NOVEL

水の香り

 野間崎和郷。その名を知ったのはある夏だった。初めて出場した全国で、隣で泳いだそいつは、いとも簡単に俺を抜き去り、あっさりした顔で表彰台に立った。こんな事はごく当たり前で当然だ、という顔をして。
  俺はひどくショックを受けた。……俺は全国に出場出来たってそれだけでもう有頂天になっていたけど、野間崎にはそれが無かった。淡々として、冷静で、しかも格好良くてクールだった。野間崎がスカウトされて大学決まったと聞いて、俺は必死で勉強して同じ大学に入った。
  野間崎は、たった一度、隣のコースを泳いだ奴の事なんて、覚えてなかった。それは仕方ないけど。悔しかった。ひどく悔しかった。なんで野間崎は俺を覚えてないんだろう?俺は、俺にはひどく印象的だったのに。
  鮮やかに、目の醒めるようなスピードで、最初から俺なんか目もくれないスピードでぐいぐいと魚のように泳いでいった野間崎。俺とはまるで最初から作りが違ってるみたいに、それが当たり前のような顔して何の感慨も無いクールな顔して抜き去った。大会新記録、なんてマークして自己新まで出したのに、にこりともしなかった。
  大学で、同じサークル入って、幾度も話し掛けて、ようやく顔覚えられて、親しく口を利けるようになった時の喜び。……きっと、野間崎はそんなの知らない。恋に似た情熱にも似たこの憧れを、野間崎は知らない。
「……俺、駄目かも知れない」
  自己記録が全く伸びなかった。このままだったら、折角頑張って選手に選ばれたのに、下ろされてしまう。……弱気になっていた。ただの愚痴だった。
  野間崎は笑って言った。
「不戦敗は自分への言い訳だろ?」
  ぐさり、ときた。
「負けるのが厭で、勝負から逃げようとしてるだけだ。ただの弱音で言い訳だ。負けることを怖がってたら話にならない。……負けてからが勝負だろ?」
  思わず、野間崎の顔を見た。
「……お前でも……負ける、なんて考える事あるのか?」
  呆然と、言った。
「……しょっちゅう考えるよ。……いつも考えてる」
  穏やかに笑って。でも、眼差しは真剣で。
「……皆が俺の背中を狙ってる。……いつ追い越されるか判らない。周りの期待は俺が負ける事を許さない。物凄いプレッシャーだ。……だから勝っても嬉しくない。勝つ事が当然と思われてる。……負けたらきっと、見捨てられるよ」
  野間崎は静かに、笑みを浮かべて。
「……野間崎……」
「だから、俺は負けない。負けないように努力する。……知ってるか?俺達は、自分以外の誰かと闘うんじゃない。自分自身と勝負するんだ。自分との闘いに負けたら、その時点で勝機は無い。俺達は孤独な生き物なんだよ。……本当は、誰の事も必要としてない」
「……野間崎……お前……っ!!」
  絶句した。野間崎は地面をじっと見つめた。
「……それでも、分かち合える友人がいるという事はたぶん、幸せな事なんだろう」
「……野間崎……」
「……俺という人間を判っていて、友達でいてくれる人間は、そうはいないよ。感謝してる、瀬川」
  その瞬間、野間崎が好きだと思った。何かが身体の奥から迸るように、野間崎を好きだと思った。思わず、手を伸ばして、しがみつくように腕を回して抱きしめた。
「……瀬川」
  困ったように笑う、野間崎はきっと、こんな感情には気付かない。気付いてない。俺は野間崎が好きだ。すごく、好きだ。……ずっと、不思議だった。野間崎はあまり自分を語らない。自分の気持ちを語ろうとしない。野間崎が何を考えているのか、ひどく不思議だった。……今、凄く気持ちが熱くて。熱い『水』が俺を満たしている。俺の全身を満たして、埋め尽くして、支配してる。
「野間崎、野間崎……のま……」
  野間崎の手が、俺の頭の上に乗った。
「何、泣いてるんだ、瀬川」
  ……え?
  呆然としながら、顔を上げた。野間崎が穏やかに笑っている。
「泣く程の事じゃないだろう?」
  あ……俺……泣いて、るんだ?
  頬に手を触れると、熱い雫で濡れた。ぐいぐい拭うけど、止まらない。苦笑して野間崎が、タオルを貸してくれた。有り難く借りて、頬に押し当てた。
「……あまり自分を追い詰めるな、瀬川」
  そう言って、野間崎が俺の後頭部をそっと撫でた。……水の香り。水と、消毒液と、汗と、体臭。シャツ越しに、漂ってくる、野間崎の香り。……身体の奥が、ずくん、と疼いた。
「……もっと広い視野で見てみろ。今が調子良くないとしても、お前は今で終わる奴じゃないだろ?」
「……野間崎……」
「諦めたら、その時が終わりだ。諦めない限り、勝っても負けても先がある。生きている限りは、続きがあるんだ」
  野間崎が、好きだ。はっきりと自覚した。
  これは、友情なんかじゃない。
「……頑張ろう、瀬川。明日の為に」
  野間崎は笑った。その笑顔に思わず口元が緩んで。
「……好きだ、野間崎」
  野間崎は一瞬、目を丸くして、それから穏やかに笑った。
「ああ、俺もお前の事、好きだよ、瀬川」
  ……たぶん、意味は判ってないけど。俺は笑った。
「……悪かった、愚痴」
  野間崎は笑った。
「……俺は瀬川のフォーム、結構好きだよ。でも、少し背中が曲がってる。フォーム改良したら……少しはタイム、伸びるかも知れない」
「本当に?」
「……やるんだったら、付き合って見てやるよ」
「頼んで良いかな?」
「良いよ。……親友だろ?」
  ……今は、まだ。
「うん」
  まだ、本気で好きだって、声を大にして言えやしないけど。俺、野間崎が好きだ。友情なんかじゃない。本気で好きだ。すごく好きだ。メチャクチャ好きで。
  まだ、言えないけど。
  ……誰にも、譲りたくない。

The End.
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