『君と僕』 「皆さんのお仕事中はもうピットに入らないと決めたんです。」 暑さのまだ残るよく晴れた日の、突然の君の言葉。 「え?……でも。」 戸惑う僕。 「もう雑誌の仕事は一応終了したし、私はオングストロームのファンで、 …その、カズさんの…コッ、コイビトっていうだけだから。」 ちょっと恥ずかしそうに『コイビト』という部分だけ声のボリュームが下がる君。 そんなところも可愛いんだよな〜。 「けじめをつけておきたいの。」 それが君の出した結論なら…。 でも、そんなこと気にしなくて良いんだよ? どうせ優しい君のことだから、僕が『仕事中に恋人なんか連れ込んで』 なんて、変な噂や非難をされないように心配してくれてのことなんだよね? 「そう、わかった。さんがそこまで言うなら…。 レース中は相手できなくて悪いけど、 でも、何かあったら…あ、別に何もなくても良いんだけど、 いつでも来てくれていいから、ね?」 ちょっと寂しいけれど、それが君の思いやりだから、 ニコッと笑って君の柔らかな髪をなでる。 「ハイ…。」 小さく頷いてニコッと笑い返してきた君頬が朱に染まる。 ……可愛い、可愛い、僕の大切な人。 「それじゃ、観客席の方から見てるね。…頑張ってください。」 「うん。終わったらメールするよ。 どこかでご飯でも食べながらゆっくりしようね。」 何度か振り返って手を振る君の姿が見えなくなると、僕はピットへ戻った。 レースは好成績に終わった。 マシンの状態も良好で、大きなトラブルもなく明るい空気の中ミーティングも終えた。 あとは各自後片づけをして帰るだけ…。 そうだ君にもう終わるよってメールを出しておこう。 近くの店で時間を潰していると言っていたし…。 ――送信。 いつも待たせてばかりで悪いな…。 さて、急いで着替えよう…と、その前に手を洗ってこよう。 君が作ってくれたハーブの石けんでね。 もったいなくてなかなか使えなかったんだよね。 洗い場に着いて、汚れをていねいに落としてから手についた泡を洗い流せば、 さわやかなミントの香りだけが残る。 ふと、出入り口付近に目をやると、遠くに君の姿を見つけた。 ……胸が、高鳴る。 人もまばらになった道で夕焼けを浴びた君は、 あの時…初めて君を抱きしめたと時と同じで、 とてもキレイで…とても儚くて… 僕は、焦る気持ちを抑えて君のもとへ走り出す。 「やあ!待たせてごめんね?すぐに着替えてくるから待っ…」 ててね、と言い終わる前に君が、僕の胸へ飛び込んできた。 君に触れた瞬間、何かが僕の中からあふれ出て、 目の前の景色がよりいっそう鮮明に美しく見えた。 ああ、これが幸せという事なんだな〜。 「…今日、たくさん汗かいたから汚いよ?」 言葉とは裏腹に、僕は君をしっかりと抱きしめる。 「いいの。」 そう言って、僕の腕の中で首を横に振る君。 「油まみれの格好だし、さんまで汚れちゃうよ?」 なんて、僕だって本当は離す気なんて全然ないんだけど。 「いいの。」 君が顔を上げて僕を見つめる。 目と目が重なり、僕と君はどちらからともなく笑い出す。 「レースおめでとう。すごく良い走りだったね。」 「うん、ありがとう。皆の調子もよかったし、何よりさんが応援に来てくれたからね。 僕もいつもよりがんばれたんだ……なんてね。」 本当の事だけれど、いざ言葉にすると少し照れる…。 「カズさん……大好き。」 僕の背中に回されている君の手にわずかに力が込められた。 君が側にいてくれて、君の喜ぶ顔が見たくて、それが僕の力になる。 君の全てが、僕の力になる。 触れるだけで心が弾んで、感じるたびに満たされていく。 僕はこの気持ちを絶やさぬように君を強く抱きしめて、 耳元でそっと囁いた…。 「僕も、…さんが、大好きだよ。」 そのあと、周りの視線が気になり何だか急に恥ずかしくなって、 僕の顔が少し赤くなったのを夕日のせいにした事は…… 君に内緒――。 ←BACK |