感情移入度測定法・5




5砂漠を歩いていたところ、足下に亀が這ってきました。あなたは亀をひっくりかえし、甲羅を下にして砂の上に置きます。亀は足をばたつかせていますが、どうしても元に戻ることができません。それでもあなたは亀を助けません。どうしてですか?




あれは、まだ二人でソファに座ってレンタルの古い映画なんかを見ることができたころのことだ。
際限なく煙草を吸ったり、映画に飽きはじめた彼がありきたりなストーリーに律儀に文句をつけるのを、うんざりするほどからかう時間があったころ。
問いだけはいつもあったが、答えは常になかったころ。
引き伸ばされて、うすべったくのっぺりとしたような時間にはそれにふさわしい相手が必要で、誰とでも無為に過ごす時間が共有できるわけではなかった。
たとえば、他愛ないというには不快な思いばかりをする会話や、ささやかに体温を分け合ったあとには虚しさを、うまく味わうためには、相手は誰でもいいというわけにはいかない。
愉快に過ごすには気に障る相手だったが、何も分け合わないと決めたりしなくても、何一つ分け合えるものがない相手というのは貴重で、よく、仲良く遊んだ。


彼がやってくるのは、鍵をしめてあるはずの玄関の開く音よりも前に結界の空気の乱れで分かる。
ちょうど見ていた映画はクライマックスで、安田は彼が静かにはいってきたのを幸いに放っておいた。
ただ、彼がソファの隣に座り、画面になげやりな視線を投げたときだけは、
狩る相手と狩られる相手が手に手をとって逃亡を企ててるとこ。
簡単に言った。
こう言ってしまうと身もふたもないな、と安田は思った。彼らにも彼らの事情がある。その事情が問題なのだが、このシーンだけを切り取ってみれば、それは美男と美女が恋に落ちているだけのよくあるシーンの一つだった。
安田が映画を見終わるまで、高坂は隣でおとなしく座っていた。
隣に座る高坂からはかすかに血の匂いが流れてくるような気がしたが、気のせいなのかもしれなかった。彼は常に人をそういう気にさせたが、いくら彼でもそういつもいつも、彼が望むような生活が送れているわけでもないだろうから。



映画は手に手をとった逃亡の旅に出るところで終わり、安田はエンドロールを眺めながらふと、キッチンではいまよくないことが起こっているような気分になったが、考えてみても思い当たることは何もなかった。
キッチンのほうに目をやると、高坂がよく知っている他人の家で勝手いれたコーヒーを片手に戻ってくるところだった。
映画を見終わって気が落ち着いた安田は高坂をからかう気になった。
「あんたにもフォークト・カンプフ検査してあげるよ」
言うと、高坂は興味のなさそうな視線を一瞬安田に投げて、コーヒーを一口飲んでから聞き返した。
「なに検査?」
「俺の目を見て。あなたには小さな男の子がいます。男の子はあなたに蝶の標本と蝶を殺すための毒瓶を見せてくれました。あなたはどうしますか?」
「……どうもしないんじゃないか?」
「そうだよね」
「私は子供が嫌いだし」
「そういう話じゃないんだけどね。でもコドモはコドモが嫌いだよね」
「許容しがたいんだよ」
「子供のわがままなんてかわいいものじゃない?」
「そういうわけで、お前いつも私のわがままをきいてくれるのか」
「ききたくてきいてるんじゃないって気もするんだけどね」
目を見て、と言われて横目で安田を見ていた高坂は、そう言われて褒美のように美しく微笑んだ。
無言で続きを促されているようなので安田は言った。
「あんたが人間かアンドロイドかの判定検査。人間であったら残酷な行為に対してすばやく嫌悪の反応があったり、動揺とか同情とか、愛護の精神とか、そういうのがあるはずなんだよ」
「お前ができる程度の振りなら、私にもできるよ」
「すみやかさが問題なんだよ。瞳孔の揺れと呼吸数だって。ほら、目を見て」
安田は正面を向いたままの高坂の顔を手で包んで自分のほうへ向けさせた。
黒い瞳と目が合った。
「……やっぱり見なくていいや」
安田は視線をそらした。
「何をいまさら目を見るくらいでひるんでいる?」
「だって怖いんだもん」
「少し呆れているだけじゃないか」
「じゃあ続けようか。テレビを見ていたら、突然腕に蜂がとまっていることに気づきました。あなたはどうしますか?」
「たたきつぶす?」
「いや、蜂はたたきつぶせないんじゃないかな」
「でも今のはそういうのを期待してただろ?」
「ちょっとね。あなたは男性とデートし、彼はあなたをアパートへ誘いました。寝室には闘牛のポスターがはってあり、彼はあなたを抱き寄せて囁きました。闘牛がどんなふうに終わるかを知っているかい?」
「いま、私がしてきたようなふうに、終わるんだよ」
高坂は涼しく笑ってみせた。
「……寒々しいね。話になんない。あんたなんかもうぜったいレプリカントだよ」
「はじめから話になる余地がないんだよ。お前にもやってやろうか?」
「俺は、絶滅危惧種を保護してるもん。愛護の精神にあふれてるよ。あと何があったっけ」
あてこすりには気づいたようだが高坂はしばらく考え事をするように目を伏せてから言った。
「砂漠を歩いていたら亀が来て、それをひっくりかえすと砂の上で足をばたつかせる。どうしても戻れないが、亀を助けない。なぜか?」
「ちゃんと見てたんだね」
「疲れていたから、画面を見ているくらいしかすることがなかったんだよ」
「どうする? 亀、助ける? 助けないならどうして?」
「踏みにじられてるときのお前の顔はけっこう好きだよ」
質問に対する回答のように高坂は答えた。


あんな体でも、唇を押し当てれば体温は上がった。
潤んだ目で見上げられれば懐柔したような気になるが、あれは彼が楽しんでいるというだけのことだ。彼がその時々で丁寧に押しつぶされることや、乱暴に投げ出されることの相手をしているというだけのこと。
けれど、指をねじりこんで背を反らさせれば、見上げていた目はまぶたに閉ざされる。そのまぶたが時々かすかに痙攣するのを見ていると気が済む部分というのがあるのだった。
ひっくりかえして背中を下にしてベッドの上に置き、足をばたつかせているがどうしても……。
だけどすべての鳥が鳥籠から出て空を飛ぶことを夢見ているわけではないし、すべての傷口が癒されるのを待っているわけではない。
だから、こうして見ているのは、彼を思わないからではないのだ。


火をつけようとしていた煙草は隣から奪われた。
煙草を指の間に支えて口元で留め、高坂は安田の行動を待っている。
安田はもう一本出した自分の煙草にまず火をつけて、深く吸い込んでから高坂の煙草に火をうつした。
「最近お前は優しいな」
と、高坂は少しかすれた声で言った。
「誰と比べて?」
「誰とも比べていないよ。ただの、感想だ」
「俺はいつだって優しいよ。あんたに辛くあたったりしたら、あんたをはげましてるみたいだし。しっかりしろって言ってるみたいで嫌だから、気をつけて優しくしてるつもりだよ」
それを聞くと高坂は何か言いたそうな顔をしたが、口にすることはなかった。
「俺をそういうのの相手にするの、やめてくれる?」
「そういうの」
「あんたが踏みにじられたいと思うのは勝手だけど、ってことかな」
「誤解だよ。優しくされるのも悪くない。お前を見ていると、もう少し自分を大事にしようと思うんだよ」
「好きで大事にしてないわけじゃねえよ。っていうかあんたらでしょ」
「今まで何度もお礼を言おうと思ったが、言いたくないんだよ」
「なにそれ」
高坂は軽く笑うだけで返事はなかった。
「言ってごらんよ」
うながすと、まるで煙草の煙がしみたように目をすがめ、軽薄な口調で言った。
「……今まで何度も、私の代わりに、死んでくれてありがとう?」
「いやなかんじ」
「いや、言い直すよ、今まで、ずっと、……」
その続きを安田は待ったが、結局その続きが口にされることはなかった。
今まで、ずっと、
ずっと、なんだったんだろう?
あんたの代わりにしたことなんて何一つない、と安田は思ったが、砂漠で足をばたつかせる亀を助けないことは、亀のことを思わないからではない、とか、そんなことを考えた。
すべての鳥が鳥籠から出て空を飛ぶことを夢見ているわけではないし、すべての傷口が癒されるのを待っているわけではない。
本当に?
一瞬よぎる疑問は煙とともに闇に消える。


けれど、それらはすべて、もう昔のことだ。
まだ二人でソファに座ってレンタルの古い映画なんかを見ることができたころのこと。
際限なく煙草を吸ったり、映画に飽きはじめた彼がありきたりなストーリーに律儀に文句をつけるのを、うんざりするほどからかう時間があったころ。
問いだけがいつもあって、答えは常になかったころ。
問いは一つもなくなり、答えばかりが残された今では何もかもが、もうない。
胸をいためずに気安く思い返せる出来事は多くはなく、だから、よく彼とのことを思い出す。
思い出す回数では何一つ測れるものがなく、残酷さや同情心を測るテストのようにはうまくいかなかった。いや、あれも結局はうまくいかずに、だから主人公はアンドロイドと逃亡の旅に出たのだ。
そういえばあのころにも、彼は愉快に過ごすには気に障る相手だったが、何も分け合わないと決めたりしなくても、何一つ分け合えるものがない相手というのは貴重で、よく、仲良く遊んでいた。