三國志
三國志演義
真・三國無双 備考
176年 司隷州扶風郡茂陵県(現・陜西省興平県北東部)に馬騰(字・寿成)の嫡男として産まれる 司隷州扶風郡茂陵県に馬騰の嫡男として産まれる 無双をさんざん遊んでいたせいか、涼州の人でも、砂漠の民じゃない事にも、素直に驚きました。
馬騰が召し出されるまでずっと三輔地方(京兆・馮翊・扶風)に居たようです。
184年
中平元年
(8歳)

188年
中平4年
(12歳)
北地郡の先零羌や枹罕・河関の盗賊・北宮伯玉・李文侯・王国・辺章・韓遂らが叛逆を起こす。 涼州刺史耿鄙が民間人から有志を募り、馬騰は名乗りをあげる。州軍の官吏は馬騰を只者ではないと思い、 軍従事に任じて部曲を統括させた(董卓伝・後漢書霊帝紀 他)
190年
初平元年
(14歳)
馬騰はホウ徳らを率いて、羌族・シ族の氾濫を平定。偏将軍に任ぜられる(ホウ徳伝)
馬騰は征西将軍に昇進し、涼州漢陽郡隴県・司隷州扶風郡ケン県の一帯に屯していた。
初平年間(190〜194)征東将軍を拝命した(馬超伝)
191年
初平2年
(15歳)
董卓が献帝を連れ長安遷都を強行。董卓の援軍要請に応え、馬騰と韓遂が向かう。
馬超、初陣。馬騰配下の武将として従う

※5月、董卓が呂布に暗殺される
192年
初平3年
(16歳)
董卓暗殺後、長安が荒れ董卓配下による暴政が続く。
父・馬騰について長安に攻め上る。李蒙、王方の軍と遭遇すると王方を数合せず討ち取る。 背後から近づく李蒙に知らぬ振りをして馬が並んだところで生け捕りにする。(演義)

※朝廷の実権は李カク・郭が掌握した。
韓遂・馬騰が軍勢を率いて長安に参詣。
漢朝は韓遂を鎮西将軍として涼州金城郡に帰還させ、馬騰を征西将軍として 司隷州扶風郡ビ県に駐屯させた。
その後、征東将軍を拝命(馬超伝)

後、馬騰は長安を襲撃したが、敗走して涼州に戻った。(馬超伝)
193年
(17歳)
馬騰の子・馬超は壮健であると評判であったが、韓遂の小将・閻行もまた若いころから勇名があり、 二人を争わせた。閻行は矛で馬超を突き刺した。矛が折れると、その柄で馬超のうなじを叩き、もう少しで殺すところ であった(張既伝)
194年
興平元年
(18歳)
馬騰は入朝したのち霸橋に進駐した。(後漢書董卓伝)
益州牧劉焉と手を結び(劉焉伝)、諫議大夫(侍中?)・馬宇、右中郎将(左中郎将?) ・劉範、前涼州刺史・チュウ劭、中郎将・杜稟らとともに、李カク襲撃を計画した(後漢書チュウ払 同董卓伝)
後、馬騰は軍中の人が飢えていると上表し、池陽(李カクの封地)で食糧を得たいと請願。そのまま長平岸頭に移駐した。 その動きを将軍王承が懸念し急襲。馬騰は潰走して西へ行き、その後三輔地方(京兆尹・馮翊郡・扶風郡)が荒れたため、 再び東へ行くことはなかった(馬超伝)
馬騰は何日ものあいだ李カクと戦ったが、勝負を決することはできなかった。 韓遂が軍勢を率いて両者を和解させようとしたが馬騰に合流することになり、 李カクは郭・樊稠・李利を出して長平観の下で馬騰らと戦わせた(後漢書董卓伝)
馬騰と韓遂は涼州に帰還すると、韓遂と義兄弟の契りを結んだが、しばらくしてお互いに攻撃しあうようになった。 韓遂が馬騰の妻子を殺害したため、怨恨が決定的なものになった(後漢書董卓伝・馬超伝)
196年
建安元年
(20歳)
鍾ヨウが司隷校尉として赴任し、文書で争うことの禍福を説き韓遂と馬騰を和解させる。 それぞれの息子を鍾ヨウに預けることになり馬超はこの際、人質として鍾ヨウのもとに差し出される(鍾ヨウ伝)
200年
建安五年
(24歳)
馬騰、槐里に帰還して駐屯、前将軍仮節(補任)・槐里侯に封じられる(馬超伝) 秋。なぜか「長坂の戦い」に参戦(真・三國無双2)
冬。なぜか「赤壁の戦い」に参戦(真・三國無双2)
「集落救出戦」
たぶん涼州への帰り道。たまたま通りかかった集落が野盗に襲われていたため、 正義の名のもとに戦います(真・三國無双2)
202年
建安7年
(26歳)
袁譚・袁尚が高幹と郭援・匈奴単于を派遣して黄河の東部を攻撃(荀ケ伝)
馬超は馬騰の命により、鍾ヨウの元で一万あまりの軍と韓遂の軍を同時に指揮する(鍾ヨウ・張既伝)
馬超は司隷校尉(鍾ヨウ)の督軍従事として参戦
矢で足を射られるが、ふくろで包んで戦い郭援の軍を撃破し、馬超配下の武将・ホウ徳が郭援の首を斬った。 詔勅より徐州勅史を拝命、後に諫議大夫に任命される(馬超伝・典略)
曹操が丞相になった際、馬超を辟いたが、馬超は応じず、官位には就かなかった(馬超伝) この頃から曹操嫌い(笑)だったのか、見向きもしてません。非常にプライドが高そうです。
馬超が曹操(又は漢人)にどのような想いを抱いていたのか、今となっては知る術もありませんが、与えられる官位に価値はないと考えていた事は確かなようです。
馬騰を征南将軍、韓遂を征西将軍に任じ、ともに幕府を開くことを許可した(後漢書董卓伝)
のちに張白騎・張エン・衛固らの討伐にも馬騰は参加している(張既伝)
馬超はこの際、馬騰配下の武将として転戦したと思われる。
203年
建安8年
(27歳)
冬。「潼関の戦い」
進軍してきた曹操軍から祖国を守るため、長安で罠にかかり、殺された一族一党の敵を討つべく潼関で戦います。 ”連合軍”となっているうえ、蜀将は一人たりとも参戦してくれません(真・三國無双2)
今ごろ、劉備軍のみなさんは「そういえば、長坂と赤壁に居たあの派手な兄ちゃんは誰かの知り合い?」 などという論議に花を咲かせていることでしょう。
208年
建安13年
(32歳)
馬騰、衛尉として召し出される
入朝しギョウに馬超以外の一族を移住させる。
馬超は馬騰入朝に及び偏将軍に任命されて都亭侯に封じられて馬騰の軍を宰領し、涼州に赴いて軍勢を統率した。(馬超伝)
※馬休は奉車都尉、馬鉄は騎都尉
一族一党皆ギョウに入ったからには、国を守るも何もないと思うのですが…。 馬超だけ残ったのには、何か理由がありそうに思えてなりません。ここでようやく涼州に駐屯することになりました。
210年
建安15年
(34歳)
鍾ヨウが張魯討伐を決意
高柔・衛覬が馬超・韓遂の叛意を煽ることになると諌めたが、聞き入れられなかった。(高柔・衛覬伝)
211年
建安16年
(35歳)
鍾ヨウの軍勢3000が関中に入ると諸将は一斉に反乱した(武帝紀)
馬超は関中の諸将侯選・程銀・李堪・張横・梁興・成宜・馬玩・楊秋・韓遂と手を結び潼関まで攻め寄せた(馬超伝)
これには弘農・馮翊の多くの県邑がこぞって呼応した(杜畿伝)
曹操は西征し、黄河・渭水合流地点で戦う。
賈クの離間の計により連合軍は大敗。
馬超は安定まで退き、韓遂は涼州へ戻る。
涼州の有力者だった韓遂に馬超は「父を捨て、これからは韓遂殿を父と仰ぎます。 韓遂殿も子を捨て、これからは私を息子だと思ってください」と言って、挙兵の協力を要請しました。 母(義母?)を殺した相手に言える台詞なのだろうか…。この事からも、野心家だった父・馬騰の入朝に関し、 意見が合わずに残ったのでは?と邪推してしまうのです。それにしてもこの頃の馬騰、覇気がなさすぎるような…。
212年
建安17年
(36歳)
5月癸未 ギョウに居た馬超の父・馬騰始め弟馬休・馬鉄ほか三族共々皆殺しに処された(後漢書献帝紀)
ただ1人、従兄弟の馬岱だけが九死に一生を得て馬超の元に戻る。
馬超は漢陽郡へ逃走後、諸蛮族を配下に収め、雍州隴上の郡県を次々に攻撃し掌握した
213年
建安18年
(37歳)
1月に冀城を包囲 7月に陥落させる
涼州刺史韋康を殺害
援軍として現れた夏侯淵の軍を冀から2百里離れた地点で迎撃・打ち破る
自ら西征将軍と称し、并州の牧を兼務。
涼州の軍事都督となる(馬超伝)
このとき韋康を「日和見主義者」と断じて処刑した事で、部下の恨みを買ったようです。
9月 趙衢、漢陽の尹奉が馬超を攻撃し(馬超が楊阜攻略に城を空けていた隙に城門を閉ざした後) 馬超の妻子を梟首(木にかけて首をさらす)にした(武帝紀)
元・涼州刺史、韋康の吏民・楊阜、姜叙が反旗を翻し鹵城で挙兵。これを下すために冀城を空けた際、 梁寛、趙衢に城門を閉じられ戻れなくなったところを夏侯淵に攻められ、やむなく漢中に出奔(馬超伝) 妻子のことは大切に想っていたようで、この後、ぶち切れた馬超は、漢中に入る前にレキ (姜叙の実家があった)に入り、さんざん暴れた後、「親不孝者」と自分を罵った姜叙の母親を殺害してしまいました。
ちなみに、楊阜・姜叙の乱は、この母親がたきつけた事にも一因があります。姜叙らにとってみれば、 馬超は主殺しの侵略者以外の何者でもありませんからね…(姜叙伝より)
張魯のもとへ身を寄せる
張魯は馬超を都講祭酒とした(馬超伝)
張魯からは幾度も兵を借り、西へ挙兵したが、夏侯淵を降すことができなかった。
後に張魯配下の将・楊白等が馬超を害そうとしたので漢中から逃れ、劉備軍が劉璋を包囲したと聞き、 密書を送った。(馬超伝)
※一説では李恢に説得されたとも

この時、病気のため馬超に同行せず漢中に残ったホウ徳は曹操軍に攻められ善戦するも楊松らの裏切りにあい、 退くも戻るも難しい状況にさらされて、魏に降る。後の関羽攻めで関羽に降らなかった為に切り殺されるまで、 生涯主を違える事を不徳とした。(ホウ徳伝)
馬超の小婦(妾)である董氏がホウ徳と共に漢中に残っています。
ホウ徳と馬超が袂を別つ原因のひとつではないか、と考えます。
馬超が入蜀した後、ホウ徳は魏国に仕えましたが、董氏は閻圃(張魯の部下)に与えられ、 息子の馬秋は、張魯の手によって殺されてしまいました。(馬超伝より)
演義では、劉備軍に包囲された劉璋から救援の使者が来て、馬超が援軍に向かうことを志願。
張魯から2万の兵を与えられて進軍し、益州広漢郡葭萌県の葭萌関にさしかかったところで、蜀攻略中の張飛と激突。名高い一騎打ちになる。
暗くなると松明を灯してまで戦ったが勝負がつかず。その勇姿に劉備が惚れ込み、 諸葛亮の計で張魯に疑われると、説得に来た李恢に従い、帰順したことになっている。
「葭萌関番外戦」
涼州軍事都督として、馬岱・ホウ徳を伴い、劉璋の義勇軍として現れます。成都で蜀将との一騎打ちに負けた馬超は、 説得に応じ、蜀に降ることに。しかし、張飛や関羽を始めとする蜀将はどこの馬の骨とも分からない馬超が気に入らない様子。 己の武を示し、実力を認めさせねばなりません(真・三國無双3猛将伝)
無双3では、成都で降った後に「潼関の戦い」が来るんですよね。肩書きから見るに、 3では隴西攻略・冀城攻め・漢中逃亡劇は無い事になっておるようです。
一族入朝→馬超、軍事都督として涼州に→益州が襲われてる!→【むむむ。】おのれ逆賊め!正義の名のもとに成敗してくれる →一騎打ちに負ける→大義を見定めてやる!→何故か一族が曹操に殺される(馬超が蜀に降ったからだったり?)→ おのれ曹操!仇は討つ!(3では蜀将も参戦してくれる)→そして伝説へ…
という感じなのですかね。
214年
建安19年
(38歳)
馬超が蜀に降り、彼を恐れた劉璋が降伏し成都は10日で陥落。
平西将軍・督臨沮(荊州南郡臨沮国)になり 因で前都亭侯とされる(馬超伝)

※劉備、益州牧となる。
※夏侯淵、韓遂を破る。
韓遂殿、西方で抵抗活動を続けていたようです。 この時韓遂に従っていた兵士のほとんどが馬超の元に参じたそうです。
217年
建安22年
(41歳)
(法正の進言により)劉備と曹操が漢中争奪戦を展開。
劉備は陽平関、張飛は固山、馬超と呉蘭は下弁に注進する。
曹操軍は漢中を守る夏侯淵と張コウの支援として曹洪を派遣。劉備が陽平関で長く堪えた為、曹操自らが出陣。
219年
建安24年
(43歳)
蜀軍は定軍山で夏侯淵と対峙。
黄忠と法正が協力し、夏侯淵を斬る。
天険を占めた劉備軍に曹操は攻めあぐね、撤退する。
漢中を治めた劉備は、漢中王となる。

※関羽、樊城を包囲するも、麦城へ敗走。
関平と共に孫権に斬首に処される。後、責任転嫁のため関羽の首を曹操に送りつける。
220年
建安25年
黄初元年
(44歳)
※曹操死す。息子の曹丕、献帝に禅譲を迫り魏を興す。(元号・黄初)
洛陽を都とする。
221年
章武元年
(45歳)
蜀漢帝国建国
※劉備が皇帝になる(昭烈帝)(元号・章武)
※諸葛亮、丞相になる。

驃騎将軍に昇進 涼州牧を領させられる
封爵は り郷侯(馬超伝)
劉備、関羽の弔い合戦として呉討伐の軍を起こす。

※張飛死す。
222年
章武2年
(46歳)
※黄忠死す。

夷陵にて呉と開戦。陸遜に破れる。
(馬超は参戦せず)
夏。「夷陵の戦い」
関羽の仇を討つべく、呉との最終決戦(早!)に臨みます。
関羽を先にクリアしていると、殿が怒っている理由がいまいち分からなくなります(真・三國無双2)
223年
建興元年
(47歳)
馬超、病没 47歳
(劉備よりも先に死んだようです)

追諡は威侯 
子の馬承が後を継ぎ、娘は安平王劉理と縁づけられた。

馬岱は官位は平北将軍 爵位は陳倉侯までになった(馬超伝)

※白帝城にて劉備死す。劉禅帝位継承。
馬承と娘の母親が誰なのか、記述がありません。蜀に来てから娶った(と思われる)妻との子供なのかもしれません。
子がいるにも関わらず 「馬岱を残し、一族の血は絶えた」と遺書に残していることから、同郷以外の血を認めていないようにも取れてしまう…。養子の可能性もあるのかな?
225年
建興3年
(49歳)
夏。「南蛮夷平定戦」
戦う前から、蒸暑さにうんざり気味な馬超殿です。敵の多さ+堅さにもげんなりです。 象に轢かれても死なない強い子になりました(真・三國無双2)
演義でも、南蛮を平定する戦までは生存が確認されているようです。
234年
建興12年
(58歳)
秋。「五丈原の戦い」
ついに宿敵・魏国との決着を付ける日が来ました。ここではまず司馬懿を野次らねば始まりません。 1000人斬り達成。(真・三國無双2)
北伐まで生きている五虎将は趙雲ただ一人。蜀の全盛期は、あまりにも短すぎます…。

■距離単位
単位/時代 後漢 日本
分(cm) 0.23020.24120.303
寸(cm) 2.3042.4123.03
尺(cm) 23.0424.1230.3
丈(m) 2.3042.4123.03
歩(m) 1.3824(6尺)1.4472(6尺)1.515(5尺)
里(m) 414.72(300歩)434.16(300歩)454.5(300歩)
3927(明治24年以降)

■時間単位
1刻(こく)=14分24秒
1時(とき)=2時間 ※1日は12時までしかありません。
1時15分を1時1刻、2時45分を2時3刻と呼びます。
刻は、1刻と3刻のみで、2刻は使わず、〜半という言い方をします。
そのため1時30分は1時2刻ではなく、1時半と呼びます。

■質量
(かん)3.75kg
(もんめ)1/1000貫 3.75g

※この年表、単位表は小説を書くにあたり、本やWebを見ながら覚書程度に作成したものです。
同じ目的の方の参考になれば、と思い、公開しました。
もしも、「ここ違うんじゃない?」のようなご指摘がありましたら、
管理人まで、メールにてご教授ください。


参考文献・図書

単位の辞典 押田勇雄編 :ラテイス株式会社
世界古典文学全集 三国志 出版:筑摩書房
三国志 出版:中華書局
三国志集解 出版:中華書局
三国志ヒストリーガイド コーエー出版部編 発売元:株式会社コーエー
三国志平話 二階堂善弘・中川諭 訳注 発売元:株式会社コーエー
三国志 正史VS演義 歴史ポケット 三上修平編著 発売元:株式会社コーエー
歴史人物笑史 爆笑三國志人物事典 シブサワコウ編 発売元:株式会社コーエー

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