雨模様の空から

いつの間にか音もなく

しとしとと落ちてきた滴達に気がついたのは

仕事を終えて会社を出る時だった。
















オータムレイン















週末のアフターファイブともなれば、こんな雨くらいどうって事ない。
けれど、私は会社の出入り口付近で腕時計と空を見比べて、日が短くなった事を噛み締めながらため息を吐いた。
今夜は久しぶりに恋人と過ごす日だ。


それなのにタイミングよく足止めを食らった私は、より疾斗に会いたいと言う気持ちを募らせていた。

この辺りのオフィス街で傘を売っている場所といったら
帰る駅と正反対の方向へしばらく歩かなければならない。
どうせ濡れるなら、今の弱いうちに駅へ向かってしまおうか。
駅前まで行けば何とかなるだろうし。

疾斗の方はもう家に着いているかな?
おなかを空かせているかな?

なんて

どんどんと想像を膨らませている自分に気がついて、思わず苦笑した。



ちょうどその時、隣に人の気配を感じ目をやると、傘をさして歩き出そうとする男性が視界に入る。

私の視線を察知したその男性がこちらを向き、傘を少し上へ向けて顔を見せた。


「あれ、さん。」


営業部の長谷川係長だ。
部署も違うし、たいして話した事はないけれど
正規入社でこんなに早く昇進するなんてすごいという話を聞いたことがある。
結婚してはいるものの、落ち着いた雰囲気で、女性社員からの人気も高い。

…と、女子更衣室でよく噂されている男性の一人だ。


「…あ、もしかして、傘持ってないの?」


そんな人が、私の名前を覚えている事に少し驚いていると
係長は首を傾けて、まるで子供に語りかけるように話しかけてきた。


「は…はい。持ってくるの忘れちゃいまして。」

「そうなんだ…、一緒に入って行くっていうのも…アレだしね。」

「いえっ、そんな…すみません気を遣っていただいて。」




気を遣わせてしまい申し訳なくて私がお辞儀をすると
困ったように笑う係長は、突然思い出したかのように自分のカバンを開けた。


「そうだった、良かったらこれ使って。」


係長は今自分が使っている傘を私に差し出してきた。
『カバンに折りたたみの傘入れといたの忘れてたよ』そう笑って、片方の手に折りたたみの傘を握っていた。


「…でも。」

「安物だし、返さなくていいから。」

「そういうわけには…。」


私が躊躇っていると、係長は可笑しそうに顔をほころばせた。


「じゃあ、デスクに置いておいてもらえればいいよ。僕、いたりいなかったりするから。」

「……そういうわけにも。」


失礼に値するという意味もあるけれど
いきなり違う部署の女が傘を返しに来るなんて…周りにどんな想像をされるのか少し怖い気もする。
言葉を濁す私に、親切に解決策を考える係長に申し訳なくて私は『すみません』と再びお辞儀をした。


「あ、さんって電車?」

「はい。」

「そっか、それなら駅まで一緒に行こうか。」

「え?」

「駅に着いたら傘返してもらう、ってのでどうかな?」



これ以上、足止めさせてしまうのはよくない。
それにそこまで親身にしてくださっているのに断る事もないんじゃないか。
頭の中でそうめぐらせて、私は『ありがとうございます』笑顔で頷いた。



――微塵も思わなかった。



差し出された傘を受け取ろうとした瞬間、掴もうとした私の手が空を掴んで

気がついた時には腕を掴まれて、…影が差していた。





「いらないから。」




まるで錆び付いたブリキの玩具みたいに、ギシギシとゆっくりとそちらに顔を向けると
鋭い目をした疾斗が、係長に向かって真っ直ぐそう言っていた。

体中の熱が顔に集中してしまったかのように、カーッと熱くなる。
その分足が凍り付いてしまったかのように、動けなくなる。


「は、…疾斗。」


私は固まったまま名前を口にする。
それでも、疾斗の視線は係長に向けられたまま。

けれどさっきまで訝しげに疾斗の事を見つめていた係長は
私の言葉で知り合いだという事を理解して、その表情を変えた。


「そうか、彼が迎えに来たのならこの傘はいらないね。それじゃ。」


私と疾斗を見ながら優しく、何かを懐かしむように笑って係長は背を向けた。
私は慌てて『すみませんでした』とお辞儀をした。






「誰だよ。」

「…会社の…上司だよ。」


すぐ側のアスファルトの上に、放り投げたように置かれた傘を見つけた。
人通りの少ない道に置いてきぼりにされて寂しそうにぽつんと雨に打たれている。


「ねぇ、あの傘…疾斗の?」


不機嫌そうな疾斗の表情が『傘』という単語を耳にした途端、より険しくなった。


「随分、…楽しそうだったよな。」

「え…?別にただ、たまたま傘をもうひとつ持ってたから貸してくれるって…。」


「やだ。」


掴まれていた腕が次の瞬間、疾斗の方へと引っ張られ抱きしめられた。
疾斗の両腕は、私の体をこれでもかというほど締め付けてきて
私は否応なしに、疾斗の胸へ顔を埋める事になる。

そこで、やっと気がついた。
疾斗が雨で濡れてしまっているという事に。

傘をさすのも煩わしい程
大事な体を濡らしてまでも

私は、あなたにそれほどまでに……?



「…疾斗、濡れちゃってるから…。」

「やだ。」

「でも、こんなに体冷やして…風邪ひいちゃうといけないよ。」

「やだ。」

「……疾斗。」

「…………。」



やましい事なんかひとつもないのに、どうしてこんなに痛いくらい胸が締め付けられるんだろう。
疾斗の独占欲が行動が、どうしてこんなに切なくなるくらい喜びに変わってしまうんだろう。

トクン、トクンと脈打つ疾斗の心臓の音が、より疾斗の感情を物語っているようで
その音が私の体中に響き渡るたびに『愛しい』という感情がむき出しになる。



「疾斗、…迎えに来てくれてありがとう。」

「…その必要、なさそうだったけど…。」

「そんな事ないよ、…嬉しかっ…。」


胸に埋めた顔を上げると、疾斗の顔を見る間もなく唇を塞がれた。
噂が立つとか、誰かに見られるとか、そんな心配は全く頭に浮かばなかった。
これで疾斗の不安が拭い去れるのなら…、それほど私自身が疾斗に溺れているという事を思い知ってしまう。

唇の熱は冷めることないけれど、まるで何かを修復し終えたようにすぐに離れていく。
名残惜しそうに疾斗は私を握り歩き出す。
途中で投げ出された傘を拾って。

それから、近くに駐車された車に乗り込むまで言葉は出てこなかった。

ただ、強く握られた疾斗の手は温かくて、私は離れたくないと思った。









車に乗り込むと、疾斗はフロントガラスに張り付く雨を見るともなく見つめ

さっき触れ合ったばかりの唇から言葉を紡いだ。






「…俺に、電話すればいいだろ。」

「…うん、でも…疲れてるところ悪いと思って。」


「…悪くねぇ。」

「……でも。」


「嫌なんだよ。俺の知らない所で俺の知らない奴とが笑ってんの…。」



捨てられた子犬みたいに寂しそうな目をした疾斗がこちらを向いて
『あんな事になるなら、俺を呼べよ』と小さく呟いた。
罪悪感とか愛しさとか、歓喜や切なさがめちゃくちゃに混ざって私の心の中を掻き乱す。

疾斗の嫉妬は、どうしてこんなに甘く痺れるのだろう。

どうしようもなくて

私は羞恥とかプライドとか建前を投げ出して

運転席の方へと体を近づける。


疾斗と目を逸らすことなく、ゆっくりと。
もしかしたら私は、また錆び付いたブリキの玩具みたいな動きだったかもしれない。

不思議そうに私を見つめる疾斗が『?』と首を傾けた。


それでもゆっくりと

近づくたびに増していく胸の鼓動さえも味方につけて

疾斗の頬にそっと手を添えて、あと1センチのところで目を閉じて

私は愛しくて仕方がない恋人に口付けをした。


驚いたのか疾斗の体が一瞬強張って
けれどこんな口付けじゃ私の想いは計りきれなくて

そのまま疾斗の唇を割って舌を差し入れると
反応した疾斗の舌が絡まって、深い熱で輪郭が溶けていく…。



しばらくそれを味わって、吐き出す息にも熱が移りだした頃
視線は絡ませたまま、どちらからともなく唇が離れた。



「ごめんね…疾斗、…大好き。」



私がまだ痺れる唇で、そう言葉を囁くと、疾斗は『ズルイな』と笑った。



「こんな事されちゃったら許すしかない、…てゆうか、どっかにぶっ飛んだ。」



優しく髪を撫でてくれる疾斗は、眉を下げて困ってみせる。
けれどすぐに真剣な表情に変化して、近づいてくる。

後頭部に疾斗の手が当てられて、額に、頬に、唇に幾度も口付けられる。



「……なぁ、。」

「…ん…、なに?」


口付けの合間に、疾斗が切なげに私を呼んだ。


「…………。」

「……疾斗?」


けれどいくら待とうとも、疾斗の口からそれ以上言葉は発せられなくて
その代わりに、私は運転席の方へと引き寄せられ、再び疾斗の鼓動が響く。







「……最後まで、ちゃんと責任持って…なぐさめて。」







唇が私の耳に触れて

その唇から囁かれる言葉は、私の体の中に甘い痛みを走らせる。



「…うん。」



私は静かに頷いて、疾斗を見つめて笑う。





そして私は、あなたを愛している事を再認識させてくれた秋雨に、心の中で感謝した――。
















あとがき
カウンタ16001を踏んでくださった紅さんに捧げます。
遅くなってしまって申し訳ないです^^;
嫉妬しちゃって甘々でコンチクショウ!な感じで、頑張りました(´Д`;)ハァハァ

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