NOVEL

紅い夢

 時折、ひどく厭な夢を見る。

 真っ赤に濡れた床。引き裂かれたカーテン。辺り一帯、壁にも天井にも、至るところに撒き散らされた紅い飛沫。ずるりと滑りそうになりながら、俺はその部屋の中、歩いている。床に落ちているのは、かつて『人間』だった断片。どれもこれも原型を留めておらず、男か女かも判別付かない酷い有様だ。なのに、俺はそれを何の感慨も持たず、冷静に眺めている。高揚も、畏れも、何も感じない。静かな気持ちで、何も感じずに、一人歩いている。
 ひどく広い部屋だ。ドアが一つも無い。窓は全て黒く塗り潰されている。部屋の照明は薄暗い。蝋燭のような、淡い光が、ぽつん、ぽつんと灯っている。幾つもの部屋を繋ぎ合わせたような、おかしな作りをしている。部屋の四隅に、張り出しがあって、そこに蝋燭のような照明が置かれている。その部屋を右に曲がる。同じような部屋と光景が途切れる事無く続いている。感覚が麻痺している。何も感じない。今更俺は何も感じない。ぐしゃり、と足下で何かが潰れた。人間の死体の一部だったかも知れない。それでもわざわざ屈んで見ようとは思わなかった。俺は無視して、そのまま進んだ。
 何処にも誰も、生きてる気配が無い。俺以外の全ての人間が死んでいる『世界』。その中で、俺は何も感じず、何も苦しまずに、平然と歩き続けている。誰かの血を踏みつけて。誰かの遺体を踏み潰し。良心の呵責を覚える事も無く。痛みを覚える事もまるで無く。全ての器官が麻痺してしまったように、何も感じない。
『……中原』
 何処か遠くで俺を、呼ぶ声がする。
『中原、ここだよ』
 俺は歩調を緩める事も、早める事も無く、ただ声のする方角へ向かって歩いている。
『ここだ。……ここだよ。早く来いよ?』
 そう言われても、歩調は変わらない。俺の心は何も感じない。歩いて、歩き続けて、俺はそこへ到達する。
 全ての部屋の最深部。そこに長々と横たわる、首から紅い血を垂れ流し、嗤う白い首。
 俺は、初めて悲鳴を上げた。腹の底から。
 首から下を、何か物凄い力で引きちぎられたかのような。他には一切傷が無く。刃物では有り得ない無惨な傷口を晒して、『彼』は嗤った。
『何、驚いているんだよ?』
 その首は嗤う。にやにやと。楽しそうに。凶悪な笑顔で。
『お前の仕業だろ?』
 『彼』は嗤った。
『ここにいる『他』の奴らも、俺をこんな風にしたのも、全部お前の仕業じゃないか。何を今更、驚いてる?』
 ──嘘だ!
 思わず叫んだ。
 そんなのは嘘だ。だって、俺が、『彼』にそんな事をする筈が無い。だって、『彼』は……っ!!
『俺自身が、そう言ってるのに? お前に殺された、俺自身がそう告げているのに? ……お前、随分記憶力弱いな? それとも、自分のせいじゃないって思い込んで、逃げようとしてる?』
 凶悪な笑顔で、俺を追い詰めて。
『俺が手に入らないから、お前の物にならないから。だから、お前は俺を殺したんだろう?』
 俺は、悲鳴を上げた。
 『彼』は──『久本郁也』は、凶悪なくらい、美しい笑顔で俺を見つめた。魅入られそうに射すくめられそうに、真っ直ぐに。俺は悲鳴を上げ続けた。
 『彼』の甲高い嗤い声が、部屋に響いた。

「おい、中原。中原!! ……大丈夫か!? 中原!! おい、こら!! 何とか言えよ!! こら!!」
 自分を揺り動かす腕と声に、目を開けた。ぼんやりとした視界の中に、心配そうな『彼』が見えた。
「!?」
 一瞬で、目が覚めた。
「……えっ……?」
 目の前に、困惑した表情の、久本郁也──俺がこの世で唯一人愛している人──がいた。
「……お前、うなされてたぞ」
 そう言って、舌打ちした。
「……おかげで俺の安眠妨害された」
 と唇を尖らせた。
「……すみません」
 謝ると、眉を顰めた。
「何、謝ってんの? お前」
「……え? だって……」
「バカじゃねぇの?」
 ぶっきらぼうに、そう言われた。
「本気でお前、バカじゃねぇの? 何で俺に謝る訳? お前、本気でバカだろ? こういう場合、お前の言う台詞は違うだろ? 『すみません』とか言ってんじゃねーよ。ばぁか」
 苛々した口調で、そう言われた。どうやら、眠っているところを、俺の声か何かで邪魔されて、ひどく不機嫌らしい。
「すみませんでした」
「だからっ!! 謝ってんじゃねぇよ!! お前、学習能力無いのか!? とんでもねぇバカだな!! お前、小学生からやり直したらどうだ!?」
 怒り、最高潮ってところだ。俺は溜息をついた。
「……そうですね」
「『そうですね』だぁ!? お前本気でバカだろ!!」
 うわ、何だか今日はひどく絡んで来るな。本気で機嫌悪い、この人。どうしたら良いんだ? この人にはいつも、困惑され混乱させられる。この人は俺を振り回す事に掛けては、本当天才的と言って良い。
「お前、俺が何で怒ってるか判ってないだろ!!」
 肩をすくめた。
「すみません。バカなもので」
「厭味か!? それは!! 厭がらせなのか!? なあ!!」
 ……この人が何故、こんなに怒ってるのか判らない。大抵の事がそうだ。俺には良く理解出来ない。この世で俺ほど彼を理解している人間はいないと自負しているが──実際、俺ほど彼を理解していない人間もいないような気もする。矛盾しているようだが。
 何故、彼は怒ってるんだろう?
 途方に暮れて、じっと見つめた。彼は眉間に皺を寄せて、大仰な溜息をついた。
「……お前、本気でバカ」
 謝ったりしたら、余計怒られるな。代わりに肩をすくめた。言ってる意味が判らない、だなんて言ったら更に怒られるだろう。だから、代わりに口づけた。
 額に。目のすぐ傍に。瞼の上に。鼻に。頬に。顎に。唇に。
「……やめろよ。くすぐったい」
 そう言いながら、抵抗一つしない。
 ──本当良く判らない人だ。
 先程までの険悪さが嘘みたいに、くすくすと彼は笑った。
「……お前さ。そういう事しか考えられない訳?」
 そうは言うけど、今のあなたはそれを厭がってない。
「……楽しいでしょう?」
 笑って言うと、彼は顔をしかめた。
「……お前、本当質悪い」
 それはこっちの台詞だ。
「あなたこそ、質悪いですよ」
 言うと、舌打ちされた。
「お前にだけは、言われたくないな」
「俺の方こそそうです」
「……減らず口」
 そう言うと、唇を尖らせた。可愛い。何だか嬉しくなって、もう一度キスした。強く、ついばむように吸い上げる。濡れた音を立てた。
「……言っとくけど、もうこんな夜中に、俺はしたくないからな?」
 俺はきょとんとした。
「……『何』をですか?」
 聞き返したら、彼はぱあっと真っ赤になった。
「ばっ……バカっ……聞き返すなよ!!」
 その表情を見て、思わず唇が緩んだ。
「お望みなら、幾らでも『して』差し上げますよ?」
「だっ……誰がそんな事言った!! 俺は『するな』って言ったんだぞ!? 誰が『やれ』と言った!!」
「ヤだなぁ、今更恥ずかしがらないで下さいよ。俺とあなたは、あんな事もこんな事も色々いっぱいした仲でしょう? 今更何も恥ずかしがる事無いでしょう? ……ああ、そうだ。シックスナインってまだ、やった事ありませんでしたね。やりますか? ねぇ」
「だからっ!! 俺はやりたくねぇって!! ちゃんと人の話は聞けよ!! バカ!! 明日は学校あるんだぞ!? 寝坊して遅刻、なんて事になったらどうすんだ!!」
「大丈夫。休めば良いんですよ。身体の具合が悪いって。嘘じゃないから全然平気ですよ」
「平気な訳あるかっ!! お前、ふざけんなっ!!」
「恥ずかしがらなくたって平気ですよ、郁也様。俺はあなたの恥ずかしい部分の事を、あなたが隠そうとして実はエッチな事も、ちゃんと全部判ってますから。俺の前ではどんな恥ずかしいところも見せたって構いませんよ。どんどん見せて下さい。俺はあなたの全てを知りたいんです」
「何バカな事言ってるんだ!! 俺は寝たいんだ!! ちゃんとまともに眠りたいんだ!! ボケかますんじゃねぇよ!! このエロ変態すっとこどっこい!!」
「……もっと言って下さいよ?」
 にやりと笑った。彼は絶句した。
「あなたの声がもっと聞きたい」
 ──他の誰でもこんなには感じない。
 どんな言葉でも良い。俺を傷付ける言葉でも。俺を否定する言葉でも。俺の内臓を抉っても。あなたの声が、俺の心を震わせる。あなたの声が、あなたの言葉が。もっと俺を震わせて。甘い、陶酔。あなたの声が発したものなら、それがどんな言葉でも良い。俺には甘い媚薬だ。毒を含んだ、甘い媚薬。一度中毒したら、やめられない。どれだけ求めても、どれだけ欲しても、満たされない。満足して充足する事がまるで出来ない。麻薬。
「聞かせて下さい」
「……へっ……変態っ……!!」
「……もっと」
 もっと、ずっと。俺を……俺を見つめて。俺だけを感じて。
「スケベ!! 色魔!! エロ大魔人!! エロオヤジ、エロ変態、エロボケ、色ボケ野郎!! 筋肉デブ!!」
「……もっと言って下さいよ?」
 そう言いながら、パジャマのズボンの中に指を滑り込ませた。彼は小さく喘ぎ軽く仰向いて、白い喉が薄闇に浮かんだ。俺は思わず歯を立てた。
「……お前、本気で質悪いよ!!」
 泣きそうな声で、苦しげに、彼は言った。俺は彼の目を見た。潤んだ瞳で、彼は俺を見つめた。
「……気が……狂いそうになる」
 甘い、声で。俺はむしゃぶりつくように、噛み付くように、キスをした。好きだ。この人が好きだ。凄く好きだ。たまらなく好きだ。もう、自分ではどうしようもない。どうにも止められない。好きで、好きで、壊したいくらい、殺してしまいそうなくらい、この人が好きだ。こんなのは尋常じゃない。こんなのはまともじゃない。絶対まともじゃない!! 判っていても止められない。殺してしまったら、壊してしまったら、もう何もかもお終いなのに!!
「好きです……っ!!」
 切実に。
「好きです!!」
 狂気を伴う程に。
「好きです!! あなたの事が……っ!!」
 凄く、好きで。たまらなく好きで。精神が壊れそうなくらい、理性のたがが外れそうなくらい。この世の何もかもが、歪んでしまいそうな程に。あなたが。あなたを、欲しいと思う。あなたが好きだと思う。こんな気持ちはまともじゃない。
「……好きです」
 どうか、俺の破壊を止めて。俺があなたを壊さずに済むように。あなたを殺さずに済むように。俺は、俺自身を信じられない。俺は俺という人間を信用できない。あの、『紅い夢』が現実にならないように。あなたという人を失くして、俺は何処にも行けない。俺は何処にも居場所が無い。
 あなたが好きだ。心が、壊れそうな程に。この世の何もかもが、崩れそうな程に。あなたが好きだという、それだけが、俺の、心の中の真実。
 あなたが俺を受け入れてくれなくても良い。だけど決して俺に殺されないで欲しい。俺の手でなど、死なないで欲しい。俺に殺されるくらいなら、あなたが俺を殺してくれ。俺が正気を保っているうちに。俺の理性がかろうじてあるうちに。
 あなたを殺してしまうかも知れない自分が、ひどく恐い。あなたを壊してしまうかも知れない自分がひどく厭だ。嫌悪感で、殺せそうなくらいに。俺は我が儘で、あなたの腕を手放せない。同情でも、憐憫でも良い。そんなのは厭だと、心が叫んだりするけど、俺の身体はそれでも良いと、求めてる。本当に欲しいのは、あなたの心。だけど、それが未来永劫手に入らないなら、肉体だけでも良い。あなたを俺で支配したい。誰にも触れさせない。誰の目にも触れさせない。あなたの綺麗な部分は誰にも触れさせない。俺だけの物にして、俺だけが独占して、俺だけで埋め尽くして、他の誰にも抱いたり出来ないように、刻印を押して、俺色に染め上げて、誰にも見せない。あなたがどんなに抗っても。あなたがどれだけ悲鳴上げても。それが厭なら、殺せば良い。俺はあなたの為なら、幾らだって心臓を差し出せる。俺の心臓はあなただから。俺の生きる『糧』はあなただけだから。あなたが俺の『生きる指標』。あなたが俺の『核』となるもの。あなたを失くして、何処にも行けない。あなたが俺を必要としなくても。あなたが俺を愛さなくても。
 あなたが好きで、あなたを欲しいと思う、それだけが。今の俺を支えているもの。抜け殻で壊れ掛けた俺という肉体を、この世に縛りつける唯一つのもの。
 俺の声は、あなたに決して届かない。俺の想いはきっと一生叶わない。それでも良いと思わせたのはあなただ。俺は無理矢理にだって、あなたを押し倒し続けるだろう。あなたが俺を殺す日まで。あなたが俺に選択させた。俺が自力で死ぬか、それともあなたのために死ぬかを。今更、そんな事は知らないと言っても、もう遅い。俺は今更意志を翻す気は無い。後で虚しくなると判っていても、それでも俺の下であなたが哭く姿を見るのは、恍惚とする。俺の肉にあなたが酔って、陶酔と快感に瞳を濡らすその様が、たまらなく好きだ。口では厭がっても、その目が、唇が、肉体が、『もっと』と欲しがるその姿を見つめるのが、たまらなく好きだ。セックスしてる時のあなたの瞳は雄弁で、蠱惑的で、魅力的だ。檻に閉じ込めて、そのまま離したくないくらい、あなたの背中の翼を無理矢理へし折り、奪い去りたいくらいに。両腕・両足・全ての関節。何もかもをへし折って、動けないようにして。それでもってあなたを蹂躙したら、あなたはどんな目で俺を見るだろう? 恐怖? 畏怖? 憎悪? 嫌悪? ……今のようには笑わなくなるだろう。今でさえ、その笑顔を見るのは貴重なのに。
「な……かはらっ……!!」
「……郁也様……っ!!」
 彼は、知らない。俺がこんな事考えてるなんて、彼は知らない。全く思いもしないだろう。そんな事があるだなんて、想像もしない。それだけは絶対に断言出来る。言ったら泣くかも知れない。……泣かせてみるもの良い、なんて思う自分に吐き気がする。泣かせたい訳じゃない。泣かせようと思ってる訳じゃない。……本当は、愛されたいだけなんだ。判っている。……判っているのに。俺は失敗ばかりする。俺は償えない罪を犯す。
 いや、彼はきっと泣かないだろう。泣いてくれると良い、と思うのは俺の幻想。俺の勝手な夢。
 好きだと思う、それだけの感情なのに。俺はどうしてこういう人間なんだ。吐き気がするけど、きっと一生直らない。
「……あなたが好きです」
 たぶん、それだけは、紛れもない真実。

The End.
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