老いたトナカイが崖のへりに立っています。
崖下からの風にあおられても怯みません。
トナカイは、サンタクロースのもとを去ろうとしているのです。
きょう、最終訓練でのことでした。
生まれつき内側に曲がっていた右の足に、力が入らなくなりました。
仲間に悟られないよう、感覚のない足をかばい、懸命に走ります。
しかし遅れはどうにもならず、心臓も爆発しそうでした。
訓練が終わり、サンタクロースがトナカイを見ました。
今年が最後だろう。
白く豊かなひげは微塵も動きません。
長く共にいればわかります。
トナカイには、主人の内なる声が聞こえたのです。
崖上のトナカイが半歩進みます。
岩の一部と、氷の欠片が落ちていきます。
風は強く、あと少しひづめを出せば、深い暗闇が受けとめてくれるでしょう。
右足に問題のあるトナカイは、食肉になるはずでした。
それがどうした手違いか、サンタクロースに譲られたのです。
『このトナカイは、隊列を整える』
サンタクロースの言葉どおり、トナカイが入る列は乱れませんでした。
勇みすぎたトナカイや、相性が悪い数頭がいても、常に整然とするのです。
ふしぎな力は段々認められ、右足を舐めてくれる仲間もいました。
神が自分に与えた能力が希有であっても、年月には勝てません。
きょうの訓練で、トナカイは死ぬ思いをしました。
大切な仕事の途中で倒れるくらいなら──
経験豊かなひづめが前進しかけたとき、背後から雪を蹴る音がしました。
悪いほうの足を舐めてくれた、若い仲間が走ってきます。
大きくて立派な角を振りかざし、老いたトナカイを怒鳴りつけました。
「怖気づいたのか、ジジイ!」
ひとたび決心したトナカイは、振り返りません。
「おまえにもわかるだろう。無様な走りだった」
「訓練のことか? きょうの」
ああ、と答えたトナカイの心は、また崖下に誘われます。
肉が落ちた尻に、大量の雪がかけられました。
若い仲間が、角で雪をひっかけたのです。
「サンタクロースがあんたを捜してるんだよ」
「下手な嘘を。この忙しい時期に」
夢を運ぶ日まで幾日かです。
どの子が何を欲しがっているか、道すじに無駄はないか。
調べ物や必要な道具の手入れに追われ、眠る暇もないのです。
第一、サンタクロースはトナカイに無理強いすることはありません。
いままでにも、老いを自覚して消えたトナカイを捜しはしませんでした。
「あんたがいないとまっすぐ走れない!」
若いトナカイの声は、年寄りの耳をしびれさせました。
「おれが跡を継ぐ。まだ全部覚えてない。教えてくれ」
老いたトナカイは根負けしました。
崖を離れて凍った陸に戻り、仲間に訊きます。
「わしが倒れたら、綱を噛み切ると約束するか」
「約束するよ、ジジイ」
二頭は雪をかけあいながら、小屋へ帰りました。
ホーイィ! ホーウ!
サンタクロースの声が高らかに響きます。
雨雲を切り裂き、霧を蹴散らし、星くずを尾にして急ぎます。
年老いたトナカイは、からだが軽いと感じていました。
右足には血が通っていません。
けれども、心臓は若いころのように働くのです。
一行は秩序を保ち、夢の配達が終わりました。
ソリが静かに帰還します。
すべてのトナカイが着地したと同時に、老いたトナカイがくずおれました。
仲間がつついても動きません。サンタクロースが降り立ちます。
分厚い手が、務めを果たしたトナカイをなでます。
一頭の若いトナカイがむくろに近づき、冷たい右足を舐めました。
サンタクロースがもうよいと言うまで、舐めつづけました。