私の主人は映画俳優だった。自己愛が強く、恋が多い男だ。
恋を失うと、痛手によって酒量がかわる。
二十年も前だろうか。主人は命を落とす手前まで飲んだ。
当時の共演者であった、可憐な女優に入れ揚げたのだと笑う者が多かった。
だが、私は知っている。主人の本当の想い人を。
今年初めての雪が降った夜、主人は私にフィルムを持ってくるよう命じた。
最盛期の姿に酔うため、主人は自分が出演したフィルムを好んで観る。
今夜欲したものは、二十年前の、酒におぼれる原因になった作品だった。
屋敷では一度も観ることなく、金庫の奥にしまっておいたものだ。
私の心に不吉なさざなみが立った。
「懐かしい作品をご覧になるのですね」
主人が目尻のしわを深くする。
「リタイアしてどれだけたったと? 古い作品ばかりだよ」
私は暖炉の火を強くして、主人の膝掛けを二重にする。
命じられないことをした私を、青いひとみが見下ろした。
「今宵はお寒うございます」
私は自室にさがろうとした。主人はひとりで鑑賞するのを常とするからだ。
真鍮のドアノブにふれたとき、主人に呼びとめられた。
さざなみが広がり、私は小さく「はい」と答える。
「おまえに伝えておきたいことがある。一緒に観ておくれ」
作品の出来は悪くなかった。
芸達者な役者を使い、監督も台本も素晴らしい。ロングランになった。
主演である主人以上に話題になったのは、ふたりの若い役者である。
ひとりは売り出し中の女優──主人との仲をスキャンダラスに語られた女だ。
もうひとりは、無名の青年俳優だった。
紅茶をすする主人が青年を見つめる。私は主人の視線を追う。
新聞配達役をこなす若い男が太陽のように笑うと、主人はフィルムをとめた。
「おまえは──」
あまたの共演者を虜にした、深みのある声が私を追いつめる。
「おまえは自由に生きなさい」
それが、私に下された最後の命令となった。
翌日、私は一週間のいとまを与えられた。
生家のない私は宿で眠った。しかし、どうにも休めない。
さざなみが嵐に変わるころ、私は予定より早く戻った。
そして、主人の棺と対面した。
主人の妹が私に歩みよる。トーク帽の黒いチュールが、白い顔をやさしく隠す。
「拳銃で、自死を。どうかだれも責めないで。兄も同じ気持ちでしょう」
帽子と対になった手袋には一通の手紙があり、静かに渡された。
「あなた宛ての遺書です」
──長いあいだ、世話をかけたね。
フィルムは火にくべたよ。彼を連れていく。
気づいたら、私は膝を折っていた。主人の妹が一歩さがる。
神よ、私に慟哭させないでください。
主人が選んだ青年に、醜い嫉妬を抱かせないでください。
主人の妹が席を外した。私は口を覆っていた両手を床についた。
「わたしを。私を連れていってくだされば──!」
二十年前のあの日、主人はうわごとを言っていた。
新聞配達を演じた男優の名だとわかったときから、こんな日がくる気がしていた。
『おまえは自由に生きなさい』
あなたはひどい人だ。
自分勝手で、命より愛を重んじる、美しい男だった。