没落した武家の娘が遊女になり、波間に身を躍らせた浦がありました。
共に入水しようとしたかつての下女を、娘は渾身の力で突きころばしたといいます。
ごうごうと鳴る海に朱襦袢が消え、下女の涙もちぎれ飛びました。
下女は貧しい男とのあいだに子をもうけました。
よく働き、男亡きあと、憐れな娘らを慰める祠を建てました。
下女が天寿をまっとうしたのち、下女の息子が祠を守りました。
息子は美しい若者でした。
黒髪は浦の者を振り向かせ、手足は初々しい前帯女より白いのです。
若者がわずかな供物を抱えて浜辺を行きます。
浜で働く漁民は、若者に心ない言葉を浴びせました。
拾い海苔じゃあ一年もつまい。魚ァ分けるに、なによこす?
若者は一切合切気にすることなく、母が守った祠をきれいにします。
砂埃をはらい、いたずらと風雨で壊された箇所を修繕します。
最後に供物を供えると、無心で合掌するのです。
空模様があやしい日、若者は祠を囲おうとしました。
ぐるりに板を打ち込む若者に、石が投げつけられました。
いつからいたのか、漁師らが仁王立ちになっていました。
「木っ端が飛んで、うちの網を破ったらどうする!」
「飛ばぬよう、打っ叩きますので」
「切妻が飛んだろうが! わらしに当たったを忘れたか!」
「その節は、饅頭でゆるしてもらいました」
屈強な漁師がげらげらと笑いました。くちびるを舐めずり、若者に近づきます。
「わらしには甘い饅頭でもええじゃろうが、こちとらァ」
足をすくわれ、若者がアッと叫びます。
無骨な手が、粗い布の上から若者の尻をつかみました。
「こっちの饅頭を食うてみたいのう」
頑健な漁師に取り囲まれ、若者は観念しました。
漁具小屋で若者はぼろきれになりました。
若者は何度も倒れ、のたうちながら祠に向かいました。
身のうちで逆巻いていた嵐と裏腹に、雲の切れ間から太陽が見えます。
荒れると思った海も、すっかり凪いでいました。
そのため、祠は無事でした。
俺はこんなになったのに、祠はなんともない。
母は死ぬ間際、若者に祠を守れと言いつけました。
自分の食べる分を減らしてでも、供物を欠かさぬようにと。
廃残した士人たちの幻で、俺は女にされた。
若者は祠を叩き壊そうとしました。
振りあげた手を、強い力がとめました。
「貴人の祠だ。壊しちゃいかん」
若者はからだをこわばらせました。
目の前に、浜で一二を争うマスラオがいます。
人死にが出た時化から生還した大男に、手首を握られているのです。
諦めと、穢される地獄とがせめぎます。
ひいひい泣いて逃れる若者を、マスラオがかき抱きました。
「祠のそばに石があった。血がついとるから、心当たりを締めあげた」
漁師の投げた石でひたいが切れたと思い出します。
「おまえなら、また祠を見にくると思った」
若者は大男の顔を見ず、苧麻(ちょま)でできた衣をわしづかみます。
「祠のせいで、俺の心は死んだ」
「祠のせいじゃあない。悪いのはひどいことをした輩だ」
「とうに終わった、よく知らぬ武家のせいで、俺は阿呆になった」
マスラオが若者の頬をぬぐいます。
「ひとりで守るのが苦ならおれと守れ。一緒に暮らそう」
顔をあげた若者のひとみが、いかつい影をとらえました。
頑固で、孤独で、誠実な顔がありました。
「祠を近くに移せば、通わんでいい」
「俺は──男だ」
「それがどうした。おれがこわいか? きらいか?」
若者は目をつぶりました。きつくつぶり、やさしい魂にしがみつきました。
マスラオとの日々は、若者に明るさをもたらしました。
浜値の高い魚をとるマスラオに負けじと、畑仕事に精を出しました。
家の裏に移した祠には、前より多くの供物を供えられるようになりました。
ふたりは共白髪まで、睦まじく添い遂げました。