表情がころころと万華鏡のように様変わりして、見ていて飽きないなとティキは思った。
じゃあいったいどうして急ぐ必要があるの、とアレンが訊いたところで、寝室のドアがノックされた。入れ、というティキの声のもと、数人のアクマがベッドの周りに侍る。ティキは長い足でアレンの立つ側へと回ると、子供の薄い肩を抱いてレースカーテンを押しやり、メイド達にその身体を預けた。
「ティキ...?」
「正装でなくていい。簡単に仕度が整ったらおいで。隣で待ってる」
「お待たせしました、ティキ」 寝室の扉が開かれる音に彼は目を通していた本から顔を上げた。と、同時に片眉だけが器用に跳ね上がる。
「もっとラフな格好で良かったんだぜ、」
頁を閉じた本をソファの上に放る。こどもはその扱いが不服だったらしく、溜息をついたあと
天鵞絨の布の上からシンプルな装丁の本を取り上げ、ていねいに机の上に置き直した。そうして立ち上がったティキに目線を合わせるために、アレンは頤を前に突き出す。
「これがせいいっぱいです、」 アレンは軽く両腕を広げて自分のブラックスーツを示した。確かにそれはアレンが与えられている服のなかでは地味な部類のものだった。
「それにティキがフロックなのに、これ以上崩したら一緒に外なんて歩けない」
「俺は後から脱ぐ気でいたんだが...まァいいさ。じゃあ、行こうか」
「いったい何処へ?」 アレンは自分に差し出されたティキの腕に手を掛けながら訊ねた。
「カイロ」 「へぇ...カイロですか、そぅ...は?」
こどもの睛が形の良い真珠みたいに丸くなった。次の瞬間には、胡散臭そうに歪められてしまったが。
「ひょっとして、ピラミッドでハイド・アンド・シークしたくなったとか云いませんよね?」
「レアルメントェ!」 アレンのことばをティキは笑い飛ばした。そしてふと気付いたように、
「さてはロードだな?」 そう訊ねられて、アレンは幾分顔色を悪くして頷いた。
「この間、モヘンジョ・ダロで鬼ごっこさせられましたよ。そしたら次はピラミッドでかくれんぼしたいねぇ、って。」
「それはそれは、」 災難だったな、と男は苦笑する。「次は俺も混ぜてくれよ、ボジー?」
ティキが急ぎ足で廊下をゆくものだから、絡ませた腕をリードされたままのアレンはすっかり小走り状態だった。
「どうしてそんなに急ぐんです?」 絨毯に足を取られて転ばぬよう気をつけながらアレンは訊いた。すると悪戯気に笑う
滅紫が答えを含ませたままに見下ろし、云った。
「
日の照るうちに干草を作らなきゃならないからさ」
紅海を渡り、運河を遡って、ふたりは砂漠へと足を踏み入れた。
肌を刺すように降り注ぐ光、熱気を含んだ風は黄砂の苦さを含ませているような気がしてならない。白いこどもはひどく眩しそうに顔を歪めていた。ティキは細かな幾何学模様の布をふぅわりと被せてやる。船を降りたときに現地人から購ったものだ。 「ああ、」 生地を手繰り寄せ握り締めながらアレンは云った。
「温度がちがう、」
「だろう?」
同じように頭からすっぽりと布を被りながらティキは笑った。そのままふたりで砂漠に足跡を残していく。ピラミッドがとおくにぽつぽつとしか見えなくなった頃、アレンがふいに顔を上げた。
空は雲ひとつ無く澄み渡っているのに、どことなく沈んだようすを見せている。それだけでなく、あれほど熱気のある砂漠の風がいつのまにか奇妙に静まり返っているのに気付いたのだろう。きょろきょろと首を動かしていたアレンは、立ち止まり振り返ったティキの顔を見返した。
「ティキ? なんだか...」
「始まったかな、」 彼は呟くと、懐からちいさな黒色の板を取り出しこどもに手渡した。アレンが不思議そうにそれを眺め入るのに、遮光板だよと声が降ってきた。
「遮光板?」 「ごらん、」
ティキはアレンの手を取って、それを空に向かって翳す。面の向こうに、輝きを落とされたある物が見えて、こどもは目を丸くした。
「...たいようが、」
完全な円であるはずの
陽の右上が、欠けている。
「エクリプス......」
「そう、」
アレンのすぐ耳元で、男は低く囁いた。
「これをいっしょに見たかったんだ」
中天にかかる太陽のもと、ふたり砂漠の真中に座り込んで空を見上げる。金色に輝く砂粒が、だんだんと暗く沈んでいく。砂の海の上を、影の小波が寄せては返す。それはふしぎな光景だった。太陽が月に隠されていくにつれ、世界はむりやり時計の針を進めたみたいに色を変えていく。夜色に染まる世界。遮光板越しの太陽。熱の逃げる足音。月のように形を変えていく光。いつの間にか地平線は茜色に染まっていた。やがて光は三日月よりも細くなって、ふたりは真昼間に輝く星たちを見た。遠くからこちらへ向かって迫る影。
するり、とティキの手が離れて、アレンは板を持っていた腕を下ろした。刹那の沈黙のあと。小さな煌きと共に黒い太陽が
白光を纏って天に座した。
「...きれい、」 細い吐息を零しながらアレンが云った。黒陽をまっすぐに見つめながら、アレンは背中越しに感じるティキの体温に身を預ける。きれい、とこどもはもう一度呟くと、きつく左手を握りこんだ。
ティキがそっとその顔を伺うと、アレンは涙が零れそうになるのを必死に耐えるように幾度も瞬きを繰り返していた。闇夜に瞬く星のように、灰銀の睛はきらきらと光って見えた。夜と勘違いして砂の中から這い出てきたサソリが、アレンの足元をうろついている。ティキはそいつを摘み上げると、遠くへと放り投げた。
「...ティキ?」 「なんでもないよ、ボジー。それよりよく御覧、」 ティキは云いながら空を振り仰ぐ。黒陽に照らされる世界は、ふしぎなほどに澄んで見えた。アレンも大人しくティキの言葉に従って、月影に隠された太陽のひかりを見つめ続けた。
やがて黒い太陽の一角から、一条の光が伸び、それは輝き零れる宝石の姿に変じたかと思ったあと、ゆるやかに強い光に溶けていって短いショウの終わりを告げた。
「...おわっちゃった、」
ぽつりとアレンが云った。世界に再び光が戻る。空の色は絵の具で塗り潰していくようにするすると元に戻っていく。アレンはティキの腕のうちから逃げ出すと、ずり落ちていたアラベスクの布を被り直した。
「帰りましょう、ティキ」 少年らしい、柔らかく澄んだ声が告げた。 「あんまり遅いと、みんなに叱られてしまうから、」
「...そうだな、黙って出てきちまったし、バレないうちに帰らないとな」 ティキは立ち上がり砂を払ってアレンを追い越し歩き出す。黄色に錆び付いたような砂の上を、足跡を頼りに引き返し始めた。そんなティキの背に、子どものくぐもった、泣きそうに歪んだ声が、ちいさくはじけて消えた。
「―――アレン?」
ティキは立ち止まり、背後を振り返った。子どものプラチナの細い髪が、砂漠の風に揺られ、まあるい睛は未だ欠けたままの太陽を見つめ細められていた。
白い睫毛が、ゆっくりと上下したあと、アレンは俯いてそして顔を上げティキに向かって微笑した。 「アレン?」
「...なんでも―――ないです。さあ行きましょう、」
白い頭がティキの胸元あたりを通り過ぎて行く。アレンの歩みは迷いのないもののように見えた。砂漠に風が戻り始めて、纏った布の
幾何学模様が光を弾きながら揺らめいている。ティキは子どもがしていたのと同じく、空を仰ぎ見た。雲ひとつない高い青空に、光り輝く太陽が我がもの顔で座している。
ティキは嘆息すると、ますます小さくなってしまった子どもの背を追いかけるため足を踏み出した。かろうじて聞き取ることのできたアレンの言葉を反芻する。だがアレンがなにをおもってそう呟いたのか、理解できずにティキは掛ける言葉を見失った。
(こんなふうならいいのに、)