あなたを待っている

 正月、しかも元旦にパトロンが来た。
 暗い時間の訪問は珍しくないため壬も瞬時に覚醒したが、朝の六時に雪のなか、タクシーでひとりで来たのは初めてだ。
 いつも汚く食べる男がきれいに飲み食いしている。三日かけて作った節料理と、蔵元からじかに買った酒が気に入ったらしい。
「訊かないのか」
 パトロン────鴻野にはすでに訊いていた。玄関で靴を脱がすときに。
 鴻野は堅気ではない。要はやくざで、そこそこ責任のある立場にある。
 やくざは季節の行事を大切にするものだ。正月は松が取れても仕事に追われる。来訪の理由を訊くのは許されないとわかっていても、訊くのが人情だろう。

 『タビが死んだ』

 そう、鴻野は答えた。
 タビとは鴻野が飼っている犬だ。黒っぽい雑種の犬。四本の足先が白く、足袋をはいているようだからタビなのだと聞かされた。
 燗をつけるための火を消す。燗上がりする酒を好む鴻野が壬を見据えた。
 火を消すなと言われる前に鴻野の目を見る。こんな男でも組織の上層部にいる。正月早々、悪酔いさせて帰すわけにはいかない。
「お酒はもういいでしょう。早く帰られたほうがいいのでは」
 箸を置く音が厳しい。飲酒を制限され、帰れと言われれば当然だろう。
 タビはじゅうぶん生きた。庭の隅で飼われており、今朝冷たくなっていたという。
 犬が死んで心が動いても、屋敷で表すことはできない。鴻野はそういう生き方を選んで、貫いてきた男だ。それで来たのがここなら仕方がない。
 シンクの前で立つ壬に、やくざ者が近づく。店は正月休み。怪我は覚悟のうえだ。
「だれに飼われていると思っている」
 返事をする間もなく、いきなり腕をつかまれる。
 還暦を過ぎたとは思えない力で引きずり倒され、床に叩きつけ────

 叩きつけられなかった。鴻野の左手が壬の背中を支える。

「どうして早く帰らせたがる」
「以前、タビは利口だとおっしゃいました。鎖が外れても小屋から離れなかったと」
 鴻野の屋敷には常に人がいる。外には出られなくても、庭は自由に走れる。
 タビは犬小屋の前で座っていた。鎖が外れたとわかる、半日ものあいだ。
 おれがいいと言うまでじっとしていたのだと、鴻野は自慢げに言ったのだ。
「きっとまだ庭にいます。あなたを待っています」
 鴻野の右手が壬の髪をつかむ。酒臭い口が近づき、首すじに熱が触れた。
 触れたのは唇ではなく、鴻野の頬だった。剃り残しのひげが当たる。
「もう一度言ってくれ」
 壬の動悸が一瞬乱れる。堅気ではない男の、気弱な声のためではない。
 声がする直前に聞こえた息がふるえていた。壬は天井を見たまま繰り返した。
「あなたを待っています」
「本当に、おれのような男を待つか」
「タビは利口です。あなたの許しがなければ、どこにも行けません」
 飽きるほど失恋して、親とも死に別れた。親戚とは賀状のやりとりすらない。
 鴻野に買われるまでは街に立って何でもした。本当に何でもやった。
 最後に泣いたのはいつか覚えていない壬の、目の奥が熱くなっていた。
 パトロンの背中に手をまわす。シャツの下にある筋肉が確実に落ちていた。
 この男を失ったら、壬はどこで泣けばいいのだろう。
「……車を」
 鴻野が立ち上がった。壬が車を呼び、鴻野の服を整える。コートの肩にブラシをかけて靴を履かせる。
 太いネクタイピンを内心ばかにしたときもあった。ヘアトニックのにおいも。今では品のない金色のピンと脂ぎった香りがないと、鴻野が来たように感じられない。
「二月になるまでに一度来る」
 コートを羽織らせる手がとまりかけた。鴻野は来訪予定を言ったことがない。
 情人の都合を考えずに来るのがパトロンであり、迎えるのが壬の役目だった。
「お待ちしております」
 老いた男の香りを残してドアが閉まる。いつもの別れだ。
 壬はコンロの火をつけた。燗酒は口に合わない。それでも今日は飲むと決めた。
 沸いた湯を下ろして徳利を入れ、窓を開ける。
 燗がつくまで、白い道に残るタイヤの跡を見ていた。


<  了  >







2011年お正月企画もどきです(汗)
姫ハジメでもないですし、加齢臭きつくてすみません。




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