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  クレヨン  

 四時を回っても六月の空は明るく、蒸した空気が色々なものを運ぶ。焼き魚のにおい、踏切警報音、生ぬるい風。仕事を終えた人を迎えるために、朝とは違う活気にあふれてくる。
 居間の座卓で翔太がアンパンを食べている。少しずつちぎって口に入れていた。
「翔太、うまいか?」
 翔太は無言でアンパンのカケラを俺の鼻先に突きつけてきた。子どもの口には大きいサイズにちぎられたパンは、表面に塗られた油と翔太の唾液でてらてらしている。
「お前のだ。全部食べろ」
 こちらを見る目が大きい。顔が小さいから目が大きく見えると気づいたのは、翔太を幼稚園に迎えにいったときだ。同じ年齢の子と比べて、翔太はかなり痩せていた。
 間食させるから食事をしなくなるという、妻の主張もわかる。わかってはいても、ものを食べる翔太は俺を安心させた。
 突きつけられたアンパンを押し返そうとすると、翔太がかぶりを振った。
「きょうは、あげる日」
 黒い瞳が濡れて動いている。どうしてもパンを分けたいのだろうか。
「お父さんのパンじゃない。翔太が食べるんだ」
 自分をお父さんと言うのは変な気分だった。重くならないように言ったつもりが、翔太は悲しげだ。薄い肩を落とし、ちぎったパンと畳とを見ている。
 俺は翔太のわきの下を持った。きゃはっ、と声をたてて翔太が手足をばたつかせる。膝に翔太を座らせ、アンパンを手で持ってみせた。
「パンはこうやって食べると、もっとうまいぞ」
 かぶりつくジェスチャーをして、翔太にアンパンを持たせる。翔太も真似をして挑むのだが、口の横を押さえてしかめっ面になった。
「どうした、翔太。見せてみろ」
 翔太の口を見てみた。唇の端が切れている。黄色い粘液が固まったものに、血がまじっていた。
 栄養が偏っているのか、翔太は口の周りにひび割れを作ることが多い。
「野菜や肉も食べてるか?」
 ふたたびパンをちぎり始めた翔太が、首を小さく横に振った。
「パンも食べていい。いいけど、ごはんも全部食べる。約束したろ?」
 今度はぎこちなくうなずく。
 翔太は連れ子だ。妻と出会ってしばらくして、子どもがいるのだと打ち明けられた。俺は妻にほれていて、五歳の翔太は結婚の障害にならなかった。障害にしないようにした、というべきか。
 ビルの夜間清掃をする三十男と再婚したから不幸になった、などと、誰にも言わせたくない。
 俺は座卓に手をついて立ち、翔太の頭をくしゃっとなでた。
「お父さん、仕事に行くからな。火にさわるなよ」
 翔太がうつむく。尖った唇が、上から見ると鳥のくちばしみたいだ。翔太はアンパンを丁寧に置き、ズボンのポケットから何かを出した。
「こ、こ、これ、こっ、これ、あっる。あ、あ、あ、あ、あげ、あげる」
 翔太はたまにどもる。引き合わされたころはとまどったが、もう慣れた。
 四つにたたまれた紙を押しつけられる。俺は頭をかきながら受けとった。
「ありがとな。お母さんの言うことよく聞いて、ちゃんと食べるんだぞ」
 アパートの階段を下りて自転車に乗る。開かずの踏切につかまった。これに引っかかると十分は動けない。
 胸ポケットに手を入れたら、翔太の紙が触れた。周囲に背を向けて開いてみる。
 ジャガイモのような輪郭は顔なのだろう。その顔から棒で描かれた首、胴体、手足が伸びている。幼稚園で見たほかの子の絵は、胴体が棒ではなかった。立体的で、たくさんの色が使われていた。
 だが、このジャガイモは笑っている、笑って、手にはパンらしきものを持っていた。
 黒と肌色のクレヨンでジャガイモ人間が描かれている。
 ジャガイモ人間の頭上には、大きな字で「パパ」とあった。

 『きょうは、あげる日』

「やばい! 今日、父の日じゃん。何も買ってないし」
「あー、うちも。父の日って忘れるよねー」
 女子高校生たちが元気よくしゃべっている。
「父の、日」
 列車が通過する。
 風にあおられそうになった翔太の絵を、俺は強く握った。


<  了  >





お題挑戦作品 2009年06月作・2009年12月・2011年06月改稿 (2009年06月・2009年12月は別名での発表)
お題配布元: 文字書きさんに100のお題 様
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