NOVEL

中原龍也の一日

 ──AM 5:30、起床。
 目覚ましなんて必要ない。大抵そうだ。以前は眠るのにひどく苦労したものだが、最近は快眠安眠。その理由は、傍らでぐっすり眠っている、彼。
 思わず唇に笑みが浮かぶ。ビスクドールみたいに、愛らしい寝顔。つい、ちょっかい出したくなるような。……もっとも、ひどく低血圧で、起こしたりすると大抵不機嫌で、怒られるのだが。
 ……眠ったままでいた方が、良いかも知れない。時折、そう思う事もある。確かにこのままでいてくれたら、この人は永遠に俺のものだ。幸せで平穏かも知れない。だけど、この人の本当の魅力は、起きて目覚めている時。その瞳の強さが、まばゆさが、その生命力が、俺を魅了してやまないものだから。目覚めている時の彼は、俺のものではないけど。それでも彼が俺を必要としてくれている間は、俺を好きだと言ってくれる間は、幸せでいられるから。
 起き上がり、立ち上がる。……名残惜しみながら部屋を出て、隣室へ入る。先月からはここが俺の部屋だ。十年前も、ここに住んでいた。良い思い出より、厭な思い出の方が多いような気がする。でも、先月まで住んでいたあのマンションに比べれば、マシかも知れない。あのマンションは──俺が初めて一人で住んだ部屋で、初めて『家』と呼べるものだったと思うけど──苦い思い出や、思い出したくないものの幻影が、あそこにはあるから。……ここは、彼に近いだけ良い。俺の、存在意義。俺の望み。俺の欲望。本当は──この場所だって、楽園とは言い難いが。
 俺がこの世で唯一愛しているのは、久本郁也。……俺が、この世でもっとも関わりたくない男、久本貴明の一人息子。皮肉な事に、俺は愛する者のために、ぞっとする仕事を続けている。たぶん、あの男の言う通り、俺の天職なのだろう。俺は厭だと思いながら、たぶん誰よりもこの仕事を楽しんでる。俺の両手は血塗られている。俺の心は毒され、冒されている。……救いがたいくらいに。
 『久本貴明』のテリトリー内では、スーツ・ネクタイ着用が義務づけられている。邸内は勿論、HISAMOTOコーポレーション内では絶対。無論『社長』の趣味だ。最初、ジーンズとTシャツしか持ってなかった俺は、酷い目に遭わされたな。……今なら笑い話だ。
 シャワーを浴び、髪を乾かし、梳かして後ろ一つに束ねる。束ねるのも、「伸ばすのなら、せめて結んでくれ」という『社長』の意向だ。無視するとどういう目に遭わされるか、というのは良く学習してる。学習せざるを得なかった。……学習なんてしたくなかったが。
 支度を整え、階下へ降りる。
「おはようございます」
 久本家の執事米崎。『社長』の幼なじみで寡黙な男。俺の天敵。
「おはようございます」
 一礼して、立ち去ろうとする。
「……中原さん」
 ぎくり、とする。
「……何ですか?」
 無視してしまいたいところだが、それをやるとどういう目に遭わされるのか、は思い出したくない。『やり方』は幼なじみなだけあって、『社長』と良く似ている。陰険さにかけてはこちらが上だ。
「……昨日お渡し忘れましたが、あなた宛てに封書が届いておりました。お受け取り下さい」
 と、封筒を差し出される。
「……すみません」
 そう言って受け取った。が、封が既に開いている。
「!?」
「……その封は、仕分けを間違えて貴明様宛の郵便物の中に混じってしまったらしく、誤って開封してしまいました。申し訳ありません。こちらの手違いでございます」
 嘘だ。絶対嘘だ。……でも、文句を言うと、後が恐い。
「……判りました」
 引き下がる。引き下がるが……これはクレジットの請求書。思わず拳が震えそうになった。……が、我慢して呑み込む。こういう事は一度じゃない。この家に来てからは、当然あると覚悟していた筈だ。
 郁也様は以前『プライバシーは無いのか』と怒ったけれど、俺のされている事に比べたらずっとマシだ。これがこれから毎月だ、と思うと気が重くなる。やはりプライベートでカード支払いは出来ない。やらないが。今までだって、カードを使うのは郁也様に関してで、たぶんそれはこれからも変わらない。知りたいと言うなら教えてやる。俺が何処であの人に何を買い、何処へ連れて行き、何処で食事をするか。自分の私物なんかに関してはこれからもキャッシュで処理する。何も変わらない。自由にはならないが、光熱費・水道代・食費は、払わなくて良いから、貯金や送金に注ぎ込める。悪い方に考えるのはやめておこう。……プラス思考だ。
「……おはよう、中原」
 ……とか、思ってるのに。
「…………」
 声を掛けてきたのが誰か、振り向かなくても判ってる。笹原だ。
「おはよう、中原」
 背後からぴた、と頬にナイフを押し当てられた。
「……趣味悪いからやめて下さいよ、それ」
 言うと、鼻で笑って、折り畳みナイフをくるりと回転させ、刃を閉じ、ポケットにしまった。……この、ナイフオタク。
「……『先輩』に返事は?」
 先輩と言っても、半年も違わない。
「……おはようございます」
 笹原は唇だけで笑った。
「じゃあな」
 そう言って、背中向けて、テラスの方へと歩いて行く。この時間、『社長』はテラスで新聞に目を通しながら朝の珈琲、だ。……金魚の糞、が。毎日毎日、ろくな事しやしねぇ、ドグサレ野郎。爽やかな朝、なんてものは俺にはどうやら無縁らしい。
「あっ、中原さん!! おはようございます!!」
 玄関ホールで、野木に会った。俺の顔を見た途端、真っ赤な顔になった。
「おはよう、野木」
「さ、散歩ですか?」
「……まぁな。今日の野木の配置は本宅か?」
「い、一応今日の午前中まではそうです。そ、その後本社の方へ。田上と交代で。ゆ、夕方オフです」
 ……何を緊張したり、上擦ったりしてるんだろうな。こいつ。
「そう」
「……あ、あの、中原さん……」
「何?」
 妙にドギマギしながら、俺をおどおど見上げては目を逸らしながら。……挙動不審。こいつ。
「……そ……その後、あの、ど、どうですか?」
「……どうって?」
 何を言ってるんだ?こいつは。
「……そ、その……郁也様と……上手く行ってるか……なぁと……」
 俺は唇だけで、笑った。真顔のままで。
「……野木。俺はお前に、喋るな、忘れろと言ったよな?」
「……ひ……ぁああ……っ」
 ぺたん、と野木はその場に尻餅を付いた。
「……お前のために言ってるんだ。……忘れろ。それから二度と喋るな。……良いな?」
 顔を近付けて、至近距離でそう言ってやった。野木はこくこくと無言で機械仕掛けの人形のように頷いた。真っ青な顔で。
「……忘れるなよ」
「はっ……はい!!」
 ……ったく、学習能力の無い奴。……どうせ、社長にはバレてるだろうけど、あまり大勢にバレるのは面白くない。もし本人の耳に聞こえたとしたら、どうせ責められるのは俺だ。あの人に怒られさえしなければ、本当は自分から吹聴して自慢したいとこだが。
 玄関を出る。天気が良い。……深呼吸する。散歩、と称して実はセキュリティのチェック。モバイルを取り出し、システムにアクセスする。監視カメラの稼働状況をチェック。歩き始める。
 邸内の庭は、訓練されたシェパードが徘徊している。合計四十三頭。ひょっとすると、人間より役に立っているんじゃないかと思う。例外を除いて。
 リーダー犬が俺の方へ歩み寄ってくる。俺は笑った。
「おはよう、カエサル」
 命名は『社長』の趣味だ。歩く。犬は付いてくる。朝の日課。監視カメラの位置と動作状況をチェックしながら、時折センサーが働いているか確認をする。携帯が振動した。
「はい」
 電話を取る。
〔今、庭かい?〕
 雇用主の声。
「……その通りですが」
 ……厭な予感。
〔今、中庭で笹原君とお茶してるんだ。君もどうだい?〕
「……すみませんが、遠慮させて頂きます」
〔つれない事言うね〕
 くすくす、と笑い声。……そんな事、思ってもないくせに。良く言う。
〔僕との団欒より、カエサルとのデートが大事?〕
 ……溜息をついた。
「……後ほど、そちらへ参ります」
〔了解。……待っているよ〕
「では」
 通話を切る。……はっきり言ってだ。ろくな用件じゃない。それだけは間違いない。絶対だ。自信を持って言える。あの人は、俺と笹原が犬猿の仲だと知っていながら、わざと同席させて、互いの反応を楽しんでる節がある。あんな性格悪いのに、それでも良いだなんて、笹原は絶対マゾだ。奴がマゾな分には構いやしないが、それを人にも押し付けようとするところが、一番気に入らない。奴は俺が社長と縁を切りたいと思ってるのが、気に入らないらしい。知った事か、てのが本音だ。俺はあの人を尊敬する事など一生出来ない。それに俺は一番大切な人を見つけてしまったから。
「……じゃあな、カエサル」
 カエサルは真っ黒な瞳でじっと俺を見た。そっとその頭を撫でる。そうして手を振って中庭へと歩く。モバイルの接続を落とし、電源をオフしてポケットへ落とす。
「おはようございます」
 中庭のテラス。白い丸テーブルの奥に社長、左手に笹原が座っている。テーブルの上には湯気を立てている珈琲。
「待っていたよ、龍也君」
 にっこりと社長は笑った。笹原は無表情で俺を一瞥する。たぶん、こいつが面白くない理由の一つに、この人が俺を名前で呼ぶ事もあるのだろう。あと、すぐ呼び出したり、雑用を俺に押し付ける事とか。
「まぁ、そこにかけたまえ」
 言われるままに右隣の席に座る。
「取り敢えず、皆で朝食を取らないかい?」
 ……何故、俺がこのメンツと。こういう言い方をしながら、中身は命令だ。逆らう事を許さない。今更反抗したりしないが、だからと言って気持ち良いものでもない。
 朝食が運び込まれてくる。ウィンナーと野菜のスープ。ジャーマン・ポテトサラダ。ブレッチェン(ドイツの小型パン)。野菜フルーツジュース。スクランブルエッグ。
 それら全てが並べられるのを待って、社長が口を開いた。
「それじゃ、食事を始めようか」
 いただきます、と言って食べ始める。
「……ところで、龍也君。来月は君の誕生日だね。何か、予定はあるのかい?」
「あります」
 何か言われる前に即答。じゃないと何があるか判らない。
「そう。残念だね。久しぶりに君と外食でも、と思ったんだけど」
「お気持ちだけ有り難くお受けします」
 ……俺も良く言う。
「そうそう。笹原君の誕生日が来週あるんだけど、君もどうだい?」
 その瞬間、笹原の鋭い視線がこちらに向けられた。
「……いえ、結構です。色々する事がありますので」
「そうなのかい? ……皆でお祝いしたかったのに」
 三十にもなって、わざわざお誕生日パーティーなんかしない。お祝いもクソもあるか。普通は恋人とか特別な人と過ごすものだろう。この人の発想はどうかしている。それとも、この人には俺達がまだ子供にでも見えるというのだろうか? ……有り得る。
「どうする? 二人きりでも良いかい? 笹原君。それとも、もっと大勢を呼んでにぎやかにする?」
「……私は貴明様さえいらっしゃれば、それ以上は望みません」
「そう? 嬉しいこと言ってくれるね」
 にっこりと社長は笑った。
「笹原君はとても良くしてくれるから、何か喜ばせてあげたいと思っているんだが、君は何が嬉しいかな?」
 アンタと二人きりでいる方が良いんだよ、と突っ込んでやりたい。ついでにカマでも掘られてやれよ。そうしたら物凄く喜ぶから。なんて事を言ったら、笹原に殺されるな。殺される気は毛頭無いが。
「何か言いたいことがありそうだね? 龍也君」
「……別にありませんよ」
 スープを啜った。
「笹原君と一番付き合いが古いのは龍也君だよね? 君は彼が喜びそうなもの何か知ってる?」
「本人目の前に俺に聞かないで下さいよ。……笹原自身にお尋ねになれば良いでしょう?」
「だって、笹原君は君と違って奥ゆかしいから、言いたい事があっても僕には言ってくれないんだよ?」
 ……悪かったな。奥ゆかしくなくて。これでも昔に比べれば随分奥ゆかしくなったと思うけどな。畜生。
「私は、貴明様一人がこの世にいらっしゃればそれで良いです」
 ぽつり、と笹原が言った。
「それは有り難いね。僕も、君がいつまでも元気で傍にいてくれたら、それが何よりの幸福だよ」
 ……誰にでもそういう事、平気でさらっと言うクセに。判ってるか? この男は。そうやって誰にでも愛想振りまくから、ろくな事にはならないのに。誰にでも簡単に『愛してる』なんて言う。そのクセ、本当は誰の事もどうだって良い。皆に平等。代わりが幾らでもあるクセに、そういう事を言ったりするから、誤解を生む。しかも、本人に悪気がなく、本気で言ってるつもりだったりするから質が悪い。博愛主義なんて代物じゃない。この男にとって、本当にかけがえのない唯一のものは自分自身だけで、他は殆ど同列だ。この男にとって失いがたい大切なものがあるのだろうか?と以前は思っていたけど──。
「龍也君、郁也はどうだい? 最近、顔を見てないんだ。このところ朝起きてくるのが遅いらしくてね」
 ……厭味か? 彼の朝が遅くなった原因を知っていて、わざと言ってるような気がする。
「元気ですよ。それに、毎日幸せそうです。充実してるみたいで」
 本人が聞いたらきっと怒るな。
「郁也に言っておいてくれるかい? たまには僕と同じ時間に朝食を取ろうって。最近、会議が多くて夜も会えないからね。まったく、同じ家に住んでいながら顔も合わせられないなんて、どうかしてるよ」
 少しむくれたような顔して、社長は言った。……こういうところは変わらないな、この人。素直に見える表情。これがあるから、大抵の奴は騙される。
「判りました」
 言えと言われただけだ。そうさせろとは言われてない。どうせ彼の反応は判ってる。俺はそれ以上は何も言わない。少しはやきもきすれば良い。この父子の反応を見ていて楽しい、と思う俺は性格が悪い。だからといって改める気は更々無いが。
「僕の息子は本当に可愛いよね。あれ程可愛い子もなかなかいないね。実際そう思うだろう? 龍也君」
「そうですね」
「もっと僕はあの子を自慢して見せびらかしたいんだよ。社内なんか連れ回したりね。早く大人にならないかな。ああ、でも大人になったらあの可愛さはどうなるかな? ……いや、でも僕の息子だから間違い無いよね。あの子がもう少し人見知りしない性格だったら、僕が出席する全てのパーティーに連れ回したいのに」
 ……彼が聞いたら物凄く厭がりそうだ。
「絶対親バカじゃないよね。僕はいつも思うんだよ。この子は一体どうしてこんなに可愛いんだろう!って」
 ……誰がどう見ても親バカだよ。確かに彼ほど美しく可愛らしい人もなかなかいないが。
「笹原君はどう思う?」
 ……あ、そっちに振るか?
「……とても素敵で優秀なご子息だと思います。鼻や顎、眉毛の辺りがそっくりで。目元の雰囲気も、貴明様に似てらっしゃいます。聡明で落ち着いていて、年の割にはしっかりしてらっしゃる」
 ……知らないクセに良く言う。あの人の事なんてまるで興味無いだろう、笹原。あの人は色々な顔や表情を持っていて、突き抜けていて超然としているかと思えば、ひどく我儘で傲慢な子供だったり、時折予想もしない失敗をしでかしたりと目が離せないんだ。自分を制御しようとしている時のあの人も素敵だが、それ以上に素敵なのは自身の想いを語る時。その瞳が、ひどく力強く輝いて、生き生きとする。あの人ほど貪欲な人はいない。あの人を見ていると、生きることは悪くないと思える。俺はあの人のために生きたい。生きていたい。心底そう思う。
「郁也はね、本当可愛いんだよ。下手に撫でると、毛を逆立てて威嚇されるけど、そういうところも含めて可愛いんだ。いつまでも馴れてくれないけど、そこがまた愛おしい。こんなに可愛くてどうしようとかいつも思うよ」
「……ごちそうさまでした。それでは、俺はこれで」
 そう言って、立ち上がる。
「……もう? ゆっくりすれば良いじゃないか」
「食事は終わりましたから。それに、する事もありますし」
「……そうかい。では、またね」
「失礼します」
 一礼して、その場を後にする。
 自室へと向かう。
 今日は平日。金曜日。郁也様は学校。学園祭の準備で、帰りは五時半を回る。だから『待機』の間に、『作業』をする。部屋の前に行くと、郁也様が部屋から出てくるところへ鉢合わせた。
「おはようございます。これから朝食ですか?」
「おはよう。……お前は済んだ、よな」
「何ですか? 一緒に食べたかったとか?」
 そう言って笑うと、頬を染めて不機嫌そうに言う。
「んな訳ねぇだろ。用事あるんなら行けよ、さっさと」
 不意に、衝動的に口付ける。カッと耳まで赤く染まる。
「なっ……お前っ……何度言ったらこういう……!!」
 そう言う顔が可愛い。思わず抱きしめてしまう。
「こらっ!! 人の話ちゃんと聞け!! こういうところで、そんな事するなっ! 何度言ったら気が済む……!!」
 唇を押し付けて、間を割って、舌を滑り込ませて。言葉ではそういう風に言うけど、抗ったりしない。呻き、恍惚とした表情を浮かべて、俺を受け入れる。
「な……か……はら……っ」
 陶然とした表情で。綺麗だ。凄く、綺麗。濡れた瞳。紅い唇。長い睫毛。……この人が、好きだ。凄く、好きで。
「……本当……お前って奴は……」
 小さく、溜息をついて。
「俺は、もう行くから」
 そう言って、弱く、俺の胸を押し返して。熱い眼差しを俺の注ぎながら。掠れた声で。
「はい」
 俺は笑った。彼は何か言いたげな顔をした。でも、何も言わずに。
「じゃあな」
 そう言って、背を向けた。その背中を見送った。それから自室へ入って、ノートPC入りバッグと車の鍵を持つ。部屋を出て階下へ降り、車庫へ向かう。私有の車に乗り込んで、エンジンキーを回す。車を発進させ、車庫の外を出て、通用口から外へ出る。
「行ってらっしゃい」
「有り難う」
 車を表ゲートのある通りの少し手前に停め、エンジンを一度切る。モバイルを取り出して、電源を入れ、郁也様専用ガード・システムを立ち上げる。現在位置。邸内。食堂を出ようとしているところ。出た。廊下を歩いて真っ直ぐに玄関ホールへと向かってる。立ち止まって靴を履く。玄関を出た。庭を突っ切って、ゲートを出てくる。エンジンを始動させた。ゆっくりと、走り始める。左折をした時、彼の姿は200m先にあった。辺りに他に人影は無い。迷い無い足取りで、彼はバス通りへと歩く。距離を置きながら、ゆっくりとついていく。バス停に辿り着いた。バス時刻には間がある。車を路肩に停めて、携帯を懐から取り出し、電話する。
〔はい、広居です〕
「広居? バスの中の状況はどうだ?」
〔いつも通りです。現時点では不審者の姿は見受けられません。バスの運行もおおよそ通常通り。時刻表より二分の遅れが生じています。道が混んでいるため、更に一・二分遅れることと思われます〕
「了解」
 電話を切る。次。
〔はい、村下です〕
「様子は?」
〔異常ありません。郁也様は現在、電光板を見上げてらっしゃいます。バス停にいる人間も通常とほとんど変わりないようです」
「了解。何か変化があれば連絡してくれ」
〔判りました〕
 東町経由八剣浜駅行きバスが、明日名二丁目バス停到着予定は、時刻表通りだと七時十七分。実際は三〜四分遅れて到着するから、二十分か二十一分になる。実質時間でそれから十六〜七分掛かる。八剣浜高校の始業時間は八時。その十分前がショートホーム。彼が校内にいる間は、学校に出入りする業者を含む外部の人間の出入りをチェックする。それと平行して郁也様の着衣に付けられている発信器を監視する。本当は盗聴器も付けたいところなのだが、以前やったらめざとく見つけられて捨てられた。
 携帯が鳴った。
「はい、中原です」
〔広居です。バス停到着まであと200m地点通過〕
「了解」
 エンジンを始動させる。ゆっくりと発進する。また鳴る。
「はい、中原です」
〔村下です。バスが見えて来ました。信号待ち中です。郁也様は現在前から五人目に並んでらっしゃいます〕
「了解」
 バス通りへと出て、右車線に入る。バックミラーでバスを確認。左側の歩道に郁也様を視認。こちらには気付いていない。バスの方を見ている。
 信号が変わった。バスがバス停へと到着する。右車線は動きが鈍い。400m先に交差点がある。八剣浜へ行くには右折だ。そこを抜ければ道は空く。バスが発進する。バスが傍らを通過していく。俺は強引に左車線へと出た。誰かがクラクションを鳴らした。構わずに左へと車線移動して、バスのすぐ後ろに付く。
〔広居です。現在異常なしです〕
「了解」
〔村下です。只今より現場を放棄。目的地へ向かいます〕
「了解」
 そのまま三分直進。間にバス停一つ。停止時間は四十五秒。交差点に近付く。バスと共に二つ右へ車線移動。更にウィンカーを出しながら右折専用車線へと進入。葛名三丁目交差点を右。なのだが、両車線とも直進が多いから、右折信号が出るまでは大抵右折出来ない。ここで五十秒ほど待たされる。ようやく右折信号が表示され、車の波が途切れた。右折。
〔広居です。『彼』は前から八番目右側席横の吊革に掴まって立っています。異常ありません〕
「了解」
 ここから道は片側三車線から二車線になる。道幅も狭くなるが、交通量は少なくなるので、車の流れはスムースだ。暫くはまた直進。間に五つのバス停を挟み、ようやく八剣浜高校前だ。
〔村下です。八剣浜高校正門向かいです。現在異常ありません〕
「了解」
 左手に八剣浜高校の校門が見えてくる。バスは停止し、生徒達が大量に吐き出される。その中に、郁也様の姿も確認する。村下の車が反対車線に見える。ハザードランプを点灯させ、路肩に駐車している。郁也様が校門内へ入るのを確認した。バスと共に発進し、右側にある喫茶店の駐車場へと車を乗り入れる。店内へと入る。
 BGMは七十年代アメリカン・ロック。八剣浜の校門が見える定位置へと陣取る。
「いらっしゃい」
 店のマスターが珈琲カップを目の前に置いた。俺は黙って頷いた。カップの中身はブルーマウンテン。持ってきたPCをテーブルの上に置く。その隣にモバイルも置いた。点滅マーカーは八剣浜高校の校舎へと向かう郁也様の動きを教えている。それを眺めながら、ノートを開き、電源スイッチを入れた。カップを手に取り、口に含んだ。
 あの人はこういう事を知らない。きっと知ったら怒るだろうな。思いながら笑う。でも、俺の仕事はあなたの安全の確保、それから危険からのガード。俺がやらなくても、他の奴が同じ事をする。だったら、俺の方がずっと良いでしょう?
 あなたの着衣に付けられた発信器の動きを見つめながら、今、あなたが何をしているか夢想する。本当は二十四時間三百六十五日、あなたのすぐ傍らで、この目でこの腕で、あなたを護り続けたいけど、そんな事をしたらきっと嫌われる。だから想像の中であなたの事を抱きしめてみる。
 想像の中のあなたは、いつだって素直で従順だから。
「……本気で怒られるな」
 くすくすと笑う。
〔佐伯です。今、裏門に業者のトラックが入りました。ナンバープレート一致。……運転手の顔写真も一致しました〕
〔村上です。正門は現在、ゲートが一時閉められました。不審人物は見られませんでした〕
〔先の搬入業者が校舎から出て来ました。所要時間は四十二分強。標準時間内です〕
「了解。また報告よろしく」
 社長から依頼のプログラムを組みながら。新規設立の孫会社の業務プログラム、なのだが実は訂正・変更・削除分もバックアップで外部ディスクへ格納し、社長権限で全部覗けてしまうという極悪プログラムだ。しかも、キーワード・日付入力で検索・抽出・統計まで出来てしまう。勿論社員には知らされない。こんな社長のいる会社では、俺は絶対働きたくないとつくづく思う。全然社員を信用してない。知らない連中は幸せだ。
 別報酬が出るとは言え、どう考えたってこき使われてる。俺ほど働かされてる奴もあまりいないと思う。オフなんてあっても休めた試しなんか無い。出来る事なら、郁也様と二人きりで仕事抜きで旅行、なんてしたいけど──無理な気もする。
 ここのところ、やたらと仕事を押し付けられてる。
『君は仕事、好きだろう?』
 ……厭がらせなんじゃないかと、時折思う。取り敢えず、郁也様の笑顔だけが心の救い。心の支え。楽しみ。

「……何、お前待ち伏せなんかしてんだよ?」
 そう、言われたとしても。

The End.
Web拍手
[RETURN] [UP]