NOVEL

親友も命懸け

 郁也[いくや]がさらわれたのは、俺のせい。

 そう言った途端、殴られた。ガツンと痺れるような衝撃が左の頬に走って、そのまま後ろへ吹っ飛んだ。体育用具室の床にしたたかに腰を打ち付けて、後頭部がつんとぶつけて、痛みに涙がにじんだ。口の中、切った。血がじわりと滲む。ジン、と全身に痺れがくるような強烈なパンチ。目の前がくらくらする。手加減なんてなくて。
「何様のつもりだ!?」
 彼──中原龍也[なかはらたつや]さんは、ぎらぎらとした、動物のような瞳で、俺を睨んだ。物凄い形相。ピリピリとした空気。触れてはいけないものに触れてしまったかのような。恐い、と思った。ぞくりとした。全身に震えが走った。
 このひとは、誰だろう?
「お前ごときにあの人が守れるとでも思ってるのか!? お前なんかに取って代わられるくらい軽いものだと思ってるのか!? 何様のつもりだ!! 俺がっ……どういう気持ちで……っ!!」
 襟首を引き掴まれ、拳を振り上げられる。殴られる! そう思って、ぎゅっと目を閉じた。
 ……けど。
「…………」
 次が、来ない。おそるおそる、目を開けると、眉間に皺を寄せて、苦虫でも噛み潰したような顔で、彼が俺を見ていた。
「え……あの……?」
 彼は舌打ちし、溜息をついた。
「今回の拉致はこちらの不手際だ。……君には関係ない。気にするな」
 ……ひょっとして。
「もしかして、中原さん。あなたの方こそ気にして……」
 ぎょっとするほど、恐い顔で睨まれる。全身の毛が逆立ちそうな。けど、すぐに平然とした顔になる。見た目、だけは。
「それはともかく、彼が連れ去られた時の状況で、何か思い出せる事はありませんか? 何でも結構です」
 口調まで別人みたいに。……まるで二重人格だ。さっき殴られたあの一件がなかったら、たぶん気付かない。
 穏やかそうな表情の下に、激しい怒りと苦悩と後悔がうずまいていること。理性で懸命に押さえ付けて。
 苦しそう。……だけど、きっと。彼は気にしてる。俺の目を、ひどく気にしてる。だから。何も言わない。きっと。だから。
「郁也を連れ去ったのは赤いロードスターに乗った、ベリーショートに近いくらいの長さの金髪の人でした。耳に、三連ピアス付けた。郁也、そのひとのこと、『クスノキ』って呼んで……」
 だから、俺は彼に触れない。
 思い出す。あの時のこと。郁也は、俺を、下中を庇って、自ら近付いて行った。そして、崩折れる郁也を、俺は間近で見た……。
 ずきん、と胸が痛む。……郁也が。思い出すと、涙が溢れそうになる。悔しくて。歯がゆくて。
「楠木!?」
 その途端、彼の顔色が悪くなった。不意に、俺の姿なんか見えなくなったみたいに、視線が遠くなって。
「……だとしたら、……が、言っていた……は……で……そうならたぶん……が……して……てるとか……じゃなかったら、……」
 意味不明な言葉の破片。虚ろな視線。
「……中原さん?」
 彼ははっとした顔になる。
「いえ、何でもありません。それから?」
「『お友達を、傷付けたくはないでしょう?』ってそのひとが言って。郁也はそれで、彼に自分から近付いたんです。そしたら、スプレーで何か噴霧されて。それで、俺も郁也も、身体の力が抜けて……気絶して、気付いたら……」
「体育用具室にいて、郁也様はいなかった、と」
「そうです」
「失礼」
 そう言って、彼はすっかり普通の顔で俺のシャツの襟裏を撫でた。
「えっ!?」
 すうっとそのまま指を走らせる。どきん、とした。
「……やっぱりな」
 溜息ついて。襟裏から何か外す。
「えっ……ええっ!?」
 身に覚えのない代物。何だ? 一体!!
「……発信器」
 それってもしや。テレビとか映画とかに出てくる、あれ? と言うか。現実に、そんなものあるんだ? 初めて見た。
 中原さんは胸元のポケットから携帯を取り出した。
「……こちら中原。郁也様がさらわれた。赤いロードスターを洗ってくれ。ベリーショートの金髪、三連ピアスの男を緊急手配。……正体は楠木成明。ロストタイムは2040から2100の間。ロストポイントは校門前の通りから自宅方向200m地点。負傷者は計三名。いずれも軽傷。増援乞う。現在発信器は同行者の学生の着衣より発見。郁也様の現在地特定及び楠木成明の居場所特定を最優先で」
 そこへ誰かやって来る。
「中原さん」
 通話を切って、中原さんが新たに来た男性の方を振り向く。
「なんだ? 杉野」
「郁也様の上着と荷物が見つかりました」
「何処で?」
「八剣浜海浜公園駐車場です」
 中原さんは顔をしかめた。
「現在周辺を探索していますが……」
「たぶん、無駄だ」
「え?」
「そちらは増援に任せていい。……心当たりがある」
「何処ですか?」
「……まだ、確実じゃない。判ったら連絡する」
「中原さん!!」
「……悪いが、彼の傍にいてくれないか?」
 と俺の方を見て言う。
「しかし……一人で行く気ですか?」
 中原さんは笑った。
「後を頼む」
 中原さんは穏やかに、魅力的に笑って。殺し文句だ。って言うか、これは……郁也の常套手段だ。身に覚えのあるやり方。にっこり笑ってはぐらかし。……このひと、郁也に似てる? 顔とかじゃなくて。中身が。……だとしたら。
 杉野さんてひとは、困ったような顔で溜息つき、それでも言った。
「連絡お待ちしてます」
「ありがとう」
「あの! 中原さん!!」
 立ち去ろうとする背中に、思わず声を掛けた。不思議そうに、彼が振り向いた。
「あの、時には、人を頼るのもいいと思います。一人でしたりしないで。一人より二人、二人より三人の方が良い結果出る事あるから」
 一人だと出来ないことでも。
「差し出がましいね」
 どきん、とした。怒っても笑ってもない顔で、彼は俺を見下ろしていた。何の表情もない顔。……恐い。怒られるより、睨まれるより、断然恐い。殴られるより。背中の空気が、ひどく冷たくて。
 ぞわりとした。
「でも、これは仕事だから」
 大人が子供に言い聞かせる顔で、唇だけで、笑って。目が笑ってなくて。何の表情もない瞳なのに、それがかえって恐かった。
「差し出がましいのは……判ってます。あの、でも、仕事だからこそ、余計に、一人はまずいんじゃないですか?」
 びくびくしながら、俺は言った。……空気が恐い。噛み付かれそう。噛み付かれた方がましかも。
「……成程ね」
 目線は真顔で、唇だけ笑って。背中に寒気が走った。
「ご忠告有り難う」
 そう言って、彼は用具室を出て行った。俺はその背中を見送った。思わず床にへたり込んだ。
「藤岡昭彦君、だったよね?」
 杉野さんは聞いた。
「犯人の詳しい特徴とか、服装、覚えてる? ナンバーとか」
「……ごめんなさい。ナンバーは……ちょっと。そこまで確認とかしてなくて」
 本当だ。ナンバー判らなかったら車の特定なんか出来ない。なんで俺、見なかったんだろう。
「じゃあ、服装は? 覚えてるかい?」
「服は……白いジャケットに、黒いシャツを着ていました。下は何をはいてたのか、車から降りて来なかったから判らなかったんですけど。店を出る前から車見てたから、おかしいなとか思ったんです。ナンバーは確認してないから判りませんけど、車種は同じでした。ずっと同じところに路駐していて。それで変だなって思ったんですが……」
 だけど、確証はなかったから。路駐してずっと車内にいるのは少し変かなとか思うけど。だからってそれだけで人は疑えないから。
「……あの、郁也は」
 どきん、とする。
「郁也、大丈夫ですよね?」
 何言ってんだろ、俺。
 杉野さんは笑った。
「大丈夫ですよ」
 ほっとするような、笑みで。
「我々が必ず救出しますから」
 少しだけ、胸が軽くなった。
「大丈夫です」

 郁也と初めて会ったのは、小学四年の時。俺は転校生で、郁也は当時恐がられ、距離を置かれていた。俺は郁也と同じクラスじゃなかったから、先に噂だけは聞いていた。大金持ちの社長の息子で、頭が良くて、学年トップの成績で、顔が良くて運動神経も良いけど、性格が悪くて、愛想が悪くて、態度も悪くて、乱暴者で協調性がなくて、友達が一人もいないらしいとか。あと愛人の息子で、ろくな暮らしをしてなかったとか、母親が口で言えないようなひどい仕事をしていたとか、強盗殺人で家中荒し回された上に、母子共に暴行を受け、飢餓状態で放置されて、彼だけが瀕死の重体で発見されたけど、そのせいで彼が錯乱状態に陥り、獣じみた異常な行動をしたり、ハンガーストライキをして死にかけたとか。
「あいつまともじゃないんだ」
 と、当時のクラスメイトが言った。
「だから、見掛けたら絶対逃げた方がいいよ」
 俺はよく判らなかった。そんな風に言われるのが、どういう人間なのか。ちっとも判らなかった。
 初めて会ったのは、下校途中。一人で歩いていると、公園の入り口近くで、しゃがみこんでいる子がいた。かわいい女の子だった。俺がそれまで見たことない美少女で。思わず、見入ってしまった。
「何見てんだよ?」
 凛とした高い声で。
「何じろじろと俺を見てんだよ? お前、何考えてるんだ?」
 俺は一瞬、その声の持ち主が誰なのか判らなかった。
「……え?」
 剣呑な目つきで俺を睨み付けている、当の『美少女』がその声の主だという事に気付いて、愕然とした。
 ……まさか。
「俺に喧嘩売ってんのか? それとも俺と遊んで欲しいワケ?」
 挑戦的な、トゲを含んだ口調で。胸の前でぱしん、と右拳で左手の平を打って。
「うん」
 思わず、答えていた。
「一緒に遊ぼうか?」
 虚を突かれたような顔された。戸惑うような、おかしなこと聞いたっていうような。
「言われた意味、判って言ってるか?」
 顔をしかめて、いらいらとした口調で。
「だから、遊びたいんだろう? 違うの?」
 目が丸く見開かれた。
「え? 俺……変なこと言った!?」
「な……っ」
 途端、ぱああぁぁっと、真っ赤に染まった。かわいい、と思った。……でも、ここで一つ、引っ掛かってることが。
「俺、四年二組に転校してきた藤岡昭彦[ふじおかあきひこ]って言うんだけど」
 真っ赤な顔で、俺を見つめて。……なんか、すごくかわいいんだけど。めちゃくちゃかわいいんだけど。
「お前、変なヤツだな」
 言って、前髪を掻き上げて。
「……久本郁也」
 ヒサモト・イクヤ。たぶん、どう考えたって、もしかしなくても。男で。って言うよりか、噂の危険人物。
 でも。
「久本郁也だよ。……でも、俺と本気で遊びたいの?」
 なんでこんなにかわいいのに男なんだ、とか思ったりしたけど。それ以上に、何処が危険人物なんだよ!って思って。
 だって目の前の『彼』は、ものすごく真っ赤な顔で、少し怒ってるみたいな顔で、だけどたぶん照れてる。ものすごく照れてる。
「遊んでよ? 俺、この辺りのこと、知らないから」
 逃げろとか言われたけど。そんなの全然当てにならない。一目見た瞬間から。俺は。
「これから、よろしく」
 差し出された手は振り払われたけど。
「教えて欲しけりゃ、俺の言うこと聞けよ?」
 ひどく不器用で。差し出された腕を取ることもできない。真っ赤な顔で。どうしてこれが危険人物なんだよって。
 一目見た瞬間から、好きになったんだ。

 何かあっても、絶対人に『助けて』とか言ったりしないから。だから俺は恐いんだよ、郁也。いつも俺は恐いんだ。いつの間にか、目の前にいてでさえ、失ってしまいそうで。触れられる距離にいても、お前を失くしてしまいそうで。すごく恐いんだ。『傍にいてくれ』だなんてお前は絶対に言ったりしないから。淋しいとも、恐いとも、哀しいとも、辛いとも。
 お前は無理ばかりするから。嘘ばかりつくから。だから、お前といると時折苦しくなるんだ。それでも傍にいるのをやめられなくて。お前が俺を必要としてなくても、俺がお前を必要なんだよ、郁也。
 笑っていても、全然心の中で笑ってなかったりするから。一緒にいて何が辛いって、お前が隣りにいても、何処か遠い場所にいるみたいで、全然近くに感じられない時なんだよ。
 俺は、お前に幸せになって欲しいのに。俺はお前に心の底から笑って欲しいのに。お前はいつも、俺と距離を置いて。俺を置き去りにしたまま、遠くに羽ばたいて行ってしまうんだ。それがすごく淋しい。
 何もいらない。何もいらないんだ、郁也。お前が嬉しそうだと、それだけで俺は嬉しいから。お前が幸せそうだと、それだけで俺も幸せになれるから。
 お前の親友になれて、本当良かったと思ってる。お前の傍にいることができて、本当良かったと思うんだ。なのに、俺はお前を救えない。お前の心を救えていない。救いたいのに。助けたいのに。お前の心の闇は、心の傷は深すぎるから。助けようと踏み込んだ俺まで、その深淵に引きずり込まれそうになる。お前を救えない俺の不甲斐なさが、いつも辛いんだ。お前は笑うけど。俺の隣でお前は笑ってくれるけど。俺はいつも自分の無力さを思い知らされて。
 郁也を救いたいんだ。それが俺には無理なことだとしても。俺は誰の何の役にも立たない。郁也は俺を救いがたいお人好しだなんて言うけど、俺はそんなんじゃない。郁也は少し、俺を美化しすぎてる。俺は、目の前にいるひとの幸せしか願えない、狭量な人間なのに。俺は目の前にあるものしか見ることはできないから。目の前にないことまでは気付けないから。だから、俺は、お前を救えない。諦めたら最後だから、諦めないけど。
 たぶん、しぶとく打たれ強いのだけが、俺の取り柄だと思うし。
「俺に、何かできませんか?」
「もうすぐ、警察が来るから」
 杉野さんはにっこり笑った。
「事情聴取に協力してくれればいいよ」
「……俺、役に立ちませんか?」
 杉野さんは目をぱちくりした。
「役に立ってるよ。君がいなかったら、何の手掛かりも見つからなかったかも知れないんだよ?」
 ぐちぐち一人で悩んでたって仕方ないし。済んでしまった事を思い悩んでも、取り返しは付かないし。
「下中は見つかってます?」
「現在捜索中。でも、たぶん、そんなに遠くには行けない筈だし」
「さっき、八剣浜海浜公園駐車場で郁也の所持品が見つかったって言ってましたよね?」
「ああ、そうだね」
「ここにいないなら、そこに下中がいるって可能性はないですか?」
「十分あるだろう。どちらにせよ、捜索しているから。見つかるよ」
「下中が無事だと、郁也もきっと喜ぶと思うんです」
 たぶん、面と向かって言うと、恥ずかしがるけど。
 杉野さんは目を丸くした。
「だから、下中を無事に見つけて下さい」
 じゃないと、きっと泣くから。たぶん傷付くから。そういう奴だから。
「お願いします」
 郁也のために。下中のために。俺のためにも。
「勿論です」
 杉野さんは微笑んだ。パトカーのサイレンが、聞こえてきた。

The End.
Web拍手
[RETURN] [UP]