37.2℃ 「ごめんなさーい。あたしって平熱低くてー、5.3℃くらいなんですよー」 「それでー、6.8℃になるともうフラフラでー、それに今日は金曜じゃないですかー」 デスクの上のパソコンに向かう私の後ろで、後輩の女の子がなにやら騒いでいる。 壁にかけられた時を知らせるだけの味気ない時計は、終業時間五分前だ。 「今もちょっと熱っぽいかなってー。だからー、残業はちょっとー…」 「そうですか、じゃあ誰か他の人にお願いします。お大事にしてくださいね」 諦めを含んだ困った口調でそう言う主任の足音がこちらに近づいてくる。 部署内で流行り始めた風邪のせいで、私の右隣の席の社員は今日休み。 左隣の社員はたった今、やたらと語尾をのばす締まりのない口調で断っていた後輩の女の子だ。 100%私に頼むのだろうと、小さくため息を吐く。 「さん、今どのくらい残ってますか?」 キーボードから手を離して、今日予定していた事、こなした仕事、やらなければならない仕事を思い返してみる。 私の隣で立ち止まる主任を見上げるように振り返ると、数枚の書類が目の前でヒラヒラと揺れた。 「えーと。とりあえず急ぐのは月曜の朝、提出する資料がひとつです」 ヒラヒラと揺れる書類が私の机に置かれたかと思うと、主任は私と同じ目線になるために屈んでくる。 「ごめんね、これ頼めるかな?こっちも色々立て込んじゃって」 主任はまるで内緒話をするように、私にだけ聞こえる声で親しげに話を始める。 眼鏡越しにふわりと微笑んで見せる主任からほのかに香る香水に気を取られていると、主任は敬語を抜き私のテリトリーに侵入してくる。 低姿勢な態度がどうにかしてあげたいという気になってしまうのは私の悪い癖なのだろうか。 今朝計った時の私の体温は37.2℃。 少し頭がフラフラするけれど、出来ない事もない。 もしかしたら昼に飲み忘れてさっき飲んだ風邪薬が効いて、眠気でフラフラするのかも知れない。 「分かりました。そしたらこれを打ち込めばいいんですね」 「うん、そう。終わったら持ってきてくれる?本当、助かります」 背筋を伸ばして少し離れる主任は、『お願いします』そう言って微笑んで戻っていく。 その後ろ姿に軽く会釈をして私は再びキーボードへと手を伸ばした―。 「航河、お待たせ!」 残業を終えて会社を出ると、近くに駐車していた航河の車の助手席に乗り込む。 主任からOKをもらい、自分の仕事も終わりに近づいた頃かかってきた航河からの電話に、思わず飛びついて 迎えに来てくれる事、航河に会える事になって、まるで頑張ったご褒美のようで嬉しい。 『よう』と短く挨拶をする航河が、私に向かって目を細めて微笑む。 それだけで残業の辛さもチャラになってしまうほど、癒され安らいでいく。 「、…お前なんか顔赤くないか?」 「え、ホント?実はちょっと熱っぽいかな?って。微熱だから問題ないけど」 そんなやり取りをした直後、眉間にしわを寄せた航河の大きな手が私の額へと触れてきた。 視界すら奪われてしまう航河の手に包まれると、私の体はこの上ないほど安心に包まれる。 「…まったく、大丈夫なのか?」 額に触れる手のひらがゆっくりと頬へと下りてきて、クイッと顔を航河の方へ向けられる。 心配そうな目をして、心配そうな声で、航河は私の動きの細部までを読み取ろうと見つめてくる。 「うん、航河の顔見たら元気出てきたし。あ、でも風邪だったら移しちゃうかもごめん」 「そんな柔な鍛え方はしてないから、気にするな」 「そしたらもうお前の家もう戻るぞ、休め。飯は作ってやるから」 「えぇっ、そんな、悪いよ」 航河の手がハンドルへと戻っていくと、断る隙を与える間もなくエンジンがかかり車は走り出す。 「、前にサーキット場で倒れたの忘れたんじゃないだろうな」 「えへへ」 「えへへ、じゃない」 「そしたら、また航河助けてくれる?」 「バカか、心臓が持たないって言ってるんだ。そんな事になったらもう俺の部屋に閉じ込めて監禁してやるからな」 半ば呆れ口調で脅してくる航河が可笑しくて、笑っていると突然バッグの中の携帯電話が短く鳴る。 メールだ、ごめんね?そう航河に断って携帯を開く。 「あ、主任からだ」 「仕事か?今日はもう断れよ」 「違うよ、今日残業頼まれてそのお礼。今度一緒にお茶しようだって、ふふふ」 「…随分、楽しそうだな」 「なんか主任って上手いんだよね。私に期待してくれてるみたいで、気も合うし」 それにね、色々相談にも乗ってくれるし、厳しいんだけど優しいところもあるし。 もしかしたら私がどうすれば残業を気持ちよく受けるかとかお見通しなのかも。 スーツとかもピシッと着こなして、銀ぶちの眼鏡が似合ってて、かっこいいんだよ。 今ちょっと風邪が流行ってて、主任も大変そうでなんとかお手伝いしたいなって思っちゃうんだよね。 まるで独り言のようにさっきの事を思い出しながら、私は言葉を続けた。 「それで、…お前は行くのか?」 すると私とは反対に航河の表情が雲って、冷たい探るような言葉が私にふりかかる。 熱のせいで反応の鈍った私は、フラフラした頭で航河の態度に疑問符を浮かべる。 「うん?何度かお昼食べに行ったこともあるよ」 「………」 航河の不機嫌がMAXになったのか、とうとう無言になってしまう。 何か気に障ることをしゃべってしまったのかと微熱まじりの頭で会話を思い返してみる。 思い返してみて、ふと頭をよぎったものがひとつ。 もしかしたら最も重要な事を言っていなかったかもしれない。 嫉妬されるのも、疑う言葉さえも愛しく思えるけれど、自分だったら耐えられないし。 航河を傷つけるなんてしたくない。 「……航河、もしかして誤解させちゃった?」 「…………」 「私、航河しか…好きじゃないよ?」 「…………」 「…あの、主任って…女の人…だからね?」 無表情だった航河の眉が一瞬ピクリとその言葉に反応する。 ああ、やっぱり。 私、言い忘れてましたか。 少し気まずくて、うかがうように航河を上目遣いでジッと見つめていると、航河は一年分くらいのため息を大きく吐いてこちらを向いた。 ご機嫌直して?そんな気持ちを込めて、少し首を傾けてみる。 ちょっと恥ずかしそうな表情をした航河は、視線を前に移してやっと口をきいてくれた。 「そういう事は、一番最初に言えよ」 「びっくりした?っていうか私もびっくりしちゃった」 「…ったく、熱で頭がイカれてんじゃないのか」 「へへ…、そうかも」 勘違いの気恥ずかしさを隠すように毒づく航河の左腕に、邪魔にならないようにそっと右腕を絡ませる。 『お前が好きだ』と言われてる時と同じくらい、航河が愛しくて触れたくてしょうがなかった。 航河に出会うまで、病気になったときの心細さは独りで耐えてきた。 でも、その心細さを埋めてくれる人の存在があると、何よりも心強くてありがたく感じる。 そして、安心と嬉しさで浮かれた頭が、微熱と相乗して大胆になる。 「このまま……」 「……ん?」 「…このまま、本気で俺の部屋に連れて閉じ込めてやろうかと思った」 「……ねぇ、航河。今日はうちに泊まって…ずっと看病してくれる?」 航河の腕に絡めたままの手で、彼の太腿をそっと撫でる。 指先で当てもなくなぞりながら、航河にしか聞かせたことのない口調で甘えてみる。 「……、……分かっててやってるのか」 「分かってて、…やってるよ?」 「…熱、あるんだろ?」 「じゃあ、航河だけ。……ね?」 「……本当にお前は、分かっててやってるのか?」 「……ん?」 「お前の言葉で、今俺がどうなるかとか…分かっててそいう事を、言ってるのか?」 艶を含み始めた声に、真剣な眼差しにドキリと胸が溶けていく。 「…そこまで分かってはなかったかも。……でも、嬉しい…よ?」 普段なら口に出せない事が、何故だかスラスラと出てくるのは、やっぱり熱のせいなのだろうか。 なんだかふわふわとしたと胸に、甘い痺れがプラスされてどうにかなってしまいそうだ。 そんな私を見てフッと吹き出す航河の表情に、閉じ込められてもいいと思ったのは内緒にしておこう。 「……じゃあ、遠慮なく責任とってもらうからな、覚悟しとけよ」 その言葉に小さく頷いて、私も一緒に笑い出す。 気がつくと車はもう私の家の近くまでやってきて、私は一層胸をときめかせた。 たまには、熱を出すのもいいかもしれない。 そんな事を思いながら――。 あとがき 久しぶりに拍手お礼を新しくしてみました。 なんだかお題で短いお話を書きたくなり、ダーッ!と妄想を膨らませてバーッ!と書き上げちゃいました。 航河のぶっきらぼうな性格がもうたまんないッスよね(´Д`;)/ヽァ/ヽァ ←BACK |