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  若狼の失恋  

 甥が働いているバーでしたたか酔った。
「大丈夫?」
 甥が広げたおしぼりをくれる。樋口(ひぐち)は眉をしかめ、あたたかい布で顔を覆った。
「こんなに飲むとは思わなかったから。薄くしたんだけど」
「そういう気づかいはできるのか」
「仕事だからね。てか、なんかあったの?」
 フランクすぎる口調をたしなめるために甥を睨む。甥は肩をすくめ、ヤブヘビ、ヤブヘビと言いながら別の客のもとへ行った。
 樋口はいやになるほど尾ひれのあるため息をついた。
 大学をひと月で中退した甥が半年続けているアルバイトがどんなものか、様子を見てきてくれと姉に頼まれた。独り身だからと金曜の夜でも無茶振りをしてくれる。
 甥の指摘は当たっている。『なんかあった』ので飲んだのだ。
 報告する自分がつぶれる一歩手前になってどうする。多忙で無理だと断るべきだった。
 ふたたび長いため息をついた樋口の前に、縦長のグラスが置かれた。
「レモン水です。さっぱりしますよ」
 磨きあげられたグラスの列を挟んで立つ若い男に、酔いと思考が絡めとられた。
 ひたいが理知的だ。少し癖のある前髪が印象をソフトにしている。鼻筋はすっと通り、あごの線が凛々しい。唇は外国の俳優のようだ。声がまたいい。低すぎず、甘すぎない。
 切れ長の目を彩る瞳は怖かった。凍てついた灰色の湖面の底に白い炎を隠している。
 先月大喧嘩した恋人の瞳にも、これと同じ熱を見るときがあった。
「叔父さん、飲んでみて。ハチミツ入ってるし、そんなにすっぱくないから」
 若狼にも似た男の横に甥が並ぶ。樋口はひと口飲み、うまいと言った。
 甥が樋口の前に陣取ると、青年はカウンター内を移動した。悩殺するような脚をした女に声をかけられ、微笑んで言葉を交わす。
「彼は……?」
 身内の前であるのに声がかすれる。レモン水を飲みほしてしまいそうだ。
「アキラさん。店長の知り合いで、たまにヘルプで来てくれる。接客以外にパッキンの交換とか、色々してくれるんだ。料理以外何でもできるよ」
「そういえば店長さんは? ご挨拶をしようと思って菓子折りを持ってきたのだが」
 甥がちらと青年を見る。青年は女に魅惑的な笑顔を残し、カウンターの奥に消えた。
「店長は男なんだけど、男が好きなんだ」
 甥が小声で言い、スナック類を盛った皿を置いて続ける。
「で、アキラさんはどうも、店長の彼氏みたいなんだよね」
 むせそうになるのを何とかこらえた。口を拭くふりをして汗を拭く。
「ちょっと衝撃的だよね。店長は体に衝撃受けてて。奥で寝てる」
 目を合わせずに話す甥の態度から察した。店長はあの青年に穿たれたのだろう。
 来店する日時は甥に伝えてある。約束を守れなくなるほど激しく抱かれたのだ。
 下腹が重く、熱くなる。今までに樋口を抱いた男たちが脳裏を駆けめぐった。
「体調が思わしくないのでは仕方ない。お大事にと伝えておきなさい」
「もう少ししたら起きれると思うよ。アキラさんも介抱してるし」
「今夜中に読まなくてはならない書類がある。学びたくなったらいつでも相談しなさい」
 甥に手土産の菓子を渡し、逃げるように店を出た。






「は……っ」
 樋口はベッドで自らを慰めた。書類は鞄の中で、上半身は服を着たままだ。
「ん……」
 ゆっくりとカウパーを男性器全体に塗り広げていく。空いた手でベッドカバーを撫でまわす。下唇を噛み、最初の男を思い浮かべた。
 初体験は大学一年の冬だった。ゲイが利用する酒場で知り合った。
 あれから十五年、樋口の相手は常に同性だった。
 いきりたったものを扱く。喉や背中が反ってくる。鼻にかかった声がか細く出る。ここまでくれば相手は誰でもかまわない。
 広げた脚を折り曲げた。頭を打ち振り、誰かに抱かれている様を夢想する。

 店長と青年が店の奥で交わった。

 一度とりつかれた妄想は容易に離れない。
 店長が約束を気にして懇願しても青年が許さなかったのだろうか。店長を押さえつける青年が全身を強張らせて吐精する。若く引き締まった肉体は汗で光っていただろう。
 端整な顔は後悔の色をみせただろうか。
 恋人を介抱する青年は、少し低い声で何をささやいたのだろう。
「う、あ……!」
 樋口は両膝を胸に近づけ、青年に犯される姿を想像した。窮屈な姿勢で呼吸音が体内に反響する。最後に声をあげそうになり、肘の内側を噛んだ。
「────────!!」
 ぼやけた視界にサイドボードが入る。持ち主をなくした合鍵が置かれたままだった。
 合鍵を見ないよう目を閉じる。電話が鳴っても、決して目を開けなかった。






 翌週の月曜遅く、樋口の足は甥のアルバイト先に向いていた。
「あれ。いらっしゃい、叔父さん」
 甥が迎えるカウンター席にかけるものの、目では青年を探していた。
 青年が奥から出てくる。型どおりの挨拶をして微笑み、静かに食器を洗い始めた。
「店長休みだよ。お菓子ありがとうって」
 また穿たれたのかと思い、青年に背を向けて訊いた。
「お加減が悪いのか」
 甥も樋口と同じ格好をして答える。
「今日は用事みたい。なに飲む?」
「週の初めなのでアルコールは遠慮したい」
「トマトジュースでいい?」
 ああ、と返事をし、青年を見た。
 白いシャツに黒のタイとベスト、スラックス。どれもが似合っている。尻の位置が高い。
 二十二、三か……二十五歳くらいだろうか。横顔が精彩を欠いていた。
「お待たせ」
 縁にレモンが飾られたトマトジュースと食卓塩が置かれた。樋口は慌てて甥に向きなおった。
「彼は元気がないな。店長さんがお休みだからか」
 甥が青年を見る。首をかしげてカウンター内の片づけを始めた。
「いつもと変わらないように見えるけど。あ、眠いのかもね」
 明け方まで絡み合う青年と店長が浮かんだ。小さく頭を振る。若くて健康な男なら、際限のない時期はあるものだ。
 だが仕事に支障をきたすのは感心しない。甥にも悪影響だ。
「……いかんな」
 何が? という顔の甥に、多目に代金を支払った。青年を見ないようにする。
 しっかりした顔つきをしていても青い。精神は成人していないのかもしれない。
 樋口は鞄と上着を小脇に抱え、靴音を響かせて帰った。






 数日後、百貨店の前に青年がいた。ウインドウを見ている。数秒後にはうつむき、ジーパンのポケットに両手を入れて歩いていった。樋口は青年が見ていたウインドウをのぞいてみた。
 結婚指輪がディスプレイされている。
 気の抜けた笑い声が漏れた。
 青年は容姿に恵まれている。仕事とはいえ、女とも自然に会話していた。
 狙っている女がいるのかもしれないな。彼なら引く手あまた。
 樋口とは違うのだ。同性との未来に迷い、ばかげた喧嘩などしないに決まっている。
 道はあったほうがいい。自分から苦難に飛びこむことはない。






 姉から電話があり、土曜日にファーストフード店で甥と会った。
「アルバイトを辞めると聞いたぞ。どうしてだ」
「えー? 自分から辞めるんじゃないよ。母さんが言ったの?」
 呆れ顔の甥が二個目のハンバーガーにかぶりつく。
 昨夜電話してきた姉は高ぶっていた。ひとり息子のことで亭主とやり合ったらしく、一方的に切られてしまった。当の本人はけろっとしている。この顔を姉に見せてやりたい。
「店長が田舎に帰るから、店を人手に渡すんだって。やっと慣れてきたのにな」
 樋口の危うい本性が跳ねた。店長と青年はいい仲だったはずだ。
「それは残念だな。ところで田舎に帰るとは?」
「うーん。ケッコン、かな」
「結婚って……店長さんは、その」
「バイセクシャルっていうの? 店長、それなんだって。そういう人ほんとにいるんだね」
 郷里で結婚となれば青年も追いはしないだろう。素晴しい容姿の青年にフリー期間ができる。
 自分には関係のないことだとわかっていても、心の隙をつかれたように感じた。
「大人の世界は複雑だからな。アキラくんは? 他の店に移るのか?」
 甥が手を横に振る。
「他のバイトで忙しいし、学校あるし。あの人すごいんだよ。T大ストレートで入ったんだ」
「T大っ?!」
 うなずく甥を前に、樋口の積み木が崩れた。いや、積むという作業すらしていない。勝手な思いこみだ。
 水商売の同性と恋に落ちた青年を、定職に就かない遊び人だと決めつけていた。睡眠不足も享楽的な生活のためだと。
 あの青年の痛手を思いやろうとしなかった。あまつさえマスターベーションの材料にした。
 眼底の白い炎は店長への恋慕で、ウインドウの指輪に決別を重ねたかもしれないのに。
「どうしたの、叔父さん。青い顔して」
 樋口は視線を甥に戻し、力なく笑った。
「なんでもない。それよりお前だ。大学に入りなおす気はないのか」
 反抗するかと思いきや、甥は膝をそろえて背筋を伸ばした。
「ちょっと考えてるんだ。予備校……行ってみようかなって。今夜、父さんと母さんに相談する」
「それがいい」
 ジュースを飲んだ甥が目を見開いた。壁一面の窓を指さす。
「アキラさんだ」
 樋口も振り返り、椅子の背に乗り出して外を見た。
 銀色のビール樽を提げる青年がいた。片手で酒瓶のケースを乗せた台車を押し、片手で業務用の樽を持っている。涼しい顔で運んでいても、Tシャツの背が濡れて濃い色になっていた。
 学業や仕事には恋を思い出に変える力がある。彼もいずれ次の相手を見つけるだろう。
 先週の金曜にかかってきた電話は、合鍵を置いていった恋人からだった。出ずにいたくせに、留守録のテープに残った声を消せないでいる。
 今夜、電話してみようか。
 路地に入っていく青年を眺めながら、それも悪くないと思った。




<   了   >








  2010年9月頃の拍手お礼用SSです。少し修正しました。無修正版(笑)は コチラ
  オカズにされてしまった高岡が十九歳なので、Cufflinks から十五年くらい前になります。
  当時は「てか」とは言わなかったのですが、軽い感じにしたくて使ってしまいました(汗)
  電話が微妙な時期で、サラリーマンでケータイを持っている人は少なかったような。ポケベルは元気でした。
  家庭用の電話も、大振りでないコードレスの子機付きがようやく出た頃だと思います。
  ちなみに我が家の電話は黒電話(ダイヤルをジーコロするやつ)で、私はPHSを使っていました。古いわー(笑)
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