雪が降りしきる夜のことです。
目の見えない青年が、按摩仕事を終えて歩いておりました。
──今宵の月は、弓張りぞ。辻を通るころ、おまえの正面になる。
枯れ木のような腰を揉む青年に、贔屓の客である老女はそう言いました。
老女は空や星の話を、たいそう好むのでした。
(ゆみはりとは、どんなだろう)
青年は杖を動かしながら思います。
天界に住む美しい人たちが、小弓で遊ぶ様を夢想します。
黒く厚い雲があろうとも、青年の月はかすみません。
暑い昼も、静寂に包まれる夜も、老女の話は道行きの友でした。
天上人の宴が散会するころ、青年は辻に着きます。
青年は杖を両手で持ち、空を仰ぎます。
(いま、おれの正面にゆみはり月がある)
見えないものを想像して、さびしくなることはありません。
月に戯れる人を見られるのは、ひとりとしていないからです。
どんな絵巻物よりも雅びやかで、気の向くまま遊び、飽いたら横になる。
歌を詠む人が現れる。返歌や、笑いさざめく声が聞こえる。
香を焚き、酒や食べ物に事欠かない。
川の氾濫も、日照りも、大雪もない、安全で楽しい日が永久に──
決して壊されない月の暮らしを想い、青年は眠るのでした。
幾日かたち、青年はふさいだ顔で歩を進めておりました。
老女のからだから、生気がなくなっていたからです。
糧を得るために按摩してきた身、さわればわかります。
老女はこの冬を越せないでしょう。
(酒でものんで、寝ちまおう)
青年が辻に差しかかったときです。
杖が何かに当たりました。
(紙──? 文か?)
刹那、知らない気配がしました。
(獣のにおいだ。人もいる)
青年は杖を一文字にして身構えました。
(イヌじゃない。ウマ、ウシともちがう。大きい)
生き物の正体がわからないけれど、こわいとは思いませんでした。
何疋かいて、嗅いだことのないにおいを発している。
人なれしているのか、静かだ。
『文をさがしてもらえませぬか』
青年は仰天しました。
耳ではなく、頭の中に声が響いたからです。
小笛を出そうとした青年に、ふしぎな声が語りかけます。
『がんぜない子からの、大切な文です。空から落としてしまいました』
空から。
それでは、この人は天上人なのでしょうか。
老女の話は作り物ではなく、月の人が来たのでしょうか。
青年は杖を振りまわしました。
「おまえはだれだ! 何を連れている!」
少しの間をおいて、青年の頭に答えが返ります。
『名はありませぬ。連れているのは、となかいです』
「となかいは、おれを咬むか? 蹴るか?」
『いいえ』
青年は杖をつき、衿をしっかとつかみました。
「おれは目が見えん。ときがかかる」
『かまいませぬ。あとひとつですので』
(ひとつなら、あれか)
先刻杖が当たったものだと思い、そのあたりをさぐってみます。
しかし晴眼ではないゆえ、あまり広くはかけません。
さて、落とした人には、さがす様子がないようです。
「おまえも目が見えんのか」
『年をとり、夜目がききませぬ』
相手が翁とわかり、もの哀れを感じました。
「ようし、待っていろ」
青年は袂をひるがえし、雪に手足をつけました。
寒さもいとわず腹這いでゆきつ戻りつし、ようよう、文をとらえました。
「あった! あったぞ!」
翁の手がふれることなく、文が取りあげられました。
遅れて、ウマに鞭をくれるような音がします。
となかいの息が荒くなり、雪つぶてが青年の顔に当たりました。
『あす、きれいな水を使いなさい。悪いところがよくなります』
「よくなる──?」
青年は己がまぶたをさすり、掌を握りしめました。
次の朝、青年は老女を訪ねました。
青年の手には椀があり、水が入っています。
きょうは按摩を取っていないという老女を起こし、
「つべてぇ水も、気分がよいもんです」
と、けさ一番に汲んだ水を飲ませました。
根雪もなくなり、芽吹きのころになりました。
青年は手ぬぐいを袂に入れ、たたきに置いた杖を持ちます。
「今宵の月は、十六夜(いざよい)ぞ。辻を通るころ、おまえの右になる」
老女は冬より太りました。外に出る時間が増え、よい塩梅です。
天界の話をいっぱいするのも、青年をよろこばせました。
(いざよいか。どんなだろう)
満月が欠け始めたものだと、老女は言っていました。
(欠けて狭くなった地べたをめぐって、喧嘩するかな)
たおやかな人々のいさかいはきっと平和で、すぐ遊びに移るでしょう。
春の夜は歩きやすく、青年だけの絵物語が際限なく広がります。
あたたかい風が吹き、盲目の青年は楽しげに歩いてゆきました。