ぼくは健康じゃありません。
 週に一度はお医者さまに診てもらいます。

 お医者さまは帰るとき、父さまの書斎に入ります。
 すると必ず、ふたりの話し声がするのです。

 父さまとお医者さまのお話は、日に日に長くなりました。




 きょうもお医者さまがいらっしゃいました。
 からだをていねいに調べ、毛布を肩までかけてくれます。
 そしてご褒美のバタースカッチを下さると、こうおっしゃいました。

「次の週からは、ちがうお医者さまが来るからね」

 ぼくの口は飴でいっぱいで、どうしてと訊けません。
 別のお医者さまなら、ぼくも走れるようになるかしら?
 でもぼくは、いまのお医者さまがいいのだけれど。

 お医者さまが来る日は、父さまもお気に入りの服に着替えるのだもの。
 まなざしもやさしくなって、ご本も読んでくれるもの。

 ぼくは音をたてないように、そろそろと書斎に向かいました。




 書斎の扉は、ちょっとだけひらいていました。
 父さまとお医者さまがハグしています。
 互いの服に深いしわができるハグは、映画のラブシーンでしか知りません。

「匙を投げるのか?」と、父さま。

「あの子は重病ではないよ。手術も必要ない。運動させたほうがいい」

「徒競走で倒れたんだぞ。怖くてできるものか」

「そうやって籠の鳥にしようとしたきみを、細君がたしなめたから」

 お医者さまの言葉が終わらないうちに、父さまがもがくように離れます。

「出ていってくれ」

「悪かった。離婚の原因は、細君にはなかっ」

「出ていけと言ってるだろう!」

 ぼくは赤ん坊のように廊下を這い、ニンジャのごとくお部屋に戻りました。




 ベッドにもぐっても、からだのふるえがとまりません。

 ぼくが丈夫じゃないから、父さまと母さまは別れてしまった。

 ぼくはおいおいと泣き、書斎からはグラスの割れる音が聞こえました。




 今度のお医者さまは、若くてがっしりした人でした。
 からだを強くする体操を教えてくれて、好き嫌いをなくすようおっしゃいました。
 そうして冬が終わるころ、ぼくは父さまとキャッチボールできたのです。




 春の風が気持ちいい朝、ぼくはエッグベネディクトをたいらげました。
 新聞がたたまれるタイミングに合わせて、父さま、と言いました。

「父さま。ぼくはもう、いいみたい」

 父さまの微笑みに影が落ちます。案の定、ノーのサインです。

「学校はまだ早いよ。もっと様子をみないと」

 ぼくは背中をぴんとさせて、父さまを正面から見ました。

「父さま、いまの先生の前では普段着だよね」

 目を丸くした父さまが、すぐにお顔をしかめました。

「一緒に体操するときもあるだろう。動きやすい服にしてるんだよ」

「ぼくは、父さまがお幸せじゃなきゃいやです」

「お皿を空にできる我が子とキャッチボール。これ以上の幸せはないよ」

「愛する人は?」

 父さまが言葉を失います。目が泳いで、あごひげをなでます。

 書斎でのハグは、大人の抱擁でした。
 あんな別れを見たぼくは、心から元気になんてなれません。
 父さまにはもう、大切な人を傷つけてほしくないのです。

「前の先生と会って。連絡をとってみて」

「待ちなさい、私の坊や。いまの先生に問題があるなら」

 ぼくは父さまのコップをとり、新鮮なミルクをつぎました。

「問題は、父さまのお心に。飲んで。からだにいいんですよ」

 父さまは咳払いして、ミルクを飲みました。




 半月くらいたったころ、父さまはディナーにある男性を招きました。
 父さまはあつらえ物の服を着ています。ぼくも特別な洋服です。
 玄関の呼び鈴が鳴り、ぼくがドアをあけました。

 花とワインを持った前のお医者さまが、ポーチにいました。
 お医者さまが泣き笑いして身をかがめます。

「元気になったね。その服は?」

「制服です。秋から学校に行くの。だから少し、大きめなんだ」

 ぼくは得意げにガッツポーズしてみせました。
 父さまとお医者さまは並んで笑い、ぼくはエネルギーで満たされました。