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こぬか雨


 花屋をあとにしてビルの角を曲がる。雲行きが怪しいと思ったら雨が降ってきた。
 高岡は急ぎ足で駐車場に入り、車のドアを開けた。助手席に花を置く。芳香が鼻先をかすめた。

 『キクの香りは邪気を払うと言われています。仏様を守ってくれる花なんです』

 夏休みの体験アルバイトに従事していた仔犬の笑顔がちらつく。他意のない笑みだった。拙いながらも営業用、あるいは、突然現れてはペースを乱す調教師に媚を売ろうという表情ではない。
 墓参は故人のためだけにあるのではない。わざわざ出向き、花や線香を供えることで「亡くなった者を偲ぶ自己」を保つ。残された人は体裁を取り繕いながら、少しずつ死を受け入れていく。
 だが、あの仔犬は天地が引っくり返ってもそうは考えないだろう。
 心からよかれと思って菊を多く選んだのだ。墓の下にある、見知らぬ人骨のために。
 窓を下ろして一服しようとした。視界の端に仏花が入る。
 舌打ちし、ライターの蓋を閉じた。このところ喫煙を中断することが増えた。決まって仔犬がかかわっているときだと思い至ったのは、こぬか雨が濡らす車道に出てからであった。








 寺で掃除道具を借り、線香を買った。相場より多い布施を住職の妻が一度は断る。二度は断らず、墓地に続く石畳を歩くころには庫裏の引き戸が閉められる。
 優しい雨は辺りを湿らすばかりで、落ちた葉や汚れを落とすには至らない。高岡は墓石を洗って敷地を掃き、花と線香を手向けた。霧雨が華美な花を濡らす。
 ここに眠る少年とは、わずか二か月の縁だった。
 出会いは四年前の春だ。当時の高岡は企業のお抱え男娼を躾けるようになって一年程度であったが、少年を見た瞬間売れると確信した。暗さがない。寂しげではあっても卑屈さとは無縁だった。
 依頼主も実績が足りない調教師に難しい案件は任せない。少年には男を相手とした売春経験があり、肉親も親類もいない。いわゆる親バレの心配がない子だった。
 正真正銘の天涯孤独という生い立ちは稀なものだ。事前に知らされていた情報を信じなかった高岡は、あらゆる手段を講じて少年の背景を調べた。塵ひとつ出てこなかった。少年には、まったくもってひとりの縁者もなかった。
 顔は十分見られる。肉体は柔軟かつ強靭で、想定し得るあらゆる要求に耐えて応えた。教育は中学で終了していたが知識欲はあり、教えれば飲み込む。浪費癖や薬物依存もなく、質の悪い仲間もいない。短い期間で洗練され、華やかな笑顔も見せるようになっていた。
 頃合いを見て抱いた夜、少年は高岡の背に手をまわして眠った。すがるように眠る十七歳の髪を撫で、薄笑いを浮かべた記憶がある。
 この仕事は楽にいける。頭の片隅にそんな考えが生まれたのは否めない。
 大きな問題もなく契約満了を迎えた。上客がつくのも早く、有望な専属男娼として企業も手厚く扱った。
 警戒すべきだった。うまくいきすぎていたことに。
 数珠を収めて花桶を手にしたとき、砂利を踏む音がした。振り返ると中年男が立っている。
「あなたが……先に来ていましたか」
 自らの言葉に打ちのめされたように、男の目に影が差す。高岡は一礼して墓の敷地から出た。
「待ってください」
 高岡を呼びとめる声が切羽詰まっていた。桶を持つ手も震えており、柄杓が音をたてている。
「あの子から、聡(さとる)から何か聞いていませんか」
 同じ言葉を四年前にも聞いた。墓下の少年……聡の通夜で、この男が聡の担当社員に言っていた。
「聡は亡くなる日の翌週に、必ず会うと言ったのです。七夕祭りに行くつもりでした。なぜ……なぜ約束を違えて、ひとりで……」
 通夜では男と入れ違いで帰ったため、七夕祭りのことは初めて耳にする。
 遺書も残さない最期だった。答えは聡の心にしかない。
「申し訳ありませんが、僕は何も……失礼します」
 男が追ってきた。傘と傘とがぶつかる。男の傘が落ち、高岡は二の腕をつかまれた。
「あなたを責める気はないのです。あなたは聡を躾けた方なのだと、社員さんから伺っている。私はただ、聡の最後の声が知りたいだけなのです」
 雨が強くなった。我に返った男が高岡を放す。
 高岡は男の傘を拾って手渡し、ふたたび礼をした。何も知らないと繰り返した。
「そうですか……」
 男が肩を落とす。チャコールグレーのスーツが顔にも体にも合っている。身につける物はどれも一流で、髪も手入れされている。冴えない箇所は顔色だけだ。
 どれほど贔屓にしていても、春をひさぐ者が死んで駆けつける客はいない。聡の通夜が前例となった。男は血相を変えて斎場に飛び込んできた。担当社員を振り切り、祭壇の前で慟哭したのだ。
 ふたりは道ならぬ関係になったのだろう。
 通夜の席にいた誰もが、聡の自殺理由を察したつもりでいた。
 墓地の中央を貫く石畳に、高岡の靴音だけが響いた。








 仕事をこなして帰宅したのは明け方だった。寝酒も進まず、カウチソファで横になる。

 ────亡くなる日の翌週に、必ず会うと言ったのです。七夕祭りに行くつもりでした。

「翌週……?」
 高岡は寝室に入り、四年前の手帳を出した。七月第五週にS通夜、葬儀とある。Sとは聡のことだ。
 聡が自宅マンションで首を吊り、死亡が確認されたのが四年前の昨日だった。
 リビングに戻ってパソコンを立ち上げる。四年前の七夕祭りを検索すると、七月の第三週から八月の第二週まで開催していたところがあった。一度はシャッター通りとなった地域を盛り立てようと、十年ほど前から都内の商店街が催しているらしい。
 色とりどりの七夕飾りを見て何を願う。一夜の夢も翌朝には消える。客には妻子があり、割って入るなど許されない。逢瀬のあとのつらさがわかっていたから、先に逝ったのか。
 高岡にしがみついて眠った聡を思い起こす。まだ子どもだった。
「教えておくべきだったな、聡」
 添い遂げられない人を愛したなら生きて別れろ。
 順調な仕事に慢心し、当たり前のことを教えなかった。
 グラスを持って窓辺に立つ。遮光カーテンのすき間から白む空が見える。
 細い通りを挟んだマンションのベランダに花が咲いている。キク科の花だろうか。
 仔犬が選んだ花に似ていた。


<  了  >









2011年七夕さまSSです。甘い逢瀬じゃなくてスミマセン(汗)

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