NOVEL

グラスの中の氷

 からん、とグラスの中の氷が音を立てた。
「……もう、これきりにしよう」
 ──そんな予感はしていた。たぶん、そんな事だろうと思った。彼からの電話がめっきり減った。掛けても通じない事が多くなった。それが不意に向こうから『会おう』と言われた。期待しなかったと言えば、嘘になる。しかし、彼が待ち合わせのバーに現れた時、先の展開が見えてしまった。俺は今日、振られると。
 嘘のつけない男。……俺は知っていた。今日で一年十ヶ月半。単刀直入でストレートなところが好きだった。けど、今日はそれが痛かった。目を見た瞬間、判ってしまった。何を言ってもたぶん無駄だと。俺は水割りのグラスの中の氷を、見るとも無しに見つめた。つい数週間前までは確かに恋人だった男、木暮圭吾[こぐれけいご]は右手で吸いかけの煙草を弄んでいた。
 俺はキーホルダーを取り出し、マンションの合い鍵を外すとテーブルの上にそっと置いた。木暮はそれを無言で拾い上げ、胸ポケットに仕舞った。
(……今度、俺の代わりにそのキーを持つのってどんな奴?)
 自虐的な質問。聞いたら俺が惨めになるだけ。自嘲の笑みを浮かべる。これ以上自らの傷を広げる必要はない。もう十分だ。目の前の男は俺を見ていない。俺の目の前にいながら、俺を全く見ていない。胸を刺す痛み。ぽっかり開く空虚。
「……お前との一年十ヶ月、楽しかったよ」
  『それはもう想い出』という顔で言う。……残酷な男。無神経。俺は何も見たくなくて、瞼を伏せた。
「……そう」
 唇だけを、笑みの形に歪めて。
「……次に会った時は、赤の他人同士だ。お前も早く次の見つけろよ」
 都合の良い台詞。デリカシーに欠けてる。自分がどんなに酷い残酷な台詞口にしてるか、全く判ってない。
 その時。
「っ!?」
 ばしゃり、と音がして、木暮の頭がびしょ濡れになった。
「失礼致しました!」
 若いバーテンダー。色黒で精悍な顔立ち。水泳選手のような広い肩幅。店の制服の上からも判る綺麗な筋肉。
「何するんだ!!」
 木暮は真っ赤な顔で怒鳴った。床やテーブルに零れてる茶色い液体。砕け散ったグラスとブランデーボトル。跳ねて砕けて舞い散った粉々の氷。薄暗い証明に照らされて、僅かな光を放っている。辺りにブランデーの匂いを漂わせて。
「すみません」
「すみませんで済むか!! 弁償しろ!! 弁償!!」
 俺は小さく溜息をついた。周りがこちらを見ている。何事だろうかと。木暮は顔を真っ赤にさせて、怒鳴っていて気付かない。
「……木暮」
 俺は声を掛けた。その瞬間、木暮ははっと我に返ったらしい。一瞬、視線が泳ぎ、それから静かな表情になり、相手を軽く睨みながら声のトーンを落とした。
「……後日、請求書を送るからな」
 そう言って名刺を取り出し突き付けた。バーテンダーは黙って受け取る。
「名前は?」
「……野間崎和郷[のまざきかずさと]
 場違いなくらい、良く響く声。音量が大きい訳でもなく。
「……忘れるなよ? 弁償」
「……はい」
 木暮は俺を振り向いた。
「……悪いが、俺はもう帰る。服もこんなだし。……じゃあな」
「……ああ」
 俺は見送る。『さよなら』は言わない。必要以上の言葉は、自分を惨めにさせるだけだ。木暮の広い背中を見送った。一度も振り返らない。迷い無い足取りで行ってしまった。……思ったより、ショックは少なかった。その事に軽いショックを覚えてた。
(……そういうもんなんだ?)
 俺は自分がひどく冷たい人間な気がした。この世で最も狡くて卑怯で弱くて酷い人間。思わず苦笑した。
「……大丈夫でしたか?」
「……え?」
 俺はきょとんとした。バーテンダーが俺を見ている。
「……あ、いやこっちには掛からなかったので……」
 バーテンダーは苦笑した。人好きのする柔らかい笑顔。
「……そうじゃなくて……さっき、泣きそうな顔してたから」
 どきり、とした。心臓を鷲掴みにされるみたいに。……そういうつもりは一切無かった。思わず顔に血の気が昇る。恥ずかしい。そんなに情けない顔してたのか?初対面の人間にそんな風に思われるなんて。……顔がひどく熱い。たぶん、真っ赤だ。
「……奢りましょうか?」
「え……でも……」
「厭な想いさせた、俺のお詫びです」
「…………」
 俺はバーテンダーを見上げた。精悍な顔は無邪気な笑顔と眼差しで、俺を射すくめた。
「……何が良いですか?」
「……じゃあ、ドライマティーニを」
「判りました。……それから、お席が汚れてしまったので違うお席になっても宜しいですか?」
 俺は頷いた。バーテンダーは笑って、他の席へと案内する。俺は壁際の席に座った。バックに聞こえてくる音楽。時折それに混じって聞こえる歓談の声。不意に、目頭が熱くなった。
「……お待たせしました」
 先程のバーテンダーだ。目の前にマティーニのグラスを置く。俺は理性を総動員した。
「……有り難う」
 言うと、バーテンダーが困ったように笑った。
「……迷惑でした?」
「……え?」
 何を言われたのか、判らなかった。
「……実はさっきの、わざとだったんです」
「えっ……?」
 思わず、目の前の男を凝視した。悪びれない笑顔を浮かべて、立っている。若い色黒のバーテンダー。涼やかな目元が僅かに薄く染まっているのに気付いた。
「……あなたが泣きそうな気がしたから」
 言われた瞬間、不意に想いとは裏腹に、涙が一滴、こぼれ落ちた。俺は慌てて拭った。バーテンダーは優しく笑った。
「……泣きたい時は泣けば良いんですよ。大丈夫、誰も見てませんから。……何なら暫く俺が楯代わりに立っていても良いです」
 人前で泣いた事なんて無かった。一滴零れると、涙は止まらなくなった。バーテンダーが見ている。俺は、涙が怒濤のように溢れて止まらない。顔を両手で囲った。
「……好きなだけ泣けば良いですよ」
 その言葉に甘えたのかどうか、俺は暫く泣き続けた。バーテンダーが俺を見ていた。
 マティーニのグラスに汗が伝い、コースターを濡らした。何処かの席で、グラスの中の氷がからんと音を立てた。

The End.
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