「十一時……か」
平城孝夫(ひらき たかお)は、マンションのエントランスでため息をついた。
「さすがに来ないだろうな。康祐(こうすけ)も」
こんな時間に高校二年生の来訪を期待するとは、我ながら情けない。
康祐とは二年前に男の同性愛者が集まるバーで知り合った。
並ぶと数センチしか違わなかった背丈も、ごつごつした手も、平城を誤解させるのに十分だった。
話すことが妙に幼いのと、キスがぎこちなかったので訊いてみたのだ。
『康祐くん、きみ……いくつ?』
頬を赤らめて「十五歳」と言われたとき、天を仰いだ事実を否定はしない。
すぐに部屋へ上がる気になれず、平城は非常階段へ向かった。
煙草を出そうと胸ポケットに触れる。なれ親しんだ膨らみがない。
三日前から禁煙しているのだと思い至り、苦笑した。
康祐への悪影響を考えて踏み切った、何回目かの禁煙だ。
(そうだ。あいつは十七、高二だ。だから)
だから一線は越えていない。まだ一度も、康祐の深みを探ってはいない。
年齢を知るまでは最初のデートでいただいてしまうつもりだった。
仕事のガス抜きも兼ねて通っていた酒場だ。これというのを見つけたら、会ったその日にものにする。
半年もてば万々歳の平城の恋は、短いスパンでの出会いと別れの繰り返しだった。
当時不登校気味だった康祐に進学をすすめ、ままごとに毛の生えたデートを重ねたのは、怖かったからだ。
十五歳の少年に手を出しかけたとバラされないか、ではない。
キスのあと、平城と同じくらいの厚みがある肩が震えていた。
守ってやらなくてはと思ってしまったのだ。柄にもなく。
普段とは違う雨音が聞こえる。階段を囲う柵から外を見てみた。
粒の大きさと、吐いたそばから息が白くなるところをみると、みぞれのようだ。
かじかんだ指から洋菓子屋の店名が印刷された紙袋が落ちた。
今日がバレンタインデーだと、女子社員から紙袋をもらって気づいた。
このところ休日出勤や残業続きだった。メールの返信すらおろそかにしておいて、バレンタインもないものだ。
紙袋を提げてエレベーターに戻る。
エントランスホールの向こう、オートロックの操作盤の前で、大柄な男が首をかしげていた。
平城はホールを駆け抜け、内扉にあたる自動ドアを手で叩いた。男が目を丸くする。
「孝夫さん」
「康祐! どうしたんだ、傘もなしで!」
ダウンジャケット姿の康祐が髪と肩を光らせるしずくを払い、舌を出して笑った。
「降ると思わなくて。変な雨だよ。雪と雨の、あいの子みたいなの」
「雨じゃない。みぞれっていうんだ」
「そうなの?」
もともとガタイのいい康祐はすくすく育ち、今では頭ひとつ分も平城より高い。
体ばかりでかくなって、笑顔は子どものままだ。ひげ剃りに失敗したのか、絆創膏が左の頬に貼られていた。
肉体だけは平城を受け入れても耐えられそうになっている。
「……生殺しだな」
「え?」
「何でもない。寒いから部屋に行くぞ」
エレベーターのボタンを押そうとした平城の手を、骨太の手が押さえた。
「その袋、見せて。孝夫さん」
平城は「ああ」と笑い、洋菓子屋の袋を康祐に渡す。
「義理チョコだ。社員から一個、派遣の子たちから一個」
まじめな顔で袋を改めた康祐が、太い眉根を寄せた。
「去年は一個だったよね」
「そうだったか?」
「そうだよ」康祐が上向き三角のボタンを押す。「去年は一個だった」
断固として言い切る康祐に、平城は笑いを噛み殺す。エレベーターが一階に着いた。
「派遣社員を増やしたのが今年からだからかもな」と言いながら、康祐とふたりで乗り込む。
不平顔で壁にもたれる康祐に微笑みかけ、自室のある階を押した。
「おまえのチョコは?」
康祐はコンビニの袋を後ろに隠した。ばつが悪そうに紙袋を返してくる。
「ガキみたいなこと言って……ごめん」
いつもなら「ガキだからしょうがない」と答えるところだ。
拗ねる康祐をからかって、よこしまな欲望を無理やり抑えてきた。
返事がないのを怒りと受け取ったのだろう、康祐が黒目がちの目を平城に向ける。
「怒ってる? 突然来たし、デパートとか行かないから、コンビニのチョコだし」
光が移っていく階数ボタンを見たまま、平城が口を開いた。
「泊まっていけよ、康祐」
康祐の顔には『平日だ』と大きく書いてある。
「変なことはしない。本当だ。学校に間に合うよう、朝になったら家まで送る」
平城が住む階に到着した。康祐を連れて廊下に出る。
「でもおれ、うざいこと言ったのに」
「ガキだからしょうがないさ」
平城は最上の笑みを見せ、かわいい彼氏の分厚い胸板を小突いた。
< 了 >