夏カゼにリーチ
シャープペンシルが床に落ちた。おれの部屋と違い、フローリングは小さな音にも容赦がない。あいつの目をさましてしまった。
「……利一。もう帰れ」
おれは、おれの耳に働くなと命令した。落とした筆記用具を拾い、机に向かう。
「うつしたくないんだ。わかるだろう」
おれの耳は、夏カゼで日曜の休みをフイにした英嗣(エイジ)の声を無視するという、単純労働ができないらしい。ひ弱な男が起き上がる前に、おれのほうからベッドに歩み寄った。
「病人はおとなしく寝てるもんだ」
「だめだ、利一。そばにくるな」
「やだね」
おれはベッドのそばに立った。講師を見下ろすってのは、悪くない気分だ。
英嗣のデコには熱を下げるためのシートが貼られてる。冷蔵庫でキンキンに冷やした青くて小さなシートを、午前中だけで三回もかえた。このおれが。
こいつがおれを「トシカズ」って呼ぶからいけないんだ。
最初は違う呼び名で呼んだ。おれのダメスイッチが入る名で。ずっとその名前で呼んでりゃいいものを、ビビり屋の講師は戸籍どおりの名称で呼びやがる。
干からびているシートに触った。英嗣が顔をそむける。おれは、枕と仲良くしようとしてる頬に狙いをつけた。手の平ですくい、枕に埋もれるのを妨害した。
英嗣が平らな声で言った。咳き込むのを防ぐためだろう。
「教え子に風邪をうつしたりしたら、ダメ講師のレッテルを貼られる」
「へえ。おれの健康より、自分の評判かよ」
用なしになった冷却シートを、英嗣の眉毛と一緒にひっぺがしてやった。英嗣は両手で目の上を覆い、わめいた。
「利一! お前はっ!」
病床の軟弱講師は、食べごろのトマトに似た顔色になった。英嗣の眉毛を撫でてみる。所どころ、抜けていた。
おれは日高 利一(ヒダカ トシカズ)。リイチでもなきゃ、リーチでもない。
リーチって呼ぶ同い年のクソどもを、おれは毎日のようにぶっとばした。同い年のクソが消えたら、二年生のアホどもを。そいつらもいなくなって三年のバカどもに照準を合わせたころ、おれの机は自戒室とやらに移された。
二畳間に置かれた机と椅子は、おれを許す者も消えたのだと悟らせた。
「先生さあ。なんで初対面の日に、おれをリーチって呼んだんだっけ」
おれは冷蔵庫から準備万端のシートを出した。透明のビニールをはがし、良心のない笑みを見せてやる。
「お前のパンチをバカにしてたからだ」
そのとおり。事実、そのまんま。
一応高校って呼べるところに入学して、ひと月もたずに退学したおれは、英嗣より頭ひとつ分でかい。ケンカは十歳になる前からたしなんでる。どんなところでもいいから勉強だけはと、お袋が先月、英嗣を連れてきた。
ひょろっとしたフリースクールの講師は、まず仏間に通された。賭け麻雀と酒で早死にした親父に線香を上げ、おれの素行を聞き、ふんふんとうなずいた。
そして言った。
『よろしく。リーチ』
お袋の金切り声をBGMに、英嗣は壁に頭からぶち当たった。
あの日の右ストレートのキレは、我ながら冴えわたっていた。他人の家の仏間で気絶する英嗣を、おれは本気でアホだと思った。
「息子より麻雀って父親がつけた名前だぜ? 命名辞典のかわりに、麻雀牌見てひねり出した名前だ。お袋が 『この子はいい子なんです、リーチと呼ばなければ』 って言ったそばからだもんな。おれより頭の悪いやつがいるんだなって、あんたの学校に通ってみる気になった……けど」
おれは一時停止状態になった。自分の言葉を追う。
おれ今、なんて言った?
英嗣はおれから冷たいシートを取り上げた。にやりと笑い、おれのデコに貼る。
「先生……あんた」
もう一度、勉強してみるか。このアホと一緒に。そんな気に、確かになった。
仏間でノビたお人よしの講師を見て、おれは笑った。ザマあねえや、の笑いじゃない。
お袋には泣いて叩かれたけど、おれの頭は掃除終了! って感じだった。クソ親父があの世にいってからモヤってたものが、きれいになった気がしたんだ。
「おれをスクールに入れるために? そのために、リーチって?」
「さあな。熱があるから記憶も怪しい。もう帰りなさい」
おれはデコのシートをはがした。正しく貼られるべきところ、つまり英嗣のデコに戻す。
戻すついでに、唇を合わせた。
「利一! うつるだろう!」
「バカはカゼひかないっていうだろ。うつったほうが、あんたの評判よくなるよ」
英嗣のひび割れた唇が、ひらこうとした。おれは本日二度目のキスをした。
目をあけた英嗣は、トマト色の顔でおれを叱った。
「利一。冗談でもそんなことを言うな。レッテルを貼られると言ったことなら謝る。だから自分を粗末にするな」
「……わかったよ」
叱られ慣れているはずなのに、英嗣の言葉は効く。戦闘意欲がそがれる。とにかく下降する。ムラムラする気持ちも。
おれは帰り支度をした。汚い言葉も吐かず、物も蹴らずに。
もう一度だけ冷蔵庫をあけた。スポーツドリンクのペットボトルを、ベッド脇に寄せた座卓の上に置く。フタをあけてやったのは反省の証拠だ。
「利一。きてくれてありがとう」
「おれなんかきたって、役にたたねえし」
ちょっとだけ声が震えた。くそ。
「ありがとう、利一」
おれたちが合わせたのは唇だけだ。それも数えるほど。おれがこの部屋にくるようになったのも二週間前からで、手も握ったことがない。頬には触れたことがある。きょう初めて、眉毛に触った。
心は合わせていない。おれはまだ、だれとも。
「布団、ちゃんと肩までかけろよ、先生」
「わかった。気をつけて帰るんだぞ」
きょうの天気は晴れで、今は七月の昼間で、自転車で二十分程度の距離を帰るだけだ。
まじめな男の行儀がいい返事に、おれのダメスイッチが入りそうになった。
「あんたが悪いんだからな。おぼえてろよ」
今度の返事はあいまいだった。眠りかけてるんだろう。
きょうは撤退する。病人を襲うほど落ちちゃいない。
おれはペダルをこいだ。こいでこいで、こぎまくった。
風をきると、萎えていた戦闘意欲が復活した。
< 了 >
リーチと英嗣は以前からあたためていたキャラクターです。当初は、恋人を事故で失って酒に救いを求める英嗣の部屋にリーチが通い、心の交流を期待するリーチを、酒の幻覚によって恋人と勘違いした英嗣が無理に襲う……という、切ないというか暗いというか乱暴な話を想定しておりました。
前向きな部分がないことはなかったのですが、リーチがネグレクトの被害者という設定だったために鬱々としてしまい、キャラをガラッと変えました。書きやすくなり、キャラへの愛着が増しました。
© Harue Okamura. All Rights Reserved.