ハンマークラヴィア
#4
付き添いとは、それ以上は何もなかった。この人はかなりHで、Hの事しか考えてなくて……そう思ってたから、もっと何かあるんじゃないかな、と思ってたんだけど。 もちろん何かを期待したわけじゃない。したはずはない。多分。 何年も前、まだ高校も出ない頃は、私もHの事ばっかり考えてた。その頃は、この人と一度Hしてみたいなーとか思ってた事はあるんだけどね。 あまり思い出したくない。でもなんでだろう。さっきの話のせいかな、なくそうと思っているもの、忘れてしまいたい記憶について、冷静に考えられる。 急に、自分の今現在の姿が、すごく現実味を帯びたものになってきた。 こんな所まで来て、多分人生最大の決断を、もう半日もしないうちに実行する……。 うまく説明できないけど、まるで映画か演劇でも見ているような気分だった。行動しているのは私なのに、でもなぜか私は観客でもあった。 浮かれてたのかな。理由はわからないけど、自分の事じゃないように思っていた事が、急にリアルな実感を持って、のしかかってきた。 よくない。よくない流れだ。これが来るとどうなるか、私はよく知ってる。よりによって、このタイミングで来るのか。最悪。 少し落ち着くと薬を飲むのを忘れる。本当に悪い癖だ。すぐ飲もう。飲まないよりは少しましなはず。何も考えるな。赤いのを2粒、白いのも2粒。これが何だか考えるな。効果は忘れろ。 飲んだ。 お父さんとお母さんの事を思い出した。二人は、こんな人間になられるために、身を粉にして私を育てたんだ。裕福ではなかったけど食べ物に困った事はない。欲しい物全て手に入りはしなかったけど、今思えば、友達どうしで恥をかかないくらいのお小遣いはくれた。 かなり高望みした大学に奇跡的に入れた時なんか、二人とも泣いちゃったよね。遠くへ行きたかったから、選んだだけなのに。それが理由だったのに。 その大学を、2年にもならないうちに勝手にやめて、そして、私が何になりたいのかを話したとき、二人はまた泣いたよね。お父さんは私を力いっぱい殴ったよね。あれから会ってないや。 何様だったんだろ、私。親のくせに理解できないのか、なんて言ってさ。親だからこそ、そう簡単に理解できるはずなかったのかもしれないのに。 さんざん迷惑かけながら育ててもらって、かなり無理して仕送りしてもらって。ずっと専業主婦だったはずのお母さん、パート始めてたんだってね。そのお金が消えた先は、女物の服だの、化粧品だの、脱毛だの……最悪だ。 私の気持ちを分かってくれないのかとか責め立てちゃってさ。こっちがだよ。わかってなかったのは、一体どっちだったんだろう? いや、だめだ。分かってないのは、向こうだ。絶対にそうだ。騙されちゃだめだ。気弱になっちゃだめなんだ。 そうだ、あいつらは嘘をついた!! 高校生の頃、私が悩んで手首とか切った時、何があっても私たちは味方だから、そんな事はしないでくれって頼んだよね!? でも私が一番重要な悩みを打ち明けた時、味方しなかったじゃん。 それどころか怒り出した。大嘘つきだ。そうだ。むしろあんな連中とは縁が切れて良かったんだ。またいつ騙されるかわかったもんじゃない。正解だったんだよ。 危ないところだった。あのままじゃ、また決心が鈍りかねなかった。 よく考えれば親が身を粉にして子供を育てるのは当たり前だ。手を抜いたら虐待で捕まるもんね。向こうは当たり前の事やっただけで、別段恩を着せられるいわれはない。 ……本当にそうなの? そうだ。絶対にそうだ。間違いなくそうだ!! 大事な日の前日にこんな事に足を引っ張られてる。たまったもんじゃない。でも薬は効いてきたようでだんだん落ち着いてる。 結局眠る事はできた。ちょっと睡眠不足かもだけど、どうも全身麻酔かけられるらしいから、ちょうどいいのかな? それとも、よくないのかな? わからないけど。 コーヒー飲んで目を覚まそうか、でも麻酔の効きが悪くなるのかな。もしなったらやだな。コーヒー嫌いだから飲まないでいいかな。ちょっとおなかすいたけど、どうしよう。 そういえば、そもそも日付変わった後は飲み食いするなって言われてた。それを思い出すなり、嫌いなコーヒーでもいいから、飲みたくなってくる……。 なんか悶々としてるうちに、ノックの音がした。 「眠れた?」 「……なんとか」 「いよいよだよ。覚悟はできてる?」 覚悟。今までに何度も決めた事があるつもり。決めるたび誰かに邪魔されてきた。でももう、邪魔する人はいない。 「もちろんできてる」 「よろしい。では、いざ決戦の地へ!」 付き添いは、わざとらしく言うと、歩き出した。 病院で、最後の意志確認。もちろん今更引き下がるはずなどない。 一応、来る前に日本で受けてある検査結果だとか、なんか色々書類渡して……うん、話のわかる医者を紹介してもらえたのよ。驚くくらい、とんとん拍子だった。あのヤブ医者がいかに怠慢だったか、よくわかる。 「入院は10日を予定してるけど、傷の経過しだいでは早めてもいい。でも退院してもしばらくは日本に帰らず、観光を楽しみながら通院してください、と」 付き添いは、医者が喋る謎の言葉をすいすいと日本語にし、私の言葉をすぐに謎の言葉に変える。英語は通じるようだから、何とか意思の疎通はできると思うけど、現地語喋れる人がいるなら、いらないよね。 「行ってらっしゃい」 そう言って、付き添いは私の手を握って、微笑んだ。 私はその手を握り返して、同じように笑ったと思う。最近あまり笑ってなかったから、笑えたかなあ。 看護婦さんについて歩いている間、そう長い時間じゃなかったけど、その間に、色々な事を考えた。 今までの最悪の人生の事。多分私は生まれ変わるんだろう。将来が明るくありますように。いやきっと明るいに違いない。 両親の顔も浮かんだ。でも都合により今はあなた達の事は忘れさせてください。どう考えても良い結果にはならない。ごめんね。頭振ってかき消す。 ……今までテレビでしか見た事がない、口につけるあのマスクが見える。きっと、催眠ガスが出てるんだよね。寝てる間に終わるんだよね。 点滴を入れられた。ちょっと痛い。痛くない注射を発明するべきだ。そうすると子供が喜ぶ。きっと。なんだか妙なテンションだ。あれ。眠い。あのマスクは関係ないの? あれから何か出てそれが麻酔なのかと思ってた。違ったのかな? 頭が重い。どうも朦朧としてる。体には痛みはない。ないんだけど、おなかのあたりから下が、ものすごく鈍い感じに覆われてる。 なんだっけ、これ。そうだ盲腸やったときだ。多分痛くなるのは後かな。やだなあ。辛かったなあ。何だろう、何か聞こえる。 言葉らしいものが何度も聞こえたんだけど、さっぱりわからない。もしかして宇宙人に捕まったのかな。なんか怖くなった。 「通訳開始。手術は失敗しました、との事」 日本語が聞こえた。 「嘘。本日の分は、大成功」 あまり笑える冗談じゃない。そしてそういう笑えない冗談を言う人は一人。そして日本語が通じそうな人が身近にいる可能性も一人。この声の聞き覚えも一人。 やっぱ変だ。考えが混乱してる。 それからまた、ちょっとうとうとしてたら、声が聞こえてきた。 「最後に、取ったものを見ておくか、って言ってる」 「……見たくもない」 付き添いは一瞬だけ、少し寂しそうな顔をした。 「もう挨拶は済んでるから。「別れた男」の事に、あまり構いたくない」 「ずいぶん回復早いね。安心した」 付き添いは笑いながら、通訳の仕事を再開した。 |