鎌の刃にそっくりな月が浮かぶ夜のことでした。
 針葉樹に囲まれた屋敷の中庭で老いた犬が丸くなっておりました。
 刺すような風が、使用人がかけてくれた布をはためかせます。
 中庭にある東屋は暖炉より魅力的なようで、犬はどうしても離れないのです。

 遠くからいとしい声がします。

 『賢い犬よ、聞いておくれ』

 主人がここで秘密の話をするときの決まり文句でした。
 うたうように話す主人の声がうれしく、犬は鼻面を前足に埋めました。




 主人は美しい青年でした。常に背すじを伸ばし、武芸に励む正直な男でした。
 あれは花香豊かな春だったと思います。大きな剣の試合が年若い主人を変えました。
 食事を残すようになり、執務の間違いが増えました。
 剣の稽古だけは欠かさず、夜になると東屋から針葉樹の林を見ておりました。

 ある夜、林の奥からひとりの丈夫が現れました。
 人目を忍んできた男が犬の頭を撫で、犬は訪問者の正体を悟ります。
 男の手は主人と同じでした。武術の鍛錬を物語る、かたい手のひらでした。
 試合の対戦相手が主人の心を奪い、恋人となったのです。

 丈夫が足しげく通ってくるようになると、主人は旺盛に働くようになりました。
 少年の面影を残していた笑顔は自信に満ち、まばゆいばかりでした。
 犬はこの主人が自慢でした。

 主人の寝所から言い争う声を聞いたのは嵐の夜でした。

 婚礼。もう会えない。

 たった一度の、しかし激しい諍いのあと、丈夫を見ることはなくなりました。

 犬が主人を愛した人のにおいを忘れたころ、主人は家長となりました。
 妻をめとり、子をもうけ、家人と使用人を養いました。

 新しいものが加わるにつれて、東屋での秘密の話は減っていきました。




 今朝、主人が商用の長旅に立とうとしたとき、犬は尾を振れませんでした。
 年を取り、ともし火が短くなっていたのです。
 剣をやめてやわらかくなった手が犬の背を撫でます。

 『賢い犬よ、行ってくるよ』

 そう言った主人の声は、秘密の話をしてくれたときと同じでした。

 東屋で犬のからだが震えました。
 最後の眠りにいざなわれた犬が、月明かりのもとで目をとじました。