あの日への手紙


 告別式が終わったら霧雨が降っていた。
 暗い色の傘が開いて散っていく。弔問客からとり残されて、傘がないことに気づいた。
 冬衣をまとう季節だ。背広がしっとりと濡れていく。
 私は半透明のビニル傘を買い、駅にも火葬場にもつながらない道を歩いた。






 斎場から徒歩で小一時間かかった。私の革靴が私有地の砂利を踏む。
 見上げた先に古ぼけたアパートがある。生活のにおいがしない建築物を、ぐるりと一周する。
 トタン屋根と同じ色の雨戸はすべて閉まっていた。建物と砂利との境目から雑草が生えており、階段も錆びている。
 歩道を歩いていた中年女性が立ちどまった。私有地には入らず、こちらを見ている。
 私は営業で鍛えた笑顔を見せた。
「取り壊されると聞きました。学生時代に出入りしていたものですから、懐かしくて」
 見慣れぬ男に不審を抱いても、話嫌いではないのだろう。女性は私以上の笑みを返した。
「来週には解体業者が入るそうですよ。このごろは学生さんでもこういったところは避けるでしょう。不況とはいっても、ねえ」
 会釈した女性が去っていく。私はアパートを囲うブロック塀にもたれた。二階の端を仰ぐ。
 すすけた壁を見る私の胸に、彼との日々が烈々とよみがえった。






 四十年前の春、大学に進んだ私は、ある青年と同じ物件を争った。
 便所と炊事場が共同で、金も寮よりかかる。湿気る日には便所のにおいが二階まで上がると聞かされた。
 それでも駅と銭湯が近い。女を連れ込みやすいと考えたのは私だけでなく、競争率は高かった。
 唯一の空き部屋は彼のものとなり、私は地団駄を踏んで悔しがった。
 それを見た彼が大笑いしたのがきっかけで、互いの部屋を行き来する仲になったのだ。
 通う大学は違うものの、彼は気持ちの良い男だった。本の虫であったが、酔えば馬鹿話につき合い、よく笑った。
 凛々しい顔立ちの彼が女を部屋に上げる様子がないのは、おくてだからだと思っていた。







 木枯らしが道行く人の襟を立たせた日、彼は私に貸している本が入り用になったと言ってきた。
 ちょうど仕送りが入ったこともあり、私は酒を持って彼の部屋を訪ねた。
 夜も更けきったころ、酒が抜ける特有の寒さで目をさました。
 と同時に、下腹に奇妙な重苦しさをおぼえた。
 誰かが私の名を呼んでいる。女のものではない手が私の下着に入り、陽物を扱いていた。

  おい────────

 声が出ない。
 彼以外にいるはずもなく、私は一服盛られているふうでもない。
 意思とは無関係に腹や腿が引きつり、息を殺して布団の端を握りしめる。
 私の先が熱い手に包まれた。鈴口がくっきりしてきたと自分でもわかる。
 先走りを絡めた指で竿を撫でられ、私の頬が燃えた。かすれた、甘い声が耳を侵す。

「愛している……」

 私は目を見開いた。生唾を飲んでしまい、喉仏が上下する。
 うごめく手が離れた隙を逃さず、私は寝返りを打った。湿った布団を頭からかぶる。
 その夜を境に、彼とは疎遠になった。






 トタン板を雨が濡らす。先ほどより気温が下がってきたようだ。
 私は傘をたたみ、アパートの階段を上った。所々、腐食による穴が開いている。
 彼が住んでいた部屋の前に立つ。郵便受けがあのころよりも大きい。
 表札にも郵便受けにも、彼とは違う姓が薄く残るだけであった。
 喪服の内から封筒を出す。住所も切手もない、彼の氏名だけを書いたものだ。
 四十年前の夜、あと一杯、いや、湯呑み半分多く飲んでいたら、どうなっていたかわからない。
 彼の告白は私の脳髄に直接響いた。愚息が鋼のようになった。
 私は彼を組み敷いてしまうことを恐れた。
 逃げたのだ。逃げた結果、彼が入社した企業も最後の役職も、彼の病名も余命も、何もかも人づてで知ることとなった。
 斎場で見たものと同じ姓を指でなぞる。指はそのまま封筒に入り、一行だけの手紙を開いた。

  俺も愛していた

 手紙を状袋に戻す。郵便受けに入れ、階段を下りる。
 四十年遅れの返事を抱いたアパートから離れ、私は傘をさした。




<  了  >

あとがき

 旧拍手お礼です。少し修正しました。
 古い建築物が消えるとき、解体されるだけでは寂しいので、手紙を忍ばせてみました。
 拍手お礼なのに18禁で死にネタってどうなんだ、と思いつつ(汗)

                                                                             Designed by Pepe