夕刻からの雨がやまない。雨足は意外に強く、風も出てきた。
 書斎の雨戸を閉める音に紙の音が重なる。高岡くんが報告書を机に置いた音だろう。秘書が用意した報告書は簡潔で理解に易いが、情報量は少なくなかった。見目麗しい客人は書類を読み飛ばさない。
 最初のページを繰って数分とかけず読み終えたということだ。
「佐伯様。いかがなさいましたか」
 耳に心地よい、少し低い声がした。私の苦笑を認めたのであろう。
「失礼。きみは武器が多いと思ってね」
 机上には報告書が伏せてある。私は窓から離れて飾り戸棚を開けた。シガーボックスを出す。祖父も父も葉巻を大変好んだが、私は吸ってもミニシガー程度だ。食後に少し。最近はさらに減らしている。
「きみには欠点がほぼない。立派に独立も果たした。きみの虜になった者は、次はいつ会えるだろうと一日千秋の思いだろうね。Yのように」
 私と高岡くんは同時にYを見た。ソファに丸まって眠る、痩せっぽちの新参愛奴だ。
 これでも多少肉がついてきた。三浦から貰い受けた日より二キロ重くなっている。
 今日、外出先で偶然会った高岡くんを連れ帰った私は、Yの輝く瞳を見てしまった。私だけが帰宅したときにはなかった輝きだ。
 私は生身のYを知っている。細心の注意を払って鞭で打ち、時間をかけて抱いた。染まる顔も、言葉のない悲鳴も、私が残した鞭の痕を私に舐められてよじる腰も、すべて私のものだと思っていた。
 それがどうだ。玄関で高揚したYの瞳に、私はくじけそうになっている。
「僕は箸にも棒にもかからない男です。何とか食べている僕を待つ奇特な人などいませんよ」
「謙遜が下手なところは、いただけないね」
 険のある物言いが修正できない。不惑を過ぎているというのに。
 シガーボックスの中にある、カラフルな紙の箱から似非葉巻を取り出す。先に吸うようすすめると、高岡くんは一礼して火をつけた。
「父が好んだシガー工房の新作だよ。カカオの着香がされているので、口に合わないかもしれないが」
「いい香りです。ありがとうございます」
 薄衣のような煙と甘い匂いが満ちていく。私もひと口吸い、Yを調べた報告書を再読した。
 筧裕哉(かけい ゆうや)。二十二歳だが、自分の氏名を漢字で書けない。記憶の欠落も激しい。
 中学生のころから不登校になり、高校には進まず家出と保護を繰り返す。
 十七で最初の主人に出会い、Yの人生は変わった。主人は誠実な男だった。Yを両親に返し、通信制の高校で勉強させた。会うのは週末だけ。門限を破ったことはなかったという。
 一年半、主人はYのもとに通った。傷を残す行為もしなかった。愛していなければできないことだ。
「急逝したのが二月とありますね。最初の主人は心臓病を患っていたのですか」
 私はうなずき、灰を落とす。
「通報で駆けつけた救急隊が見たものは、自宅の風呂場でこと切れた主人と、訪ねてきて主人の死体を発見したYだったそうだよ」
「訪ねてきた……?」
 高岡くんが少々厳しい目をYに向ける。
 主従関係で『待つ』ことは重要な意味をもつ。
 主人からの連絡を待つ。見つめてもいいと許されるまで待つ。待ち続けても指一本触れられないこともある。数か月ぶりの逢瀬でもだ。私も数えきれないほど愛奴を待たせた。
 愛奴の瞳がうるみ、震える唇を見るたび、これを望み、欲し、待っていたのは私のほうなのだと思う。甘美な瞬間だ。
 Yはひととおり躾けられている。自立した人としては合格ラインに達していないが、愛奴としてならこれといって矯正する点はなかった。書く作業はおぼつかないが、与えた本はよく読んで理解する。
 そんなYが主人を待たずに訪ねた理由は、ひとつしかない。
「虫の知らせだと、当時のYは言っていたそうだよ」
 私はミニシガーを灰皿の底に当てた。カカオ臭を含む煙が立ちのぼる。壁際で物音がした。
 目を覚ましたYがソファに座る。まだ痩せている頬を、ひと筋の涙が濡らした。
「寝ぼけたのかい」
 私の問いにYが頭を左右に振る。亀に似た首を伸ばし、犬が嗅ぐように空中を鼻でなぞり始めた。眉をしかめて目をきつく閉じ、くんくんと嗅ぐ。愛らしい仕草ではあるが、客人の前ではふさわしくない。
 やめさせようとソファに近づこうとしたとき、高岡くんが立ち上がった。
「確かめたいことがあります。無作法をお許しください」
 私が許可すると高岡くんは灰皿を持ち、ソファに移動した。乱暴な座り方で腰を下ろす。
 Yの目が開いた。突然の振動に驚き、怯えた表情で高岡くんを見る。
 高岡くんはYの鼻先でミニシガーを消した。灰皿からカカオの煙がゆらぐ。人工的で甘い香りのついた煙を、Yは深く吸い込んだ。
 Yがソファから転がった。全力で絨毯を這い、私の足にキスをする。
 息を乱してまつ毛を濡らし、心をこめたキスを繰り返した。
「最初の主人が亡くなったのが二月です」
 机に灰皿が置かれる。淡い灰色の双眸をもつ調教師が、私の愛奴に深い眼差しを向けた。
「恋をする者にとって、二月は特別な月です。昨今の若者は必ずしも気にとめないようですが」
「……バレンタインデーか」
 私はYの頭を撫でた。張りのない、細い髪が指に絡まってきしむ。
 二月のある日、愛する主人が旅立った。
 耐えがたい記憶が二月の香りによって引っぱり出された。
 嗜好品に着香されたカカオの香りで、主人との別れを把握したのだ。
「朝からの仕事がありますので、これで失礼します」
 高岡くんが帰り支度をする。優秀なサディストは一服の喫煙でYの記憶と感情を掘り起こした。
 鞭で皮膚を裂いても体の中に分け入っても、Yの感情の針が振りきれることはなかった。
 疲れて眠るYをかき抱きながら、どうすれば痩せた愛奴の心をつかめるか考えていた。
 手ひどい折檻をしないだけで、私も三浦と変わらないではないか。
「きみを変えたのはあの仔犬か」
 高岡くんが振り返る。眼光は鋭いが、整った仮面は外さない。
 神に感謝した。高岡くんが少しでもひるんでいたら、私は無礼な攻撃を続けていただろう。

 『私の車でYに右手への口づけを許したとき、きみは目を閉じた。人が人に服従する様を一瞬たりとも見逃すきみではない。いったい、どうしたというのだ』

 出さずにすんだ言葉を隠し、未開封のミニシガーを高岡くんに手渡した。
「よければ慰みに」
 礼儀正しい調教師は、型どおりの謝辞を述べて扉を開けた。絨毯にはYが正座している。
 私は暗い熱を抑え、均整のとれた後ろ姿に話しかけた。
「二月には、Yにチョコレートを贈ってもらえると思うかい」
 二度目に振り向いた顔は、仮面を被っていなかった。形よい唇の端が上がっている。
「ええ。必ず」
 私も笑い、扉の脇にあるベルを鳴らした。家政婦頭が切れ者を玄関に送る。
 Yのもとに戻った私は、薄い耳にささやいた。
「お前の前から急にいなくなったりしないよう、煙草を減らしているのだよ」
 落ちくぼんだYの眼底に、確かな輝きがあった。


<  了  >


サディスト仲間に嫉妬する良家のオッサンです(笑)
味覚的に甘くなく、みっともないバレンタインを目指しました。

[10年 02月 21日]