NOVEL

光の幻想

 初めて見た瞬間、目を奪われた。

 身を固くして、ぎらぎらとした『獣』の目で、警戒に身を包ませながら、荒い息遣いで俺を見上げる小柄で華奢な『生き物』。こんなに綺麗な『生き物』を、これまで見た事無いと思った。
 その美しい荒々しい瞳は、俺が『敵』だと言っていた。俺だけじゃない。『世界が敵』なのだと。カーテンを閉め切られた薄暗い部屋の中に浮かび上がる白い顔。大きな力強い瞳が、痩せこけた顔の中でひどく印象的だった。折れそうな細い手足。たぶん俺が力ずくで押さえ付けたら、あっけなく壊れてしまいそうな。儚げで華奢でひ弱なのに、ひどく強い目をしている。眼光だけで人を威圧するような。
 威圧はされなかった。ただ、美しいと思った。……成程、これでは使用人が逃げるのも仕方ない。他の誰も『彼』には近付けないだろう。びりびりとした緊張が、この部屋を支配してる。
「……俺が恐い?」
 俺は笑った。声を上げて笑った。『彼』はびくりと身を震わせた。またいっそうその瞳の色が濃くなった。眉間に皺が刻まれた。俺は笑った。
「……俺は『人殺し』で少年院帰りだ」
 くすくすと笑った。
「たぶんお前を殺したって、ちっとも可哀相とは思わない。お前が死んでも心痛めたりしない。……そんなに優しい質じゃない」
 『彼』は未だ臨戦態勢だ。緊張を緩めない。脅えすら感じ取れない。……いや、実際脅えてるのか? 細かに震えてる茶色の柔らかい髪。……違う。口元が笑ってる。笑ってると言える程も笑っていないけれど──ほんの少しだけ口角が上がっている。
「……降参するなら今のうちだが……どうする?」
 『彼』は答えない。……俺はほくそ笑んだ。
「警告はした」
 そう言い捨てて、俺は彼目掛けて拳を振るった。その瞬間に彼は後ろへ跳躍し、出窓を後ろ脚で蹴ったその反動で更に横へ飛んで、俺の視界から一瞬姿を消した。そちらを振り返ろうとした瞬間に左肘の少し上に、灼熱感が走った。
「!?」
 左肘を噛みちぎられる。血飛沫が床を、腕の上を、飛んだ。その光景に幻惑された。軽い陶酔と眩暈。鮮血に濡らした紅い唇。滴り落ちるそれを拭いもせずに、無感動な『獣』の目で見つめている。
 不意に訪れる既視感。いつかこんな風景を何処かで見たような気がした。幼児の姿をした天使の顔した少年が、無表情な『獣』の瞳で、なのに熱い意志に溢れた瞳で、俺を見ている。
 ぞくぞくする。全身の血が騒ぐ。誰にも負けない瞳、孤高の魂を持った、美しいけれど残虐な『獣』。近寄る者を全て排除しようとする。俺の中を熱い想いが駆け抜けた。渇ききり、何も望まなくなった俺が、何も欲しいとは思えなくなった俺の中に、湧き起こる熱い感情。それが俺を支配した。
 『欲しい』。
 強く思った。『彼』が『欲しい』。力ずくで押さえ付けて、滅茶苦茶に犯して傷付けて、全て『俺』で支配したい。誰にも折れない瞳を俺の手で無理矢理ねじ曲げて、汚れない孤高の魂を押さえ付けて支配して蹂躙したい。この魂が、この瞳が『欲しい』。他には何も要らない。この気高い獣を、俺のものにしたい。誰にも見られぬよう檻に閉じ込めて、屈辱に震える獣に手ずから餌を与えて、怒りと屈辱に震える姿を見つめたい。
 ……俺が、今更俺が、誰かを何かを欲しいと思うなんて。
 何も要らない、期待するのも、望むのも厭だと思った俺が、今更何かを望むなんて。『人間』である事をやめてしまった俺が、今更『人間』のように何かを欲しがったりするなんて。
 俺は笑った。──悔しいけど、あの男の言う通りだ。俺はあいつの支配から逃れたくて、あいつの手の内から逃れたくて、懸命に抗ったけれど逃れきれなくて、結局『人間』である事をやめた。『人間』をやめてしまえば、辛い事なんてなくなって俺は楽になれたけど、その代わり俺は何かを失った。失ってしまったのだと思っていた。
 あの男の思惑通り、ってのは面白くない。だが、俺は知ってしまった。厭なら、最初に断れば良かった話だ。俺はもう昔のようにあいつを憎んではいない。恨みもない。もう、そんな事には慣れてしまった。傷付けられても痛みを感じない。心を蹂躙されても何も感じない。俺は奪われて困るものも、大切なものも、何もかも失くした。そんなものが何も役に立たないこと、そんなものを持っているだけ損なことを思い知らされたからだ。──あの男、久本貴明に。
 笑いながら人を不幸にしていく男。穏やかで甘い微笑で、人の心に忍び寄って、相手の大事なものをバラバラに切り刻んで奪い尽くして崩壊させる。俺は見たくもないのに、あいつのやり口をいつも一番身近で見せ付けられた。『四条家崩壊』の一部始終も。
 いつだってあいつは自分で直接手を出さない。他人の手を使って、それがあいつの意志だと勘付かせないで、全ての事を思惑通り進ませる。まるでこの世の全てが、あいつの為にあるとでも言わんばかりに。『俺』もたぶんあいつの『駒』だ。たぶん、今この瞬間にも奴の思惑通り使われようとしてる。あいつと決別するなら、俺のやる事はただ一つだ。──何もしないでこの家を出ていく事。
 だが、たぶんもう遅い。……俺はこの、目の前の瞳に囚われた。美しい『獣』。──それすらも、あいつの思惑だったとしても。
 俺は跳躍しようとするその『獣』の足を右足で払った。バランスを崩しながらも背後に着地しようとするところを、腕を伸ばして襟首を掴んだ。
「っ!!」
 『彼』の目が俺を射抜いた。俺はそのまま床へ押し付け、自分の身体を重石にした。『彼』は必死で暴れ抗う。その顔を両手で押さえ付けて、唇を塞いだ。『彼』の身体は一瞬硬直し、動きは止まった。呆然とした目で俺を見つめているのを感じながら、俺は固く閉じられた唇を無理矢理割って舌で内部を蹂躙した。『彼』が自分の力で顎を閉じられないよう、両手でしっかり固定して、無理矢理開けさせた状態で、舌をからめ取って貪った。……キスだなんて言えない一方的なもの。無抵抗なままの舌を思い切り吸った。相手は顎を閉じようとした。俺は更に顎をこじ開けた。それから唇を離す。『彼』の口の端から、唾液が滴り落ちている。ほんの少し上気した頬と、うっすら涙の浮かんだ瞳が、ひどく愛らしかった。その瞳に浮かんでいるのは『怒り』ではなく『戸惑い』。
 俺は笑った。──この年齢じゃ、『意味』も判らないかも知れない。キスという名称すら。五歳の少年。『性欲』なんてものの『意味』を知っているかも怪しい──。
 脅えでも怒りでもなく敵対心でもなく、ただ呆然と判らないものを見つめる瞳で、『彼』は俺を見上げていた。『俺』が一体何者であるのか探るような瞳で。その姿は、先程の面影を残しながらも、何処か『普通の子供』の姿そっくりで、俺は次第に気持ちが冷めていくのを感じていた。
 先程テーブルの上に置いた料理のトレイを手に取った。それを床に置こうとした時、初めて『彼』は身じろぎした。慌てて抵抗しようとする彼を無理矢理押さえ付け、顎を掴んだ。スープの中に乱暴にスプーンを突っ込みすくい上げて、無理矢理顎をこじ開けてスプーンをねじ込む。抵抗しようとする『彼』をじっと見つめた。
「死にたいんなら勝手に死ねば良いさ」
 そう言って俺は笑った。
「お前みたいなガキ一人死んだって、誰も損しない。……誰かを喜ばすだけだろ?」
 『彼』は俺を『獣』の瞳で睨み上げた。俺の心臓がどくん、と跳ね上がった。何もかもを瞳だけで焼き尽くしそうに強い眼光。烈しく強い瞳の色。その瞳に心奪われる。軽い陶酔と眩暈が俺を襲う。
「死にたいなら死ねば良いさ。嗤ってやるから」
 『彼』を組み敷いて、俺は笑った。ひどく楽しい。ぞくぞくする。
「どうする?」
 俺は挑戦的ににやりと笑った。『彼』は『獣』の瞳で俺を睨め付けながら、口の中のものをごくりと嚥下した。俺はスプーンを引き抜いた。『彼』は睨みながら、初めて声を出した。
「俺は死なない」
 思ったより高い声だった。鈴の音のように部屋に響いた。
「俺は死んだりしない」
 高い声だが甘さは無かった。
「……死ぬために今生きてる訳じゃない」
 そう言って睨み付けた。俺は笑った。
「じゃあ、何のために?」
 彼は答えなかった。貝のように口を閉ざしたまま。俺は笑った。次のスープをすくって目の前に突き付けた。彼は俺を睨み付けたまま、自分で口を開く。そこへスープを流し込む。彼は無言で呑み込んだ。
「……どうして気が変わった? ……ハンガーストライキしていたんだろう?」
 俺は笑った。くすくすと笑った。彼はにこりともしない。口を開こうともしない。ただ無言で睨み付けるだけだ。俺は唇を押し付けようとした。
「やめろ!!」
 甲高く叫ぶ声。ひどく楽しい気分になって、無理矢理唇を押し付け、抗う顎を掴んで唇の間に舌を滑り込ませる。抵抗しようとする身体を押さえ付け、右手で顎を、左手で髪を掴んでこじ開けて、歯列の裏をなぞり、上顎を這い、舌を絡ませて吸い上げて、舌の裏を舌先で撫でた。彼の頬が薄いピンク色に染まった。眉が苦しそうに歪められ、瞳が潤んでいくのを見つめていた。
『何故こんな事をされるのか判らない』
 そういう顔。汚れを知らないその顔を、いつか欲望に歪ませてみたい。今は俺を汚らわしいものでも見るかのように見ている瞳を、哀願と懇願の色に満たたせ、足下にひざまずかせ服従させてみたい。
「……気分は?」
 彼は無言で睨み上げた。その瞳がひどくぞくぞくする。
「感想はどうかって聞いてるんだよ」
 言うと、彼は唾を吐き掛けた。俺はわざと避けなかった。頬に掛かった唾液はぽたりと彼の口元に落ちて滴り落ちた。俺は笑った。
「言わないともう一度するぞ?」
 そう言うと、彼は頬をカッと赤らめて、怒った顔で言った。
「……気持ち悪い。俺を舐めるな」
 失笑した。耐えきれなくて、爆発するように笑った。喉の奥が、腹が痛くなるくらい、涙が目尻に滲むくらい、盛大に笑った。大声で笑って、笑い転げた。
「……なっ……!?」
 彼は真っ赤になった。
「何笑ってるんだよ!!」
 ……そう叫んだ顔は、年相応のただの『子供』だった。普通の『人間』。俺は笑った。笑い続けた。

 ──俺はバカだ。

 誰に言われなくても判ってる。俺の見たものはただの『幻想』かも知れない。ただの思い込みで、現実には存在しないものかも知れない。……それでも、知らなかった頃には帰れない──。

 二月も終わりの晴れの日。空調の音を聞きながら。
「……俺は心を許した訳じゃない……」
 小さく彼は呟いた。俺は無言で笑った。彼──久本郁也は、小さな身体で俺を睨み上げた。
「お前らなんか絶対……!!」
 『全てが敵』だという瞳で。全てを睨め付けて許さない瞳で。冥い光を湛えて、烈しい瞳で睨み付ける。

 許さなくていい。
 認めなくてもいい。

 彼が全てを憎むというならそれで良い。彼が誰も愛さないなら。彼が何も許さないなら。拒絶されたままで構わない。
 ようやく呼吸始めた俺の『心臓』。『幻想』を抱えて漂い始める。俺は何も誰も欲しくない。得たものがいつか失われるなら。いつか失うために得るのはただの無駄だ。最初から何もなければ、期待もしない。失望もしない。絶望もない。
 最初から『望み』なんかない方が、ずっと気が楽。最初から『絶望的』な方がずっと楽だ。
 今更大切なものなんて欲しくない。今更『人間』になんてなれそうにない。そんな事をしたら──今度こそ俺の息の根は止まってしまう。死ぬことを許されないのなら、死にたくても生かされ続けるなら、最初から『人間』じゃない方が良い。
 それでも、波紋のように広がっていくもの。存在を忘れようとしても忘れられないもの。なかった事には出来ないもの。

 俺を一生許さないでいい。

 俺の心のたがが外れないように。俺の心が二度と震えないように。『人間』でなくなった俺に、ようやくその『感覚』を忘れた俺に、リアルな『感覚』を思い出させないように。
 痛みを感じないまま、生きているのが──。

 それでも、鼓動始めた『心臓』は、容易には止まらない。
 見えないフリをしても。聞こえないフリをしても。

 それでも──。

The End.
Web拍手
[RETURN] [UP]