14

 ラッシュの車内では俺の腕にひっついて離れなかったぶどうだが、電車が郊外に差し掛かり客の数がどんどんと減っていくに連れ、四人掛けのボックスシートに座っているのが窮屈になったのか、あっちへフラフラこっちへフラフラ、落ち着きなく歩き回るようになった。乗っているのは当然普通列車であり、駅に着くたびドアが開く。そのたびに俺は腰を浮かし、ぶどうがどこに居るか、ホームの何かに興味を惹かれ降りて取り残されたりしないかと気が気でない。東京都からふたつめの県に入ったところでとうとう同じ車両から姿が見えなくなって、慌てて探しに行ったら券もないのに悠然とグリーン車で踏ん反り返っていた。

「もう……、何をやってんだ子供じゃあるまいし。ちゃんと自分の席に座っててくれよ」

 大体、車掌さんに見付かったらどうすんだ、あたりを憚り声を潜めて言ったらぶどうはリクライニングシートを一杯に倒して、「あん?」と見上げる。

「いいじゃんか、見付からなきゃ」

「判らないこと言うな。ほら、あと四十分もすりゃ着くんだから」

「まだそんなにあんのかよ!」

 紅い髪の少年はうんざりしたような声を上げる。やっぱり新幹線で行くべきだったかと後悔するが、いくら片方はぎりぎり子供料金で騙し通せるにしても、やはり懐へのダメージは大きくなる。

 ボックスシートにまた座らせて、……座れば座ったで、外の景色を熱心には見るのだ。生まれてこのかた、ずっと東京都二十三区内から出たことがないのだから、関東平野特有の、広々と伸びやかな景色のあちこちにこんもりとブロッコリーの頭のように盛り上がった小さな森、そして遠くには煙突から煙をたなびかせた工場もぽつりぽつり。ずっと薄曇の東京の空を飛んでいたぶどうにすれば、何もかもが新鮮のはずだ。いつか金が貯まったら、北海道とか沖縄とか、そういう、もっと遠くに連れて行って驚かせてやりたい気がする。何年先になってしまうか判らないけれど、きっと。

「……広いなあ……」

 ぶどうは、ぽかんとそんなことを呟いた。

 徐々に山が近付いてくる。東京都区部にないものは須く珍しく映るぶどうの眼だ。「それでも、冬のよく晴れた日には富士山とか高尾山とか見たことあるぞ」と言ってはいたが、平野の端部、土を持ち上げる木の根のように膨らんだ山の裾に行ったことが在る訳でもない。二十三区で山と言ったら飛鳥山と愛宕山ぐらいのもので、ぶどうは愛宕山の男坂だって自分の足で登ったわけではないのだ。とりあえず愛宕山にもそのうち連れて行ってやろう。

 列車が終点を告げる。すぐ脇の高架を轟音と共に走り抜ける新幹線は多少耳障りだが、駅前は地方の小都市らしいのんびりとしたたたずまいで、空はすっきりと広い。春まだ浅く、雲は高いが風は冷たい、東京ではずいぶん温かくなってきて少し迷ったが、マフラーを巻いてきたのは正解だった。ぴう、と頬を切るような乾いた風に、思わず首を竦めた俺の横で、「ぶしっ」とぶどうがクシャミをした。この、子供扱いするなと言われてもどうしてもしたくなってしまうような少年は、「寒いのなんて平気だ」なんて言って、だから長袖のシャツに七分丈のジーンズだけ。子供扱いすれば怒るし、実際見た目だって、歩より大きい百五十八センチ、日本人の十三歳男子の平均身長からすれば長身と言えるし、骨格など確かに「アルフレッド」なんて立派な名前を持つだけのことはあって、割合ひょろりと長く伸びた俺に、いつか追い付く日が来るのだろうと想像出来る。ただ、この子の―「この子」なんて言ったらやっぱり怒られるだろうが―行動の一つひとつ、どうしたって俺には小さな子供のようにも見えてしまうのだ。中味が俺より年上だと、何度聞かされたって信じられない。

「……リュックの中にウインドブレーカー入ってるから着ろよ」

「へ、平気だ、こんくらい」

「風邪ひいたりしたら薬飲ませるぞ」

 言ったら、渋々リュックサックの中から俺がもう五年以上前から着なくなったウインドブレーカーを取り出して、袖を通す。

「ここから、バスに乗る。ええと……、一時間くらいだったかな」

「まだ何か乗んのか!」

「文句言うな。……トイレ良いか?」

 其れより腹が減ったとぶちぶち文句を言う。あっち着いたらなんか在るだろうから我慢しろと、ぐり、紅く長い髪を撫ぜた。それからリュックを受け取って、駅舎脇の公衆トイレに行かせる。

 微かに翠の光さえ熔かし込んだ紅い髪は、要するにラズベリィとミントゼリィの色なんだそうだ。確かに赤は赤でも爽やかな甘酸っぱさを感じさせる色であると、ぶどうから教えられたときに思った。伸び放題の髪を、今日は結ばずにそのまま。あんな年から髪を紅く染めて、などと眉を顰められてしまう。言っても伝わるはずがないが、あれは地毛なのである。

 濃いブルーの眼も、カラーコンタクトによるものではない。顔は、まあ、日本人に馴染みもあるが、それでも少し日本人離れしていると言っていいか、贔屓目のあることを認めた上で可愛いと評するに不都合も無い。凛々しい眉も、いつでも何かに挑むような鋭い眼も、俺には甘ったるく感じられる。ああ、馬鹿かもしれない、馬鹿で結構な気で居る。

 恋人同士だから。

「ハンカチ」

 濡れた手のままでぶどうは戻ってきた。

「……持って来てないのか」

 ウインドブレーカーで拭かなかっただけ、よしとするべきか。

「お前が持ってりゃそれでいいんだ」

「全く……、って、くしゃくしゃにするなよ」

 湿っぽいハンカチを取り返して、ぶどうの髪をまたぐしゅっと撫ぜる。実際には年上かも知れなくても、やっぱり、どうしても、可愛い。

「ほら、バス来てる、行こう」

 先を立って歩くとき、その手を引く。ぶどうが一番前の席が良いと言うものだから、俺は仕方なく椅子の脇に立つ。途中のバス停で乗って来た学校帰りの小学生の一団が、自分より大きいのに景色の良い席に座る紅い髪のぶどうを変な顔して眺めている。ぶどうは川を渡りトンネルを潜りどんどん山深くなる車窓に、身を乗り出して口を空けて眺めている。二十七歳の男が浮かべるに相応しい表情ではないが、十三歳の少年のものならば愛らしい。ぶどうの無邪気な顔を見て居る俺の顔も、多分二十四よりは少し幼くなって、しょうがないやつだなあと思っているつもり、しかし、表情は恋をするティーンエイジャーのそれかもしれない。

 「ぶどう」と声をかける。ん? と振り向いた顔に、窓枠の押し釦を指差してやる。

「押して」

 ぱっと顔を明るくして、ぐいと人差し指で押し込む。紅いランプが灯るのを、面白そうに見た横顔が、生きる力となる。

 バスを降りると、駅前よりももう一段、引き締まるような冷たい空気にぶどうが背中に隠れた。往路の電車に揺られながら、そう言えばこの山中の道を歩くのがもう十六年ぶりだということを思い出していた。あの頃はまだ歩はほんの赤ん坊で、しかしもう既に悩みは始まっていた。母は「おばあちゃんちに行く」ではなく、「実家に帰る」という言葉を選んだのだった。だから決して楽しい思い出ではない。獣の本性を裡に隠した父であり母の夫である人は、こうして妻が逃げるたびに血相変えて追い掛けて、その場は義母と義父に殊勝なことを言う。その言葉にほだされて、帰るときには車に揺られて、しかしまた、母は逃げ出すことを考えて居た。だが決定的に許さぬことが出来ないところが母の弱いところで、駄目なところ、俺の悩みの種はずっと土の中に埋まっていて、そういうことが在るたびに血腥い水を差されて芽吹いたのだ、……苦い思いを纏う。

 苦しみがあった、痛みがあった、だからこそぶどうが今、俺の傍で人間の顔をして居る。「さみー」と引っ付いて大層歩きにくいが、それでも頬は自然と綻びる。「赦す」或いは「裁く」、人間にとって最も難しい決断の一つであり、また負担が伴うものである。俺は相変わらずあの人を赦すことは出来ないけれど、決して胸の中に隠した刃を表出させず、耐え続けた。苦い酸がこの身を内側から浸蝕し崩れそうになっても、どうにか身を支えた。その点を評価してくれる存在が少しぐらいはあったっていい、そう思うぐらいの自愛も在ったっていいはずだった。冷たい掌は俺が温めてあげるから。

 車道から逸れて、一際急になった未舗装の僕道をえっちらおっちらと上がること五分、ぱっと視界が開け、平凡な山容が一望できる。ガードレールないからあんまそっち行くなよとぶどうの肩を後ろから抱いて、息が整うまでの少しだけ、のんびりと眺めた。この坂をもう一分も上がれば、母の実家である。

 歩とビス子、二人は、今はこの「おばあちゃんち」で暮らしている。

 呼鈴、こんな低かったっけなと思いながら、―ぶどうが押したいと言うので押させてやりながら―久方ぶりの母の実家の玄関前、何もかもが一回り小さく見える。祖母祖父の顔を見るのももちろん十六年ぶりである。同じ片倉姓を名乗って居ながら、義理に欠いたかなと思いつつも電話をしたら祖母は「いつでも来なさい」と言ってくれた。二十三歳の俺の祖母祖父であって、もう八十を軽く超えているが、二人とも近くに畑を持っていて、近在の叔父夫婦と四人で農家をやっている。

「お」

 玄関の戸が開くより先に、背後からかけられた声に振り向いたら、ビス子が居た。

 「おう」とぶどうが声を上げる。ビス子は金髪をひっつめに結んで、ジーンズにクリーム色のトレーナーを着て、手には古ぼけた籠を持って居る。これだけ見ると、農家に嫁いだ外国人の娘といった様子だが、居候である。

「意外と早かったねえ」

 紅い頬に、白い息を流しながら彼女は言った。

「歩、まだ学校から帰ってきてないよ」

「うん、まだ昼過ぎだしな。おばあさんたちは?」

「さっき農協に出かけた」

 そう言えば、記憶の中でいつも門の脇に停められていた白いワゴンが今日はない。

「お茶入れてあげるからさ、とりあえず上がって」

 ポケットから鍵を出して、玄関を開ける。もう立派にこの家の娘の顔で、ビス子は俺たちを家に招じ入れた。居間の座布団をすすめ、自分は隣の台所で慣れた手付きでお茶を淹れる。ぶどうはまだお茶の淹れ方を知らない。

「ちゃんと働いてるか?」

 しかしぶどうは兄の口調で訊く。もちろん、とちゃんと茶卓までつけて、ぶどう同様実年齢は二十七歳の少女はお茶を出す。

「お兄ちゃんこそ、一弥に迷惑ばっかかけてんじゃないの?」

「そんなことはない、俺様はちゃんとしてるよな。……な?」

「ああ、おにぎりを砂糖付けて握った時にはどうしようかと思ったけどな」

 余計なことは言わなくていいとむくれるが、ぶどうは久しぶりに会えた弟が、人間としてそれなりに様になる格好で生きているのを見て、安心したように目元が優しくなっている。

「こっちの生活はどう?」

 訊いたら「いいねえ」とすっぱり答える。

「おばあちゃんもおじいちゃんも、おじさんもおばさんもみんないい人。水も空気も綺麗だし、ご飯も美味しいしさ」

「いいものを食っているせいか。また胸がでかくなったんじゃないのか」

 お茶をふうふう冷ましながら、ぶどうは言う。どうもこの兄弟の間には、凡人には解けないほど絡み合った愛情があるようで、もちろんそれは肉の欲とは違うのだが、傍に居る俺としては時折どきりとする。

「そう、もうね、さすがにブラなしだと無理。見る?」

「見たくも無いわ。……見せなくていいってば」

 俺は庭の外へ視線をずらすばかり。

「一弥も見ていいのに」

 遠慮しておくと硬い声で返すのがやっと。砂糖菓子時代のビス子は傷付いた相手を癒すとき、しばしばある種の「愛する」やり方を選ぶことがあったとぶどうに聞かされたことがある。彼ら彼女らは身体の何処を舐めても甘い砂糖菓子であったが、一番甘そうに見えるところが何処かと問われれば、多くの男は「其処」だと答えるに違いない。実際俺も砂糖菓子ではなくなったぶどうの膚を舐める機会には、まあそれなりに恵まれている場所にいて、ついつい「其処」を舐めてしまう。そして、やっぱり甘い気がする。

「おお……、すげー、やらかい……」

「えへへ、いいでしょー。お兄ちゃんはもちろんだけどさ」

 トレーナーを直したビス子はうへへと笑って、

「一弥もさ、お兄ちゃんの惚れた相手だし歩のお兄ちゃんだし、家族同然、だから触ってくれたっていいのに」

「別にそんな価値のあるようなもんじゃないぞ」

 ぶどうはそんな憎まれ口を叩く。弟とは言え同世代の裸がすぐ側にあった彼を、うらやましいとは思わないまでも、何とも。

「まあ、のんびりして行きなよ。歩もおばあちゃんたちも、あなたたちに会えるの楽しみにしてたんだからね」

 うん、と頷きながら、景色が変わったことを受け容れるのに、しかしさほどの時間も掛からなかった。

 夜中にトイレに起きてきたら、母親が祖母祖父の前で泣き崩れていたのを見た家だ。父親が玄関先で土下座をした家だ。苦く塩辛い記憶の中に、ぶどうとビス子という、甘い二人が居る。

「お茶だけか。何か甘いもんないのか。ってか俺様は腹が減った」

「ああそうだ、おばあちゃんが昼ご飯にっておいなりさん作ってくれてたんだ」

「とっとと持ってこい」

 がっついて食べようとするから気管に入って七転八倒、騒がしいが、陽の光の届かぬ日にだって明るさを覚えた。

 俺は、相変わらず経済的に厳しい日々を生きている。自分ひとりでだって苦しい、その上に食い扶持が一つ増えているのである。それでもバランスを失わず、どうにかやって行けるのは、まさにその増えた食い扶持によるもので、その食い扶持は毎日のように仕事へ行く俺の帰りを、日長一日退屈に任せて古本を読んだりテレビを見たり、夕方になったら近所に散歩に出掛けたりなどして過ごして寂しさを溜め込み、帰ってくるなり飛びついてくる。素直に好きだと言わない半面、「俺様はすごくつまんなかったぞ」と、つまり俺が居るとこの子は楽しいのだ、……透けて見える言葉の裏を読んで、今にもっと一緒に居られるように、頑張るからと、俺の背中に一本筋を通すのだ。

「ぼろっちい家だな」

 昔は歩と一緒にこの部屋で寝たのだったか、あまり覚えていないが、二階の六畳に入るなり、ぶどうは率直にそう言った。

「うちより綺麗だろ」

 畳の上に布団を敷いて、ジーンズとセーターを脱いで入る。

 まだ二時、歩が帰ってくるのはいつも四時を廻るそうだし、祖父母が帰ってくるのも五時の予定だそうだ。ビス子は大きなポリタンクをぶら下げて出かけていった。近所に湧き水が出るところがあって、それで飯を炊くと味がまるで違うのだそうだが、「ごゆーう、うっくり」と妙なイントネーションで言って出て行った。

「寝るのか?」

 ぶどうが枕の脇に立って見下ろす。いつも休みの日には昼まで寝ているところ、今日は少し早起きをした。食事を済ませたらさすがに眠くなったのである。

「お前は眠くないのか?」

「うん。だって夕べは早く寝たからな」

 そうだった。仕事が遅くまであって、今朝は早起きだからと、諸々を省略して風呂に入ったらすぐ寝てしまったのである。少し唇を尖らせて言う辺り、昼間一杯寂しい思いをしたのに慰めてももらえなかったという不満の在ることは明らかだった。

 可愛いな、と思う。

 しかしそれ以上に「嬉しいな」と俺は思う。

 俺が感じているのは喜びとか幸福という言葉を使ってもいいのだけれど、一番には「嬉しい」という気持ちなのだろう。俺の生活の中にお前が居る、俺はお前が大好きで、お前も俺のことを好きで居てくれる、そのことがまず何よりも「嬉しい」。

「っお!」

 どん、と布団の俺に跨る。乗っかって、しかし何を言うわけでもない。じーっと蒼い眼で見下ろして、頑として言葉は俺の口に言わせる積り。

 休日には昼まで一緒の布団で寝る。それからぶどうの眼の届くところで掃除をし洗濯をしごろごろし、夕方頃には二人で買い物に行く。余裕があるときには、ぶどうの無聊を慰める材料を探しに古本屋へ行く。夜は早く寝るにしても、日付が変わるぎりぎりまでは起きて、恋人同士であるからして。

 今日は、まだそういうこと全然ねーじゃんか。

 ぶどうがそういうことを言いたいのは判っている。

 夜だって、ひとんちでそういうことできんのかよ。

 ぶどうが、そう言いたいのを判っている。

「一緒に寝ると温かいぞ」

 言ってやると、少し探るように眼を覗き込む。布団をちらりと捲って、

「お前もおいでよ」

 少し迷ってから、七分丈と靴下を脱いで入って来た。

 互いの膝が、少し冷たい。

「……さみーから、くっつけ」

 ぶどうが唇を尖らせたまま言う。仰せのままにと、しっかり抱き締めた。

「お前は温かいなあ……、子供はやっぱり温かいもんなのかな」

「子供って言うな!」

 他愛もない会話をして居るだけで、だらしなく溢れて仕方なくなる微笑。

 秒針の進むのが妙に早く感じられてしまうような、切ないほどの期待。

 一方で同居する、一度重ねた膚を二度と離したくはない、―この人が居なくなってしまったらどうしよう―不安、恐怖。重ねて生じる力で廻る歯車が恋心。

 もう、許可を得ずにキスをする。ぶどうの目は自然と閉じられる。寒くないようにと背に布団を負ったまま、その身を敷いて、重ねるばかりのキスを幾つも。やがてぶどうが挑発するように俺の唇を舐めてくる。耳朶を、少し、指で弾いた。甘くはないはずの人間の口の中が、しかしその舌下から蜂蜜でも分泌されているかのように、俺の舌はじわりと痺れる。

「……まだ、寒いか?」

 ぶどうの眼は、ほんの少し潤んでいる。丸裸の表情、……こんなとき、お互いあまりにも純情で、やはり傍から見たら実年齢よりも若く、幼く見えてしまうかもしれない。ぶどうはこれに近い真似事をビス子と少ししていた以外には俺だけだし、俺もこの年までぶどう以外の相手を知らないし、誰かとすることがあるとも思っていなかったから、照れ臭さを隠す為には必要以上の生真面目さが欠かせない。

「……寒ィよ」

 ぎゅ、とくっつく、ぶどうの頬は紅い。元々は幼い俺の名付けた「ぶどうのおばけ」、顔色の表に出ない色をして居たけれど、今は表情の一つひとつに伴って描かれる彩りが、くっきりと判る。

「だからもっと、ぎゅっと、しろ」

 唇尖らせて偉そうに言うときの頬っぺたがそんなに紅かったらダメだよな。

 こうして膚をくっつけ合っているだけでも、どきどきする。それなのにこれ以上、もっと深いところまで触りあってくっつけ合って擦り合って、「好き」って言う。こんなに幸せになっていいのだろうかと、怖くなる瞬間のいくつかを経て、また、俺たちは愛し合う。時に頭の冷える瞬間が在るからこそ、あったかいのが心地よい。俺の指をぎゅっと握って、「好きだ」と言ってくれたとき、俺の居る世界をぶどうが塗り替えてゆく。

 寂しさを分け合うことで、慰めて慰められて。それから、もう随分蒸し暑くなった布団の中でぶどうを抱き締めて昼寝をした。目を閉じても夢、目を開けても夢、失ったものを全て手にして、俺の体温を欲しがる命は目を開けても消えることは無い。涙で塞がれた暗い闇の中で伸ばした手を、しっかりとぶどうが握る。

 そんなときのぶどうが、やっぱり少しだけ年上に見えることもある。

 二時間ほどして、自然と目が醒めた。階下でビス子と歩の話す声が聴こえてきたのだ。

「お兄ちゃんたちは?」

「寝てるよー、上でゆーう、うっくり」

「なにそれ」

 そろそろ起きようか、おばあさんたちも帰ってくる頃だ。しっかりと俺の右腕に実ったぶどうは、天使のようでもっと「イイモノ」の寝顔を俺に見せてくれる。すうすうと、心地良さげにどんな夢を見る?

 ただ、じっと見ていたら、その視線がくすぐったく感じられただろうか、

「んー……」

 瞼がぴくり、眉間に皺が寄って、ゆっくりと目を開ける。「んお……、寝ちゃった……」

 ごしごしとちょっと乱暴に目を擦って、大あくび。

「今……、何時だ?」

「四時半だな、歩が帰ってきた」

 そっか、と起き上がって、パンツ脱いだまま、

「……おい俺様のパンツ何処だ」

「知らないよ、自分で脱いだんだろう」

 探す途中で一度くしゃみ。

「お前、ちゃんと俺様のことをぎゅーっとしてただろうな?」

「してたけど、尻丸出しで寝てるのまでは面倒見切れないからな」

 まだパンツが見付からない。大方この布団の中のどこかに埋もれているのだろう。触れた肩は少し冷えていた。「下行かなくていいのか」と訊いたぶどうの耳に、もう少しゆう、うっくりしてて大丈夫だと応える。温めてからでも十分だ。

 俺の胡坐の中に、少し大きいけれどちゃんと、収まる体を支えて見上げて「……なんだ?」、視線を返すぶどうに、言葉も無く微笑んだ。

「今日は久しぶりに風呂に入れるぞ」

 アパートは言うまでも無くユニットバスなので、浴槽に湯を溜めることは稀なのだ。

「一緒に、入ろうな」

「当たり前だ」

 偉そうに言う、が、一人で風呂に入れないだけのことだ。

「隅々まで、洗ってやるから」

 俺の掌は十分に仕事を果たして、ぶどうの身体を温めた。その手を外して、でも、そのまま背中に廻した。未発達な筋肉、細い腰、確かめて撫ぜて、つい魔が差した、シャツを捲って、

「ンぁん!」

 乳首にキスをした。

「んなっ、に……、してんだよ……」

 ぐ、と頭を押さえて身を捩るが本気ではない、ぐずぐずに濡れてはすぐ破れてしまう意地が、まだ張れる形で残っている内に張っておこうというだけのことだ。

「ちょっとだけ……、な」

「あア……?」

「うん……、お前の、こと、好きだから」

 馬鹿、と言われた。くすぐったいからやめろと、叩かれた頭がくすぐったい。

 抗いはすぐ止む。ぎゅうと俺の頭を抱いて、「馬鹿者」と呟く。叩いたところはくしゅくしゅと慰めるように撫ぜられる。

 舌先でぴくん、その身が震えた。

 何んて可愛い子だろう。

 何んて甘い子だろう。

 俺よりも色白の肌、細い首筋に小さな耳朶、キスして、言葉落として、

「んな、舐めんな、ばか……」

 もうくすぐったがることはない。

「だって、すごい、甘い」

「え……?」

「お前が、すごく、……甘い」

 何処も彼処も、……恐らく、俺の舌だけがそう感じる。ぶどうの体がまた、ぴくんと震える、ビス子も歩も上がって来ないことに感謝しながら、再びぶどうの身を横たえた。

「一弥……」

 伸ばした手を、握る。「……『ちょっとだけ』じゃないのかよ」、ぶすっと言うが、俺の唇を撫ぜる手は止めなかった。そのまま優しい馨りの胸に頬を当てる。

「好きだよ」

 鼓動を訊きながら。

「好きだよ……、大好きだよ」

 少年の掌が俺の耳を塞ぎ、声には出さず息だけで「俺様も、好きだぞ」、言ったのをちゃんと聞く。訊き返したらもう言ってくれないから、耳に残る響きを大事に味わっていたら、指先が耳の中に入って来た。

「馬鹿者」

 まだ、ぶどうはパンツを穿いていない。俺の膝の上に乗ったまま、少し紅くなって、ぶっつりと言う。

「歩、帰って来てんだろ、……聞かれたらどうすんだ」

「お前がでかい声出さなきゃ、多分大丈夫」

「……でかい声出るようなことすんのかよ」

「お前がして欲しいなら、俺は幾らだってするよ」

 幼く甘く、敏感な身体、何処よりも素直なその端部を隠すように俺に胸を重ねると、瑞々しい鼓動はダイレクトに響く。

 甘い、と思う。

 「ぶどうのおばけ」ではなくなったけれど、間違いなく、甘いと思う。それはこの感情が? この関係が? 全てひっくるめて、俺には、何処までも何処までも、虫歯になるくらい甘い。

「……声……」

 俺の肩に顔を埋めたまま、ぶどうが呟くように言う。

「ん?」

「……声、出さない」

「出さない?」

「俺様、声、出さない、……ようにするから、ちゃんと、我慢、するから」

 言葉とは裏腹に、ちっとも我慢出来ていないし、そもそもこの子に我慢を強いるようなことは俺には出来ない。

「大丈夫だよ……、ビス子も歩も、そんな無粋な真似はしないさ。お前の弟と俺の弟だよ?」

 真ッ赤になったぶどうはこっくりと頷くと、俺の腕にしたがってすんなりシャツを脱ぎ、俺の腕の中、この上ない安定感で納まる。

 俺の、愛しい愛しい、甘い身体、甘い心。

 胸が疼き、舌が鳴く。ぶどうの目がそう訴える。身体の内側でむずむずと、数分後へのイマジネーションが膨む。

 髪を嗅いだ。

 春の匂いがする。

 額に口付けた。

 花の味がする。

「愛してるよ」

 と言ったら、言葉の代わりにまずキスが来た。相変わらず、この子の唇は、舌は、何て甘い。

「……あい、して、る」

 甘えるように俺の肩に額を当てて、ぶどうが言った。お前が傍に居てくれるだけで俺の口の中まで、この舌まで、こんなに甘くなってしまうのだと、教えるためにキスをした。

 


ありがとうございました。