『悪い。ちょっと時間、あるか?』 仕事を終えて、ロッカールームを後にしようとした時に思いがけない人からの電話。 『駅前のカフェで待ってる』 雲ひとつない…とまではいかないけれど 降りしきる雨は、気象予報士の予想通りいつの間にか止んでいて 先程、中沢さんからの電話に出るべきじゃなかったと思った気持ちは、そのせいか幾分和らいでいた。 「お待たせしました」 「おう」 短い挨拶をして席へつくとタイミングよく現れたウェイターに、私はアールグレイを注文した。 表情を変えることなく中沢さんが静かにアイスコーヒーを口に含むと、カランとグラスの中の氷が涼しげな音をさせる。 「それで、お話ってなんでしょう」 背筋を伸ばして構えながらの私の質問に、中沢さんは『ああ』と短い返事をするだけだった。 お話ってなんでしょう、…自分で言ってて滑稽だ。 そんなの、理由はひとつしかないのに。 カズさんのさっきの電話はきっと仕事場から連絡してきたんだ、知られたっておかしくない。 「すみません、カズさんの事…ですよね」 小さく頭を下げて、中沢さんを見ると、困ったような複雑そうな笑顔だった。 「お待たせ致しました」 先程のウェイターが、私の目の前にアイスティーを置いた。 妙な沈黙に、目の前のアールグレイを見つめるしかなくなって。 ベルガモットの香りに、グラスの中に浮かぶクラッシュアイスの姿に、緊張した体が少しだけほぐされたけれど ウェイターが去って、再び二人になったテーブルはやはりどことなく気まずい。 グラスにささったストローを数回まわして、冷たいそれを口に含むと 決心したように中沢さんが、テーブルの真ん中にワインレッドの携帯電話を置いた。 意味を理解しかねて、私は中沢さんの様子をうかがうと、半ばヤケクソになったようにイヤホンを差し出してくる。 「あの、私どうしたら…。…あれ、中沢さんって携帯この色でしたっけ?」 ふとよぎる疑問が私の口からこぼれると、中沢さんは手際よく携帯を操作してイヤホンを差し込んだ。 「まあ、とりあえず聞け」 「あの…?」 「簡単に言えば、強壮剤だ」 珍しくふざけた口調にますます訳が分からなくて、私は促されるままにイヤホンを耳につける。 『さん』 中沢さんが携帯のボタンを押したと同時に、聞こえてくる軽いノイズの中で、そう聞きなれた声がした。 『さんってば』 『……ねぇ』 『』 聞き覚えのある言葉に、声の主に 昼間の出来事がフラッシュバックして、胸がドクンと跳ね上がり、ギュッと苦しくなる。 「あの…これ…は…」 テーブルに落とした視線を思わず中沢さんへ移して、驚きのあまりかすれた声で私が問えば 中沢さんは決まりが悪そうな表情で、伏し目がちに言葉を紡ぐ。 「……疾斗の奴が…その…、"たまたま"携帯をいじっていたら……、…録れたらしい」 困ったような口調は、まるで言わされているように棒読みで、最後の方はため息と一緒に吐き出された。 そうか、これは鷹島さんの携帯なのか。 あの時のやり取りを、ボイスレコーダー機能を使って録った? そう理解すれば、新たな疑問が次々と湧いてきて どうして私に聞かせるのかとか、どうしてこれを中沢さんが持ってきたのかとか けれど、イヤホンから再びカズさんの声がして、私は言葉を飲み込んだ。 『カズさん…、今のって……』 『すみません、何でもありません』 『何でもないって声じゃなかったじゃないですか』 『………ふー……』 『私なら、そんなふうに困らせたりしないわ』 『意味を…履き違えないでください』 『……え?』 『何でもないというのは、あなたには関係ないという事です』 『…………そんなの』 『僕の態度が誤解させてしまったのなら謝ります』 『………違う』 『先程も言ったように、仕事以外であなたと連絡を取るつもりはありません』 『応援してくれるって…』 『それは、プレスの仕事を……って、分かってもらえてますよね?』 『私は、……私の気持ちは……』 『僕は、彼女が大切です』 『傷つくとか困るとか、もうそういう次元じゃないんです。傷ついても離れたくないし、ワガママを言われても守ってあげ……』 ガッシャーン!! 『うわっ…やっべ!………って、…げ』 『……そこで……何してるの、疾斗』 『い、いやあのカズさん…ちょっと散歩してたら声が聞こえてきたんで誰がいるのかなーって』 『へぇ、……それで?』 『いや、マジで…立ち聞きなんて…決してしてませんよー…?』 『そう。……もういいから、向こうに行っててくれるかな』 『は…はーい。ごめんなさいっ』 『……怒ったカズさんって…マジ怖ぇー…』 プツッ イヤホンから聞こえる音声が止まって、終了した事に気がついた。 息をするのさえ忘れるほど驚いていた体が、終わったと同時に酸素を欲して私は大きく息を吸い込む。 「聞かせるべきじゃないとも思ったんだが、お前の顔見てたら…な」 大きく息を吐いてイヤホンを外し呆然としていると、タイミングを計ったように中沢さんの口からそうこぼれた。 「……私、そんなに酷い顔でしたか?」 「まあ、な。たまにはカズに甘えてやれ。あいつも待ってるから」 サラサラと風に吹かれ消えていく砂のように、胸の中に積もったものが、姿を失っていくのを感じた。 次の瞬間には、私は一体何に不満を抱いていたのかとか、何がそんなに辛かったのかとか分からなくなって。 「……はい」 脳裏に焼きついたカズさんの笑顔を思い出しながら、そう返事をした。 ぽっかりと空いた胸の中に、ジワジワと熱いものが込み上げてきていっぱいになる。 自分の胸がドキドキと静かに、それでも確実に脈打っているのが聞こえてきた。 「ごめんなさい、中沢さんにこんな事…。そういえば…鷹島さんは?」 「あの馬鹿は、…うるさいから置いてきた。それと、勝手に俺達がやった事だ謝るな」 「……はい、ありがとう…ございます」 優しい眼差しにホッとして、私は中沢さんに深くお辞儀をする。 クールでストイックな中沢さんの、元気で明るい鷹島さんの気持ちが、素直に体に染み入っていく。 「なあ、…」 「はい」 「どうして、俺がお前を諦めたか分かるか?」 「………へっ!?…うっ…ごほっ…ごほっ…!」 アイスティーを口に含んだと同時に発された、中沢さんの思いもよらない言葉に驚いて情けないくらい咳き込むと 『大丈夫か?』と可笑しそうに顔を緩ませる中沢さんに、なんとか頷いてバッグからハンカチを出すと再び言葉が発された。 「あれから…、うやむやになってただろ?だから言っておきたくて…な」 突然の言葉に、高潮した頬が更に熱くなっていくのを感じた。 そうだ、忘れた訳ではなかったけれど、そうだった。 「位置が変わったんだ。諦めるとか嫌いになるとかじゃなくて」 「…い…位置、ですか?」 意味深な言葉に心臓が飛び跳ねて、動揺した体が熱い。 思わず視線を泳がせ、所在のない手で無意味にストローを掻き回す。 「見てて面白いが、別に口説こうってわけじゃないから、落ち着け」 「……はい」 慌てふためく私を可笑しそうに見つめながら、中沢さんは言葉を続ける。 お前ら二人、周りが見えなくなるくらい一生懸命でどうしようもないだろ? でも、だからこそ互いの気持ちが分かるから、支え合っていける そんなお前らと"仲間"として付き合っていきたいって思ったんだ。 少し照れているのか、無愛想にそう言ってくれる中沢さんが、ワインレッドの携帯をポケットにしまった。 「あのっ、…ありがとうございました。鷹島さんにも…」 「ああ、うまくやれよ。…それと、カズにはこの事は言わなくていい。余計な心配させるからな」 「……でも、あの…」 「しかもアイツ、意外に嫉妬深いんだ。俺はまだ死にたくない」 冗談紛れに笑って呟く中沢さんが席を立つ。 優しくて大きな手が、まるで子供をあやすように私の頭をポンと撫でて 「じゃあな」 そういい残して、中沢さんは姿を消した。 一人になった帰り道で、途中買い物を済ませて私は家へと歩き出す。 色んな感情があふれ出して、今の自分を説明できない。 けれど、ひとつだけ確かなのは、カズさんの声が聞きたいという事。 誰もいないアパートの前で、遠くから聞こえる雑音をシャットアウトして ドクドクと胸を揺らす心臓を必死で押さえ込んで、携帯電話を取り出した。 通話ボタンを押す コール音が鳴り響く ひとつ、またひとつと音が鳴る度に『泣くな』と自分に唱える。 『もっ!もしもし!ごめん、今ちょうど車運転しててなかなか出れなかったんだ』 泣くな、そう唱えてもその愛しい声の前ではどうしても耐えきれなくて 拭っても、拭っても、私の目から涙が零れた。 『かけなおそうと思ったんだけどなんかバタバタしちゃって…』 「……っ」 『タイミングはずしたら勇気でなくて…っじゃなくて!えーと、あの…その…今、何してる?』 「……カズ…ひっく…っ…さん」 「……さん…泣いてるの?』 「違うよ…カズさん…っ…ごめん」 「……ごめん。僕のせい」 「違うの」 カズさんのせいなんかじゃない。 一人じゃない事が、こんなに素晴らしい事だって忘れていた。 「昨日から家のトイレの電球切れちゃって…っ…届かなくて…変えて、欲しいの」 悲しくて泣いてるんじゃない。 支えてくれる人の温かさが、優しくて 時々見失ってしまう自分の傲慢ささえも、受け入れてくれる そんな大切な居場所があるから 嬉しくて。 「……お願い、会いに来て」 「……っ、三十分で行く」 そう短く言い残して切れた携帯電話を握り締め、私は 乾いた自分の心が、ツイていないと思い込んでいた自分の心が、切なさと幸せで溢れ出す。 涙が止まらない。 苦しかった、辛かった、寂しかった。 頑張らなければいけないと思った、理解しなければいけないと思った。 でも、それだけじゃない。 そんな渦巻く感情の中でもがく事で見つけ出す事のできたもの。 愛されているという事の実感。 三十分後の私はきっと、もっと強くなれる。 アパートの近くの公園の いつもカズさんが車を止める場所にしゃがみ込んで、子供みたいに膝を抱えて待ちわびる。 そこへ視線の先にある暗闇の中に、僅かな光が現れて、胸がトクンと高鳴る。 ヘッドライトの小さな灯りが少しずつ大きくなって その愛しい人を乗せた白い車は通り過ぎることなく、私の目の前で静かに停止した。 すかさず運転席から出てきたカズさんは、心配そうな表情を浮かべていて 私は嬉しくて、嬉しくて、分別もなくカズさんへと跳びついた――。 あとがき カウンタ30000を踏んでくださったリュウさんに捧げます。 甘くて切ないという事で頑張ってみました。 相変わらず一話におさまり切れず分かれてしまいましたが、お許しを^^; 慢心、傲慢、不遜等の感情が襲ってくる時ってありますよね。 常に統一でいる事は難しいです。 それでも、一人じゃないという事を知ると、勇気が湧いてきます 私も、皆さんがこうして遊びに来てくれて決して一人ではない事を、誇りに思っています。 でもですね、後編で航河と二人きりのシーン…自分で書いていて一瞬乙女心が揺れました(笑)。 カズさん……許して(´Д`;)/ヽァ/ヽァ 長くなりましたがカウントゲットありがとう&おめでとうございました^^ ←BACK |