第一打に度肝を抜かれたのは三浦勇次だけではなかった。
子どものころから乗馬鞭を抱いて眠った兄の勇一も、勇一を神とも崇める粥川も、一様にグラスを持つ手や酌をする動きをとめている。
セミスイートの大画面テレビが映す映像に音声は入っていない。無音であるにもかかわらず、鋭い打擲の音が聞こえるようだ。
少年は素っ裸だった。一本鞭が少年の背に禍々しい痕を描く。鞭が胸や腹に巻きつくと危険だとわかっているのだろう。打つ側も打たれる側も、中途半端な動きは一切しない。
四つ這いの少年はシャープな打撃を続け様に浴びた。肘をついてしまっても、即座に頭を横に振って姿勢を正す。体がふらつけば黒い蛇状の鞭が臀部を襲い、少年は絨毯に爪を食い込ませて耐えていた。
若い肌に新旧様々な傷がある。粥川の話では、映像が撮られたのは少年が十五歳、高校に通い始めて間もないころとのことだった。
(ド派手な傷痕を背負っての通学か。面白い)
手をつくのが精いっぱい。全身がぶるぶる震えている。絨毯には血のまじった汗が落ち、呼吸をするたびに少年の胸から腹、背中まで波打った。
カメラが少年の顔を大きくとらえる。声を出すまいとして噛んだのか、下唇に血がにじんでいた。きめの細かそうな皮膚が覆う顔は脂汗にまみれて蒼白だった。灰色の瞳を有した目だけがぎらついている。
加虐を楽しむ男が少年の前に立つ。少年は自分を打ち据える者の足を睨みつけた。
鞭の柄ですくわれた少年の顔に、ぞくりとする笑みが浮かぶ。
『くそったれ』
音がなくても少年が何を言ったのか、はっきり伝わった。
鞭を振るった男が少年の髪をつかむ。ベッドに引きずっていくところで、粥川が映像を一時停止させた。
三浦勇一と勇次、粥川が部屋の隅を見る。
ひとり掛けソファのアームに美男が尻を下ろしている。その男が一礼すると、粥川が口を開いた。
「今一度ご了承いただいたほうがよろしいかと」
勇次のグラスで氷の音がした。笑ったために手が滑りかけたのだ。
「そっから先はそこにいる、織田沼のボーヤが掘られそうだから可哀相、ってか?」
「勇次。下品な物言いをするな」
弟をたしなめる勇一の口調は軽いものだった。粥川に煙草の火をつけさせ、本日のゲストに訊ねる。
「席を外されますか、高岡さん」
ソファから離れて壁際に立っていた高岡が微笑んだ。隙のない笑顔が少年時代とは違う。
「お心遣い、ありがとうございます」
出入り口に向かう高岡に粥川が近づき、グラスを受け取る。
先日、勇次は兄の勇一と共に一匹の仔犬を嬲った。薬物を使い、思うさま犯した。小便も飲ませた。
仔犬が陵辱される動画と引き換えに、織田沼の息子が自身のブルーフィルムを持ってくる。
そう聞かされたとき、冗談だと思って生返事しかしなかった。
勇一が懇意にする海辺のホテルに高岡をゲストとして招く、費用は全額勇一持ちだと言われて腰を上げたときも、半信半疑だった。
動画が入っている商品の携帯電話と、自らの恥辱。軽いのはどちらか考えるまでもない。
(こいつのアキレスが見たい)
部屋の扉を開けようとする粥川を、勇次が制した。
「兄貴、おれも出てくるわ。ゲストと飲みたくなった」
高岡が立ちどまる。脚を組み変えた勇一がリモコンを手に取り、「羽目を外すな」と言った。
廊下は静かだった。このフロアに客室はひとつしかない。
勇次がセミスイートの扉にもたれる。数歩離れたところで高岡が微笑をたたえていた。
「僕はこのような格好ですので……」
無地の白いシャツは正しくドレスダウンされている。スリムスラックスにも合っていた。
「ドレスコードのない店だ。気にすんな。おれのナリだって大概だろ」
薄手のレザージャケットにTシャツ、ジーンズの勇次がニッと笑ってみせる。
「チェスはできるか?」
飛躍する話題に警戒したのか、高岡の目がわずかに眇められた。
「……手慰み程度であれば」
「上等。来いよ。仔犬一匹のために虚勢を張ることもない」
終始崩さない笑みのなかで、双眸が鈍く光る。至近距離でしかわからない程度に。
まさに上等。いい反応だ。
波がプライベートビーチの岩場を洗う。
中二階にあるホテルバーで勇次が笑った。チェス盤を見下ろし、頭の後ろで両手を組む。
「やられたな。ステイルメイトだ」
白のポーンと黒のポーンが向かい合わせになっていた。勇次が持つ黒には動かせる駒がない。
テーブルを挟んで座る高岡も相好を崩した。
「初めてのお手合わせです。こういうこともあるでしょう」
「世辞は無用。おれの負けだ」
ステイルメイト、すなわち引き分けの宣言を合図に、店員が次のオーダーをとりにくる。
「おごるぜ。好きなもの頼めよ」
先攻である白を高岡に譲り、チェックメイトさせる腹積もりだった。
駒を並べるときに「接待の真似事をしたら潰れるまで飲ませる」と言っておいたが、高岡も素直に勝つわけにはいかない。極めて自然にさりげなく、自分が不利になるよう打ち回していた。
勝利を避けたい高岡にしてみれば、引き分けは望ましいゴールだろう。
(アキレスに気をとられて釘づけにされるとはな)
薄くなったバーボンをあおる勇次に対し、高岡は終局後の盤を眺めていた。手筋に誤りはなかったか確認しているようだ。
「勝たせようとしても乗ってこなかったな。接待するなと言ったが、勝つなとは言ってない」
淡い灰色の瞳が駒の残像を追わなくなった。控えめに微笑む。
「久方ぶりでしたから、とてもそこまでは」
「下手な嘘もいい。うちのコレクションを増やしてくれた礼がしたかったんだぜ?」
父は若い男が痛めつけられる映像を収集していた。勇次も織田沼彰のビデオを盗み見たことがある。
ベッドシーンに力を入れた作品で、可愛い顔に朱が差す様子は悪くなかった。
「今日のやつのほうが扇情的か。親父の機嫌取りには最適だ」
勇次が天然石でできた駒と盤を押しやり、肴の小皿をたぐる。
「気を遣わせた詫びに、朗報をひとつ。兄貴はあれで約束は守る。仔犬の携帯は必ず返すから心配するな」
「ありがとうございます。お手間を取らせてしまいまして、大変申し訳ございません」
店員が新しいグラスをふたつ置いていく。
「もっと喜べよ。自分が出演したブルーフィルムを持ってくるくらいだ。仔犬、大事なんだろ」
高岡の視線がグラスの縁をなぞった。
「仕事はすべて大事です」
白のクイーンを勇次の指が弾く。駒が倒れ、底に貼られた赤いフェルトをさらした。
「眠くなったか? おれは、あの仔犬が大事なんだろって言ったんだ」
日本人にしては珍しい色の瞳に、逡巡らしい逡巡が走った。対局の際にも見せなかった変化だ。
「そうですね、大事です。商品としてですが」
スコッチをやる高岡に合わせて、勇次もグラスをかたむけた。ふた口ほどで飲みほし、テーブルに置く。
「頑固だな、あんたも。くそったれと毒づいた気性は健在ってわけだ」
勇次が嘲笑ではない笑いをまじえて言う。高岡も唇の端を上げた。
ホテルに着いてから初めて目にする、愉快そうな笑みだった。
「未熟な被写体で申し訳ありません」
勇次はまた声をたてて笑った。グラスをほした高岡に、部屋へ戻っていいぞと告げる。
丁寧に挨拶した高岡が席を立ち、勇次の横を通る。勇次は高岡の腕をつかんだ。
「おれもあの仔犬が気に入った。抱きたいと言ったら、あんたはどうする」
二度目の逡巡はなかった。
「感謝致します。あのような駄犬をお気に召していただき、誠にありがとうございます」
取り澄ました笑顔には不似合いなほど、切れ長の目が光を放っていた。
くそったれと言ったときと同じ光であったため、高岡の腕を放してやる。
高岡が店の外に出ていくと、不意に音楽が途切れた。重い波音が届く。
しじまに響く音は調教師のアキレスに似ている。鞭で抑え込まれた本来の人格だ。
(隠しているものを呼び覚ます存在が商品だったら……あんたはどう出る?)
酒がいい具合にまわる。勇次は陽気な仕草で、空のグラスを掲げた。
< 了 >
ヒール×調教師でしょうか(笑) 色気も心の交流もないので 『×』 は付けられませんね(汗)
当初は 『アンパサン』 というタイトルで、高岡の対局相手は佐伯でした。
何となく佐伯とチェスの組み合わせは秋冬のイメージが…(笑)
お部屋でぬくぬくしながら対局してもらうのも、いいかもしれませんねv