残した針
春の月を望む夜だった。携帯電話に懐かしい数字が並ぶ。
壬(みずのえ)は窓辺で電話に出た。
「俺だ。話がある」
「いいよ。今どこ? よかったら来なよ。鴻野(こうの)帰ったから」
パトロンが食べ散らかしたものを片付ける。前日から仕込んでおいたローストビーフを出す。あいつは生クリームベースのレフォールソースより、グレービーソースを好む。これも前日から用意しておいたソースを温める。ホースラディッシュをすりおろし、極少量の酢を加えて包丁でたたく。クレソンの水を切ってワインの栓をあけるころ、身勝手で見目のいい男が来訪した。
「鴻野は泊まっていかないのか」
ペーパーバックを手にした男、高岡が言った。
サイドテーブルにロックのグラスを置いてやる。
「男の内孫が生まれたから、最近はね。可愛いんじゃない?」
ひとり掛けのソファに座る高岡がページを繰る。昔より読むのが遅くなった気がする。酒のせいもあるだろうが、十年はやはり人を変えるのだろう。
「先日買った服のことだが」
「何? 合わなかった?」
「いや。どういうつもりか理由を聞きたい」
「だろうね。今夜あたり来ると踏んで正解だったわけだ」
高岡が顔を上げる。光る目で見られる。
この光を、最初に会ったころは憎んだ。体も暮らしも高岡に慣れたころ、怖いと思うようになった。
合鍵を返されたころには、目で追うようになっていた。
壬が高岡からペーパーバックを取り上げる。高岡の膝に手を置き、その手を少しずつ上にずらす。
「鴻野は泊まっていかないけど、あんたは泊まっていく」
「自信家のところは変わらないな。何故そう思う」
「あの子の服に針を残した理由……ゆっくり聞きたいだろうから」
言葉の途中で一度キスをする。
高岡の懐かしい部分を撫でながら、再度唇を味わう。
グラスの氷が溶け、透明な音が鳴った。
「すごいね。十年前と変わらない」
「お前は変わったな。褒め上手になった」
ベッドの上で煙草を吸う高岡を見る。横顔は、少年と青年の間のものではなくなっていた。笑顔も毒気が減ったように思う。
目だけが変わらない。いつも何かに警戒し、何かを追っている目。やることは無茶なのに、高岡の瞳には清廉(せいれん)なところがある。
「理由を聞こうか」
灰皿から煙が立ちのぼる。
「縛ってくれたら教える」
サイドボードに置いたネクタイを取り、高岡に渡した。高岡がしていたものだ。
「新しいの買ってある。これで縛ってよ」
「無駄金を使うな。お前から何か贈ってもらう理由はない」
「あんたのためじゃないよ。縛ってほしいのは僕だから。礼儀でしょ」
壬の両手首が頭上でひとつになる。
鴻野とのプレイのために、壬のベッドには四辺に柵が取り付けられていた。本格的なSMプレイ以外では頭上の柵しか使わない。
今、懐かしい男の手によって、壬の両手は頭上の柵とつながった。見なくても感触でわかる。昔と変わらない、一分の隙もない緊縛だった。
「悪い子だな、和幸」
高岡が壬の上に乗る。十年前の冬、こうして乗られた状態で合鍵を返された。
「あれは商品だ。悪戯をして何になる」
「商品に買い与えた服をチェックするなんて、今までなかったよね。何ですぐに袋の中を見たの?」
「どうにもお前の目つきが怪しかったからな」
微笑む高岡が欲しくなった。
「もう一度して」と言うのは容易い。
それを口にしたら、高岡は即この部屋を後にするだろう。
壬はかつて、高岡に調教された。奴隷としてかしずくようにされたのではない。鴻野という潤沢な財を持つサディストの情人になるために、言葉遣いからベッドでの振舞い方まで教え込まれた。
サディストである主人に、もう一度をねだることは禁忌だった。
「和幸。理由を言え」
高岡はただ壬の上に乗るだけで何もしない。縛った箇所から肘のあたりまでを見るだけだ。目も合わせない。
「最初に何て言ったか、覚えてる?」
「最初?」
「十年ぶりに電話くれたときの、最初のひと言。 『俺だ』 じゃなかった」
『和幸、元気か』
先週、鴻野を見送った直後にかかってきた高岡からの電話。忘れるはずのない声が、聞き覚えのないことを言った。
恋が始まっている。そう思った。
壬のこの手の勘は外れない。第六感と男に慣れた肉体、負けず嫌いの性格に支えられてここまできたのだ。加えて、自信のないことは口にしない。
「元気か、の後、手のかかる商品がいるから話を聞いてやってほしい、って言った。おかしいよね」
「どこがおかしい」
「僕が商品の話を聞くのは何度かあったけど、事前の電話なんてなかった。今回が初めてだ」
「あの日は祝日だった。開店してから押し掛けては迷惑だろう」
「そう? 僕にはあの子の負担を減らすために早く自宅に帰してあげたそうに見えたけど」
高岡の目の奥に、面倒の二文字がちらつきだした。ここが潮時だろう。
「ごめん。うるさかったね。要は、あの子が可愛かったから。ふざけただけだよ」
ネクタイが解かれるはずだった。衣擦れの音をたてて壬を自由にし、すぐに帰るはずだった。高岡はそれが似合う男だ。
そのはずなのに、高岡の唇の感触がした。ひたいに。
「ちょっと。やめてよ。謝ったでしょ」
鋭さをもった唇が頬に触れた。指が、熱の残る秘肛を探る。
壬は高岡を睨み、怒鳴った。
「やめろって言ってるだろ! 毛色の違う子が珍しかっただけだ! 僕は鴻野のものだ。ちょっとふざけたくらいで、からかうなよ!」
高岡の唇が鴻野の跡をたどる。高岡が来る前にした、初老の男とのプレイは淡白だった。飽きられたわけではない。鴻野の体力が落ちたのだ。骨折するのではと怯えた一本鞭の洗礼も、今は息がつまる程度のものだった。
鴻野の援助で都内にセレクトショップを構えるようになってからは、人生とは、商売とはと、口で諭されることも多い。
肉欲におぼれ、情念に振り回されるだけの日々は過ぎた。鴻野が残すものは傷痕だけではなく、唇による花のかたちもあるのだ。
食の好みも鴻野に似てきた。孫の誕生をかなり本気で祝いそうにもなった。鴻野以外の男を部屋に招いたのは、十年ぶりなのだ。本当に。
十年かけて忘れた渦を、いとも簡単にこの男は呼び覚ます。鴻野が残したキスの跡を、当たり前のように前戯に利用する。
「これだから……嫌いなんだ」
「俺のことか」
「他にだれがいるんだよ」
高岡がサイドボードの灯りを消した。耳朶を噛まれる。十年前にも滅多になかった、二度目の承諾を得ようとしている。
「いいよ。でも、鴻野を補う意味でするならやめてほしい。あんな男でも情が移った。あいつがばかにされるなら、首吊って死んだほうがいい」
「短気なところは変わっていないな。主人への礼を欠くつもりはない」
「何で僕と二度目を? 可愛い子やいい男は腐るほどいるでしょ」
「今夜はお前が可愛いからだ」
「あの子よりも?」
射貫かれる前に高岡を見据えた。壬の第六感が確信する。高岡が次に口にする言葉、とる行動。抱いている感情。でも口にはしない。
負け犬になるのは、死ぬより嫌だ。
「あれは商品だ」
「そうだね」
ふたりは互いに、言葉を防ぐために唇を求めた。一度目より深く貫かれる。十年前と同じ声が壬の口をつく。
壬がふたたび月を見たのは、高岡にネクタイを解かれたときだった。
「返しておく」
ベッドの上にあるネクタイに、高岡が待ち針を刺した。
十年前の冬の夜も、高岡は同じ言葉を言った。そのときにベッドに置かれたものは合鍵だった。
壬は針が刺さったネクタイを手にした。シルクのガウンを羽織り、寝室の扉に向かう。腕をとられる。
「何? 水持ってくるだけだよ。それと新しいネク……タイ」
強く抱きしめられた。
あれは商品だ、も、言葉を封じるキスも、遠慮のない挿入も、すべて壬の予想どおりだった。だが、これは違う。
何だよこの、抱きしめ方は。父が息子を抱くような抱き方は。
壬と高岡は五歳しか違わない。壬は二十九歳だ。三十四の男に、こんなふうにされるいわれはない。
背中と後頭部を抱かれ、息が苦しくなる瞬間がある抱擁など、必要ない。壬に必要ないものは、高岡にも必要ないものだ。少なくとも十年前は。
やばいよあんた。あの子に変えられてる。
「ほんとに泊まってく気?」
「アルコールが抜けない。車に乗れない」
「やめてよ。雪が降る」
壬が笑い、抱擁が解けた。高岡がベッドに腰を下ろす。
「あの子の服に針残したりしてごめん。誓って言うけど、試着した後につけたんだからね。悪気はなかった」
「わかっている」
横になった高岡が目をとじた。この男は昔から寝付きがいい。水を持ってくるころには寝息をたてているだろう。
「和幸」
ドアノブに手をかけた壬が、振り返ろうとした。寸前で思いとどまる。
「よく縫えていた。礼を言う」
「本気なの?」
「ああ」
目だけで見た高岡は、窓側を向いていた。壬には推し量ることができない。高岡が目をあけたのか。本当は何に対して本気なのか。
壬は静かに寝室から出た。リビングに入り、金庫に入れておいた長方形の箱を出す。高岡のために買っておいたネクタイだ。ローストビーフの材料を買ったときに、一緒に買ったものだった。
裁縫箱をあける。手首を縛らせたネクタイを裁ち鋏で細かく切る。鴻野に見られないよう、紙に包んで捨てた。
針山に戻す前に、針で指先を突いてみた。予想外に痛い。指を口に含む。
頻度は減ったとはいえ、壬は定期的に鞭で打たれている。鞭よりもつらい苦痛を味わうこともある。老いても鴻野はサディストだ。普通には愛せない。痛みには慣れていると思っていた。
あの少年が針で傷つく姿を想像した。つい先日、高岡が店に連れてきた少年。
まだあどけなかった。話してみたら呆れるほど幼かった。
少しだけだ。本当に少しだけ、傷つけてみたくなっただけだ。
あの日、壬は少年に見立てたドレスシャツの襟に、待ち針を打った。試着室から出てきた少年の目の前での行為だったが、少年はまったく気付かなかった。
高岡は服が入った袋を、少年からごく自然に取り上げた。少年が庭に魅入っている間に袋の中を覗き込み、細く光る針を抜いた。
店内を振り返る高岡と目が合ったとき、壬は自分が微笑んでいないことに気付いた。
「ほんと、これだから好きになれない」
冷蔵庫からミネラルウオーターの瓶を出す。十年ぶりの高岡は立派な雄だった。焼け火箸で掻き回され、鴻野と交わしてきた情が、一瞬だが吹き飛んだ。
壬と同じ黒い瞳の、可愛い少年の笑顔だけがかすまなかった。
努力しても手に入らないものは早めにあきらめる。
高岡が合鍵を置いていったときからの、壬の座右の銘だ。
「眠った?」
ベッドに入り、少し大きな声で言う。返事は穏やかな寝息だった。
「置いとくね。忘れずに持ってってよ」
高岡の枕もとに、ラッピングされたネクタイの箱を置く。今夜のスーツには少々合わないが、高岡は目を伏せて微笑み、身につけて帰るだろう。
サイドボードに置いた水の瓶が汗をかいている。ガラスの表面を、水滴が我先にと落ちる。
高岡を振り返りかけた気持ちも、あの少年への悪戯心も、すべて流れていく。今までにもこうして流してきた。
心配することはない。この瓶も、朝にはすっかり乾くのだ。
壬は落ち着くポジションを探した。背後にいるのが鴻野ではないというだけで、こうも違うものか。
あすは確か、綿ブロードのボタンダウンシャツが入荷する。あの少年に合いそうだ。取り置いておくのも悪くない。
壬の鼻先に、眠りの女神がやってきた。ポジションも決まった。
月の光を反射する瓶の水滴が、安心して眠れ、と落ちていった。
< 了 >
「Cufflinks」初の番外編です。当初、壬は高岡が経営するSMクラブの従業員という設定でした。高岡の店は無店舗のクラブなので、お客様からの問い合わせや予約対応、ホテルの案内や諸々の調整役を担う25歳くらいの青年として考えていたのです。高岡との肉体関係は一切ない設定でした。今の壬の方が、書きやすくて気に入っています。
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