下にいくほど古くなります

かふりんくすな人々

佐伯 範義

お久しぶりです、佐伯と申します。
先日、少しばかり引っかかりを感じることがありました。

愛奴の服を求めるため都心に寄りましたら、高岡くんを見かけましてね。
彼は懇意にするテーラーから出てきたところだったのですが……。

私に気付いたにもかかわらず、挨拶がわずかに遅れたのです。

プライベートなときでも気を緩めない彼にしては、大変珍しい。
仮面を脱がせかけたものを知りたくなり、一服どうかと誘いました。
体よく断られるかと思いましたら、つき合ってくれましたよ。

そのときの話は、いずれまた。

人恋しい季節です。
心の戸締まりを不用心にしておくのも、悪くないかもしれませんね。

壬 和幸

店名で挨拶しようと思ったら、まだ決まってないんだって。すごい怠慢。
改めまして、壬(みずのえ)です。最近、腰が痛くて。やらしい想像しないでよ。
店の中庭いじりを頑張っちゃって。園芸は得意じゃなくてさあ。
仕事だから手は抜かないし、きれいに咲けば少しはやりがいもあるけど。

何にしても根付いてよかった。あそこ、このあいだ植えたシバザクラ。
僕と同じ黒い瞳の、あの子に見せたかったから。

調教師の手を引いて教えた花なんだから、相当好きってことでしょう?

本当に好きなのは花なのか、とか、そういうのは言いっこなし。
中庭にいるときの、あの子の笑顔が見たいだけ。

そろそろ開店しませんと。冷やかしで構いませんので、一度お越しくださいね。

三浦 勇次

どうも、三浦弟です。引かないでほしいな。少し話すだけだよ。
こないだ兄貴の家に顔出したら、まだ帰ってなくてね。待ってるあいだ家捜ししたんだ。
家族でも信用ならないのが三浦家、弱点は握っておいたほうがいい。
書斎机の奥に一枚のスナップ写真があったんだけど────いや、驚いたね。

親しい人物でもないだろうに、裏に兄貴の字でイニシャルが書いてあったからさ。

誰の写真かって? 話し相手になってくれたお礼に、外見だけ教えておこうか。
細面で色白、眉は女みたいな弓なり。涼しげな目で、頭のネット包帯が痛々しかった。
織田沼のボーヤが躾けてるわんちゃんも写ってたけど、わんちゃんのイニシャルはなかったぜ。
たぶん粥川が撮った写真なんだろうが、さて、どうするかな。

ま、退屈なときは声かけてよ。楽しくなるクスリ、見繕ってあげるからさ。

竹下さん

竹下と申します。
いけませんね。お台所に立つと、つい左を見てしまいます。

おかげさまで働きやすい職場です。今日は嬉しいことがありました。
電話で春樹ちゃんの声を聞くことができたのです。
ところで、春樹ちゃんの様子を書いた手紙を持ってきてくだっさ方────
織田沼様という方なのですが、本当に会社の方なのでしょうか。

あの方の「春樹くん」というおっしゃりかたが、慣れた感じでしたので。

今夜はだし巻き玉子を作りましょうか。
春樹ちゃんの好物なんですよ。焼いているとエプロンを左から引かれたものです。
電話でも声が聞けて安心しました。これからは左を見ても大丈夫でしょう。

新田 修一

え……ああ、気がつかなくてすみません。新田修一です。
予備校の講座一覧を見ていました。少し増やせないかと思いまして。
二年の夏に進路を変更するなんて無謀ですよね。
浪人覚悟などと甘えるつもりは毛頭ありません。
両親に反対されても説得してみせます。もう決めたんです。

全身全霊で想う人に、恥じないように生きたいですから。

すみません、しゃべりすぎました。勉強を再開してもいいでしょうか。
机に向かっていると、好きな人のことばかり考えずにすむんです。
誰と会っているのかなどと────気を揉むこともありませんし。

成瀬

あ、どうも。成瀬っす。
ほかの人は下の名前もあるのに、おれ、ないんスよね。結構働いてんのになあ。
それはいいとして。こないだ、プロが扱う盗聴器と隠しカメラを外す仕事をしたんですけどね。
なんかこう……気になるんスよね。仕事の内容じゃなくて、電話で聞いた彰さんの声が。
以前の彰さんだったら、もっとそっけない言いかたで頼んだんですよ。
それがあの子絡みになると、ちょっと違ってくるっていうか。

念入りに見てやってくれなんて、言わない人だったのに。

あの子ってのは、まあ、商品でして。可愛いんですよね、見た目も気立ても。
で、あの子がかかわる仕事だと、彰さん、なーんか苛立ってるっていうか。
べつに余計なこと言う気はないっすよ。彰さんには世話になってますし。
……あ。開錠の依頼が入ったんで、このへんで。みなさんも鍵の紛失には気をつけてくださいね。

チビ

猫のチビです。新田さんというお宅の隣に住んでいます。
今夜もいいお月さま。屋根に上がってみましょうか。

新田さんの長男が窓を開けました。元気のいい開けかたではありません。

「満月か……きれいだな」

窓がもう少し開けられて、長男がお月さまを眺めます。

ヒトはお月さまに、見たいものを映すのだと聞いたことがあります。
長男には何が見えているのでしょう。

窓から流れる空気が冷たくて、ひげがぷるっと震えました。

稲見 謙二

ごほっ。げほごほ……失礼しました。風邪で休んでおります、稲見です。
お恥ずかしい限りではありますが、致し方ございません。商品にはうつせませんので。
そうそう。先日、おかしなことがありました。

ある商品が通う高校からの手紙を取りに、調教師が自宅を訪ねてきたのです。

僕の自宅を知っていることに驚きましたが、彼のバックは大物揃い。
下手な詮索は危険でもありますし、手紙を持ち帰っていた僕にも落ち度はあります。
見舞いの品を受け取り、商品に渡す予定だった手紙を預けましたが────

初めてではないですかね。彼が仕事に直接関係ないものを自分から取りにくるのは。

いえ、やめましょう。余計な勘繰りは身を滅ぼします。
件の子は突拍子もないことをしますので、調教師も苦心しているのでしょう。
寝床に戻ります。早く治して、自分が担当する子は自分で送迎したいですから。
ああ、いや、こんなことでは……その、健康管理の大切さを説けませんからね、ええ。

森本 和男

もうすぐ夏休みだってのに面白くないって、おかしくね?
瀬田は学校やめるし、丹羽はバタバタ忙しそうだし。
丹羽のいいとこは、ゆるーい空気にしてくれるとこなんだけどなあ。
瀬田も丹羽も認めないけど、丹羽の笑顔は絶対イイって!
そういえば丹羽のやつ、最近ヘンなんだ。
やたら勉強して、園芸クラブの先輩を避けてる……みたいな?
前はすっげー仲よかったみたいなのに、何かあったのかもしんねーな。
丹羽もさ、こういうときはあの人に会えばいいんだよ。

ほら、あの、遠い親戚の。タカオカさんって人。

あの人としゃべってるときの丹羽はハジけてるんだよね。
言葉もポンポン出るし、よく食べるし。いつもおとなしい丹羽がだよ。

あー、予鈴鳴っちまった。しゃべりたんねーけど、行かないと。じゃ、またね!

須堂 智輝

腐れ縁でつながっている、ツラだけが取り柄のばかが訪ねてきた。
自分が中学で使ってたノートがあれば出してほしいとほざく。
ばかの実家は、今はない。売れる物は売って引き払った。昔の話だ。
売れなかった物は、長いことおれのお袋が保管していた。

一度ばかが引き取りにきて、全部焼こうとしやがった。

おれのお袋がばかを引っ叩かなければ、ノートも写真も灰になってたところだ。
お袋も年くって、マンション住まいになった。で、ばかの荷物はおれン家に置いてある。
三冊の大学ノートを横目に、ばかが持ってきた酒をやりながら訊いてみた。

「中学のノートなんてどうすんだ。あのボーヤにでもやんのか」

このばかは単純だ。図星だと、瞳がちびっとばか揺れる。ガキのころから進歩がない。
「急に来て悪かった。明日は早いので帰る」
瞳の揺れがおさまる前に、ばかが玄関に向かう。逃げ足の速さも昔のまんまだ。

自分の物くらい自分で持ってろ。でもって、ボーヤに構うな。

言って言えないことはねえが、どうせ腐れ縁だ。いつでも言える。
酔いが面倒にさせたってことにして、ばかが出ていく靴音を聞いた。

高岡 彰

自分が住む部屋に害虫が出たら駆除する。誰でもできることだ。
それをのろまな仔犬は、命令されるまで殺虫剤を持ってこようとしなかった。
まさかとは思うが、黒光りする醜い虫を害虫だと知らないのであろうか。
小テストで信じ難い点数を記録する仔犬だ。知らない可能性は大いにある。
教育の一環として害虫の死骸を片付けさせることにしたのだが────
何ということだ。わずか二枚ほどのティッシュでつかんでいるではないか。
いや。床は洗剤を使用して拭いている。不潔なものだという認識はあるようだ。

立ち上がった仔犬が近づいてきた。
後ろに何か隠し持っている。

一瞬でも目を離した事実を内省し、害虫を捨てるよう命じた。
何にでも同情する仔犬だ。供養をしたいなどと言い出しかねない。
「捨てましたよ?」
少年特有の語尾を上げた口調はあとで叱るとして、何故近づいてくるのか訊いた。

「もう一匹、そこに」

俺は素早くソファから離れた。仔犬が作業しやすくするためだ。
「あれっ。見失っちゃった」
失敗をごまかして笑っている。今夜は厳しく叱らなくてはなるまい。

丹羽 春樹

この間、高岡さんがキッチンでうろうろしていました。
何か探してるのかなあと思ったら、逃げてるみたいなんです。
人を殴るのも鞭で打つのも平気な狂犬が逃げる?
そっと見てみたら────ゴキブリを避けていました。
僕でもゴキブリ殺せますよ。スリッパとかで、パーン! って。
汚れたって拭けばいいし。掃除が嫌なら僕に命令すればいい。
ちょっとしたことでも命令するんだから、何の問題もな────
もしかして。あいつ。高岡さんですけど。

ゴキブリが怖いんじゃないでしょうか。

殺虫スプレーを持ってきてあげるのは、もう少しあとにします。
高岡さんが逃げ回る姿なんて、滅多に見られませんから。

目次へ

© Harue Okamura. All Rights Reserved.

Designed by Pepe