NOVEL

プールサイドのサカナ

「野間崎」
 野間崎和郷[のまざきかずさと]は振り返った。
「……瀬川」
 そこに立っていたのは、瀬川憲行[せがわのりゆき]だった。
「お前、バイトクビになったって?」
「……ああ」
 野間崎は頷いた。
「……だから、客商売は向いてないって言ったろう」
 瀬川の言葉に、野間崎は曖昧な笑みを浮かべた。
「……最近調子はどう?」
 野間崎の言葉に、瀬川は眉を顰めた。
「……それを俺に聞くのか?」
 何か言いたげな顔で。野間崎は苦笑した。
「……俺の事はもう気にしなくて良い」
「お前な!」
 ムッとしたように瀬川は声を荒げた。
「……気にし過ぎなんだよ、瀬川」
 穏やかな口調で野間崎は言った。
「……俺はもう、気にしてない。確かに選手としてはもう役に立たないけど、俺はそんな事で嘆いたりしないから」
「……野間崎……」
「……純粋に友人の近況が知りたくて、聞いたのであって他意は無い」
「……大丈夫なのか?」
 野間崎は笑った。
「『水泳』だけが人生じゃないよ。スポーツ選手としての人生は閉ざされたけど、俺にはまだ時間も余裕もある。……やれる事は幾らでもある。俺は今、自分に何が出来るのか色々模索してるところだ。本当に専門バカだったって今更ながら知った。……楽しんでる。良い機会だったかも知れない」
「……だけどお前は……っ!!」
 野間崎は苦笑した。
「……確かに泳ぐのは好きだ。たぶん、今でも。全く泳げない訳じゃない。以前のように泳げないだけだ。お遊び程度なら出来る」
「そんなんで満足できるのか!?」
 激昂する瀬川に、野間崎は笑った。
「……瀬川。俺はどれだけ泳いでも、もうベストタイムは出せないんだ」
 瀬川は絶句した。野間崎は困ったように笑う。
「……でも、ベストじゃなくて良い。タイムの為に泳がなくなってから、ようやく俺は『泳ぐこと』そのものが好きだったって知ったんだ。それは貴重な事だよ?……だから後悔とかは無い。俺は取り憑かれたように『速く泳がなくちゃいけない』ってそればかりで。周りや自分自身を振り返る余裕すらなかった。……お前にも、辛く当たったかも知れない。すまなかった」
「……野間崎……」
「……お前のベストを尽くせ。誰のタイムがどうとか、そんなのはどうでも良い。お前自身の為に、泳げ。……好きだから泳ぐんだろう?そんな事すら忘れたらお終いだ。俺はもう応援するくらいしか出来ないけど」
「……野間崎……」
「世界に出られるかも知れないって、俺は焦り過ぎてたんだな。もう少し自分のペースでじっくりやれば良かった。チャンスは一度きりじゃないんだから。……事故は恐いぞ、瀬川」
「……もう一度……やらないのか?」
 瀬川の言葉に、野間崎はくすりと笑った。
「……駄目だよ。俺は負けず嫌いなんだ」
「……野間崎……」
「……遊びならともかく、本気で泳いで誰かの後ろは泳げない。バカなプライドだ。……笑って良い」
「笑えるかよ!!」
 瀬川はそう叫んで、野間崎の肩に飛びついた。野間崎の両目が軽く見開かれた。
「……瀬川……?」
「お前の泳ぎ、俺は凄く好きだったんだぞ!?俺は……っ!!俺は絶対あのフォーム忘れられない!!忘れられる訳が無いんだ!!」
 瀬川は強く、野間崎の身体に両腕を絡ませ、その肩先に顔を埋めた。瀬川の肩が細かに震えている。
「……瀬川……」
「……初めて見た時から、心奪われた……。今更無かった事には出来ない。あの泳ぎは、お前にしか……野間崎にしか出来ないんだ。『終わった』事として語るなよ!!お前はここに、生きて存在してるんだから!!『過去』みたいに言うなよ!!そんなお前は、俺の知ってる野間崎なんかじゃない!!お前は……っ……!!」
 掠れて揺れる声。耳元で。
「……瀬川……」
「……前みたいに泳げなくたって、誰かの後ろを泳いだって良い。お前こそ、泳がないのか?もう二度と本気で泳いだりしないのか?それで平気なのか?あの、プライド高かったお前が!!何もせずに負けるのか!?『不戦敗は自分への言い訳』って言ったのはお前だろう!?俺にそう言って説教した男が、何もせずに諦めるのか!?そりゃ無いだろう!!そんなのは卑怯以外の何物でも無いだろう!!俺はそんな男は知らない!!俺の知ってる野間崎和郷はもっと潔くて強くて格好良い男だ!!逃げてるだけだろ!?負けるのが厭で、勝負から逃げようとしてるだけだ!!以前のお前はそんなんじゃなかった!!『負けてからが勝負だろ?』って言ったの、何処のどいつだ!?俺は野間崎がそんな卑怯な男だなんて知らなかったぞ!!」
「……瀬川……」
 野間崎は顔を歪めた。瀬川は顔を上げて、真っ直ぐに野間崎を見た。野間崎の瞳が揺れていた。
「……やらないか?もう一度。泳ぐの好きなんだろう?だったらもう一度やり直さないか?……故障したって、復帰した選手は大勢いるんだ。自己ベストにお前は拘ってるんだろうけど、そんな物は後から出来るものだ。泳ぎたいと思わないか?泳ぎたいんじゃないのか?泳いで、自分の中のベストを尽くして、それから言え。今のままじゃ俺には『言い訳』にしか聞こえないぞ?」
「…………」
 野間崎はそっと瞳を伏せた。唇を引き結んで、地面を見つめた。
「……野間崎……?」
 野間崎は、微かに笑った。不安げな表情になった瀬川を、正面から見据える。
「……そうだな。『言い訳』だ」
「……野間崎……」
 野間崎は瀬川を正面から見ながら、子供のような人好きのする笑顔でにっこり笑った。
「……足手まといになるだろうけど、もう一度トライする」
「野間崎!!」
 瀬川は嬉しさで、野間崎に飛びついた。野間崎は苦笑する。
「……そうだよな。何もせずに諦めるのは、俺の性分じゃない」
「そうだ!!野間崎!!それでこそお前だよ!!」
 勝負もせずに逃げるのは、俺の性分じゃない。……口の中で、野間崎はそう一人呟いた。

The End.
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