13

 今日は本当にありがとうございました、副店長に向けてそうお辞儀させられて、俺様としては尖りそうになる下唇や視線があるのだけれど、一弥のために全部堪えるくらいは出来る。

「本名、アルフレッドっていうんだなあ。ずっと……」

「……大体お前が『ぶどうのおばけ』などと呼ぶからだな、久一……、俺様を作った奴だが、久一やビス子が面白がってだな」

「嫌だったら、さっきみたいに『アル』って呼ぼうか?」

「……お前の呼びやすいように呼べばいいだろ」

 結局俺様は「ぶどうのおばけ」なのだった。もうぶどうの色もしていないしおばけ的存在でもないけれど、そう呼ばれることは甘んじて受け容れよう。

 ところで店を出た一弥は俺様を連れて、駅とは反対方向へ商店街を歩いている。途中で、和菓子屋に寄って煎餅を買って、

「おばあちゃんのところへ謝りに行くよ」

 家を知ってるのかと訊いたら、これまで何度か、買い物のお荷物が多いようなときに運んで差し上げたんだと言う。

「勤務時間中に持ち場離れる訳には行かないから、今日みたいに早番で上がれるときだけな」

 あの副店長のような者はいい顔をしないだろうが、一人暮らしの老人からすればそんなに助かる話もないだろう。対価に金品を受け取っていないことは一弥の性格を想像すれば明らかである。

「手塚」と表札の掛けられた、豪邸とまでは言い過ぎだが、都区部にこれだけの土地と家を持っていればそれは大層なことだと言ってしまっていい。木の塀もその向こうに見える家も年季が入っているが、立地を考えれば相当なものである。独居老人には広すぎる家とも見えるし、息子夫婦たちが欲に駆られてしまうのも無理はない。

 門扉脇の呼鈴を一弥は少し緊張した面持ちで押した。

 どなた? と少し古くなったインターフォンのスピーカーから、手塚ちよの声がする。

「片倉でございます」

 それだけで一弥だと判じたらしい彼女は、開いてるから入りなさいと答える。門扉を開け、玄関の引き戸を空ける。俺様の鼻に届いたのは、家の奥からの静かな線香の匂いだった。手塚老人はなんだか可愛らしいエプロンなんか腰に巻いて、手を拭きながら台所から出てくる。

「ちょうど良かったわ、近所のおばあちゃんからお寿司頂いちゃってね、一人じゃ持て余すから、あんたたち食べてって頂戴よ」

「いえ、あの……」

 唐突なことに、煎餅を差し出す形に胸に抱いている一弥がぽかんと困惑する。

「寿司?」

 一弥がもう一年以上食べていない種類の食べ物である。もちろん俺様は生まれてから一度も口にしたことがない訳だが、それがこの国の人間たちにとってご馳走であることは知っている。

「そう、お寿司。あんたも上がっていきなさい」

「うん! ……一弥」

 好意は甘んじて受けておくに限る。俺様は人に好意を与える側だったから、それをよく知っている。一弥は少しばかり俺様を睨んだが、やがて諦めたように「お邪魔します」と靴を脱いだ。居間に通されて、すぐにお茶と、握り寿司というんだこれは、白くて酸っぱい飯の上に魚の切ったのが乗せられて並んでる。どう見たって三人前はある寿司桶で、

「なんだかね、弟さんだか姪御さんだか忘れちゃったけど、来る予定の人が急に来られないようになっちゃったらしくってね。だから薬のおつかいのお返しにってくれたんだよ。でも多すぎるよねえ」

 早速いただきますと伸ばしかけた俺様の手を、テーブルの下、一弥は押さえる。

「あの……、実はですね、先ほどのお詫びに伺ったんです」

 一弥は手にしていた煎餅を、ようやく差し出す。

「せっかくお買い物に来て頂いたのに、ご無礼を致しました」

 お前も、と小さく言われて、俺様も仕方なく頭を下げた。このばーちゃんがそんなん気にしていないってことも判んないのかなあ。いや、一弥はそこまで愚鈍ではない。ただこれは一つの作法だと思っているに違いないし、手塚のばーちゃんも俺様も、こいつのこういうところは好きだ。

「そうだったのかい。わざわざ……、すまないねえ」

 手塚老人は、皺の目許を綻ばせて、

「じゃあ、お寿司食べ終わったらまたお茶入れて、このお煎餅も頂こうかね」

 優しい人たちの心の通った会話を聞くのは、気分のいいものだった。

 す、と手塚老人は眼鏡をかけていない両眼でやっと顔を上げた一弥を見詰める。手許を見るときには老眼鏡が必要だが、これぐらいの距離ならば問題がないのだ。

「心臓が、悪いのかい」

「……ええ、はい。恐らくたいしたことは無いのですが」

「心臓が悪くてたいしたこと無いってこたあないだろ」

 ふう、お茶を啜った手塚老人は、湯呑茶碗の中に視線を落として、

「うちのおじいさんもねえ、心臓が悪くって亡くなったの」

 不意に、寂しい声を出した。

「若い頃から病気がちな人だったんだけどねえ……、それでも鍵野産業を定年まで勤め上げて……」

 俺様も名前を知ってる一流商社だ。なるほど、と立派な家を見て、俺様は不動産鑑定士でもないくせにそう思う。「定年してから、心臓がちょっとずつおかしくなってね。動悸がしたり、眩暈がしたりするんだよ」

 切なそうに彼女は言う。

「動悸がして苦しくっても、あの人は何にも言わなくってねえ……」

 まだ一年経ってないんだよ、と手塚老人はしんみりした口調でそこまで言って、顔を上げる。強い視線を、一弥に送る。

「そのまんまにしといちゃいけないよ、若いうちは体力があるからいいだろうけど、だんだんしんどくなってくるんだから。……うちのひとがお世話になた心臓の先生を紹介したげるから、一度ちゃんと診てもらったほうがいいよ」

 びく、と一弥が身を強張らせた。「いえ……、でも、あの」

 口篭もる一弥に代わって、「ダメだよコイツ、病院行くような金持ってねーんだもん」

 いて、……尻をつねるな!

「そんなもん、どうして気にするかね」

 手塚老人は、あははと笑って、

「面倒は見させてもらうよ」

 当たり前のような顔をしてそう言った。「は? ……は?」

 一弥は二度訊きした。

「当然、しっかりしたお医者さんだからね、あんたみたいな若い子がおいそれとかかれるような病院じゃあないんだ。だからね、あたしが代わりに出してあげるよ」

「いあ、いや、あの、でも、それは」

「年末にねえ、長男夫婦のところに引っ越すんだよ」

 手塚老人はまた寂しそうな顔になる。「なんだか、えらい高いマンション。あたしは住み慣れたこの家にずっと居たいんだけどね、どうもそうはさせてもらえないらしい。だから思い切ってこの家は処分する。……ここだけの話ね」

 と、手塚老人はあたりを憚るように声を潜めて「長男の嫁はね、あたしに早く死んで欲しくて仕方ないのさ。あたしが死ねばこの家も土地も長男のもんになるからね。でもあたし、癪だからさ、おじいさんとの思い出が詰まったこの家を、あんな嫁に好き放題されちゃあかなわない、それなら先手を打って、あたしが生きてるうちに売っぱらっちまった方がいい」

 そこまで言って、彼女は悪戯っぽく笑った。

「だからね、まとまったお金が入ってくるわけなの。だけど、どうせね、あたしももう後何年生きられるか判らないし、持ってたってしょうがないお金でしょ。子供たちもとっくの昔に独立して、自分らだけでやっていけるぐらいのお金もあるし、これまで碌にこの家に帰って来もしなかったんだから」

 だからねえ、と少女のように目をきらきらさせて身を乗り出す手塚ちよの顔には、くっきりと生気が漲っている。若い頃はきっと愛らしいお嬢さんだったんだろうと俺様にも想像出来た。

「あんたはいっつもね、あたしみたいな年寄りのために重い荷物を届けてくれたり、お店ではおしゃべりにつきあってくれたりねえ、本当に、最近ちょっと居ないようないい子だよ。いつかお返ししなきゃって思っててさ」

「いえ、あの、でも、その、え」

 一弥は情けないくらいしどろもどろである。ずいぶん長いこと「いい子」だなんて言われていなかったのだから面食らっている。

「だからさ、あんたの病院のお金、あたしに出させて貰えないかね」

 ぽかぁん、と口を空けて間抜け面を晒す一弥に代わって、俺様が訊いた。

「そんなことして……、いいのかよ、家族の人にばれたりしたら」

「なに、そんなの構わないさね、文句は言わせないよ」

 ぴしゃ、と宙をぶって手塚老人は言った。一弥はまだ言葉も無い、ただ時折ぱくりぱくりと空気の泡を吐き出す金魚のようだった。手塚老人はよいしょと立ち上がると、メモと手帳とボールペンを持って来て、老眼鏡をかけるとメモになにやら電話番号を書き写す。

「ここのね、坂木さんっていう先生に電話して、予約しなさい。ちょっと遠いけど、ちゃんとしっかりした病院で、出来た先生だから。本当にお金のことは心配しなくていいんだからね、あたしの名前出して、ツケといてもらいな」

 医療費をツケで払って良いものかどうかは俺様には判断出来かねるが―いっそ頬っぺたでもつねってやれば、これが現実だと理解するだろうか―一弥はまだ心ここに在らずといった風情で、焦点の今ひとつ、いや、今ふたつぐらい合わない眼をして、言われなければいつまでも口を開けたままだろう。

「……一弥」

「は。……は、はい」

「休みの日にさ、いつでもいいから、行ってごらん。診てもらうだけでもいいからさ」

「はあ……」

 片倉一弥は自らの体の不調によって起こした非礼を詫びに来たはずである。

 それが、目の前には握り寿司が並んでいて、当人の大きな不安の種までもが、解消されようとしている。俺様は隣で、そろそろ正座がしんどくなりながら、呆然としたくもなる一弥の気も理解する一方で、これが本当だという気もしている。だって、お前はいいやつだ。悩まんでいいようなことにずっと悩まされて生きてきた、それでも誰かを傷つけたりしないで、苦い思いを封じ込めてずっと一人で泣いてきた。

 これぐらい、あったっていい。

 そして俺様は、隣でそれを見ていたいのだ。

「さあ、じゃあ、いただこうかね。あたしはちょっとつまむだけでいいから、あんたたち若いんだから、たくさん食べなさい」

 小皿に醤油が注がれて、晩餐と呼ぶにはまだ早い、おやつと言うには豪勢過ぎる、奇妙且つ幸福な食事が始まった。生魚の陰に隠れていたわさびが辛くて辛くて、鼻がちぎれて眼が飛び出るかと思った以外、俺様は大変に美味しく生涯初の寿司を頂いた。人間の食事も悪くない。これは後になって思うことであるが、いきなりニンジンとセロリとブロッコリーを食べさせられていたら、俺様は人間であることをやめたくなったに違いない。

 帰り道の一弥は、まるで雲の道を歩いているようだった。本当に自分の頬っぺたをつねって、痛いことさえ夢の中のような顔をしている。俺様のシャツその他衣類を買って帰る予定だったのに、駅でまた混雑した電車に乗ってからそれを思い出すような体たらく。

 俺様はもうさほど怖いとは思わなかったが、電車の中で一弥の手を握った。なまあったかくって、ちょっと汗ばんでいる。右の中指がちょっと深爪ぎみだ。親指の腹は段ボールの縁で切ったか、傷がある。

 もう、心臓のことは怖がらなくてもいい。いや、仮に何か怖い病気だったとしても、それはちゃんとした診察を受けて、治療をすればいい。いつ死ぬのかと恐れおののく必要はもうないのだ。俺様は一弥の手首に指を当てる。ようやく普段の表情に戻って、彼は俺様を見下ろす。しずかに、たしかに、とくん、とくん、鳴るメロディ。

 電車を降りても、手は離さなかった。アパートまでの道すがら、

「天使みたいだな、お前は」

 唐突にそんなことを言った。

「あ?」

「……幸せを……、考えられないくらい大きな幸せを……、お前は、運んできた」

 そして、

「お前そのものが……、側に居てくれるだけで、また会えたっていうそれだけで、こんなに嬉しいのに」

 言う。

 俺様は、

「天使どころか、もっといいもんだ」

 と答えた。

 心臓の問題が解決すれば、父親の元へ帰る必要は無い。生活の苦しいことはまるで改善されない、むしろ食い扶持一つ増えるのだからより逼迫もするが、彼自身はそれをまるで恐れていない、そればかりか、その食い扶持即ち俺様によって、かえって心の背筋を伸ばしているようにも見える。

「今日という日を……、俺は忘れないだろうなあ、ずうっと……」

 家に帰って、俺様にも手洗いうがいをさせて、薄汚く散らかった部屋の端っこに座って言う。俺様はその隣に胡坐をかく。

 俺様としても、こんな風な顔を見せてくれるのであれば、来て良かったと思うのだ。俺様は確かにこの男を救ったぞ、とビス子に胸を張って言える気がする。そして、ビス子と久一に、心から有難うと言いたい。

 まだ七時にもなっていないが、腹も膨れた、気も満ちた、足りぬものが無いような気さえする。

「……お前が来てくれたから」

「そうとしか思えない気持ちも判るけど、そうじゃない」

「俺はそう思いたいな。……そう、思ってもいいだろ?」

「まあ、お前の勝手にすればいいさ」

 優しい目をした一弥は、俺様の肩ではなくて頭に手を置いた。子供扱いは面白くないが、この体では仕方が無い。耳が丸くなり尾も角も消え肌は人間的な色になってしまったが、久一曰く淫らなこの髪と眉の色ばかりは昨日と変わらない。一弥はその触り心地さえいまだ甘いというように飽かず何度も撫ぜるのだった。俺様はちょっとした欲に駆られて、その太腿の上に手を載せて、一弥の頬にキスをしてみた。ちょっとびっくりしたみたい、だけど、照れ臭そうに笑って、でも精一杯格好つけて、「好きだよ」と言った。格好をつければそれなりにつくもので、それはある程度元が良いからだと言い張りたい。

「俺様は、恋人か?」

 問いに、うん、一弥はあっさりと頷いた、そうだといいな、と。

「んーじゃあ、ちゃんと告れ」

「お前が好きです、俺と付き合ってください」

「そんなあっさり言うな」

 掌で頬を撫ぜる。さほど髭の濃いほうではなくて、一応毎朝剃って出て、夕方になっても顎や鼻下に陰はない。細くさっぱりした顔の、眼の下の隈が消えてしまえば本当にもてるに違いない。

「お前は?」

「あん?」

「お前の返事は?」

 人間になってしまえば何の甘味もない、しかし一弥は甘いと笑う。

「……言ったじゃねえか、夕べ。もう忘れたのかよ」

「もちろん覚えてる。これまで生きてきた中でいちばん嬉しい言葉だった」

「じゃあ二番は言わねー」

 一弥は俺様を膝の上に乗せる。そこまで子供じゃねえと、素直に乗っかってから壁と俺様で挟んで苦しめる。笑いながら一弥は俺様の背中に手を回して抱き上げると、そのまま布団まで連れて行った。

「……こういうときって、人間は風呂とか浴びてからが普通なんだろ」

 人間の身体である、砂糖菓子よりもずっと汚れているはずだ。

「気にしないよ、だってお前、良い匂いだ」

「……そうかあ……?」

 長い髪の毛を後ろから掬って散らす。二回そうされて、三回目は首筋にキスが来た。実際、俺様の鼻にも一弥の体臭は届くけれど、決して不快なものではないのだ。もう、苦くも感じられない。

 また、キス。今度は唇と唇、重ね合わせて、互いどちらからするべきか思案した挙句に、同時に舌を出す。

「すんの?」

 そのつもりで居ながら、俺様は訊く。

「お前は? したくない?」

 したいのである。だって、恋人になりたてなんだ、まだ何処を触ったってやけどしそうに熱く感じる互いの身体なんだ。

「お前はしたいのかよ」

 何を愚図愚図しているのだ馬鹿者どもと、ツッコミを入れられたいのである。だってそれでうへへってニヤニヤ笑えば、益々もって俺様たちは、実態以上の幸せに触れることになる。

「したいな」

 一弥が素直になる。「お前は?」そうなると、俺様ばかり嘘もつけない。「してーよ」と、尖った歯を見せて笑った、一弥も笑った。俺様の微笑みは子供のそれで、一弥は大人っぽい、そんな差違が少々気に食わないでもないが、俺様の体が人間として時を刻み大人になるまではしばらくこんな風に凹凸だろう。

「ったく、男のガキの身体に欲情してんじゃねーよ」

「しょうがないだろ、たまたまそういう相手が好きだった」

「変態め」

「実際は俺より年上だろ?」

 言葉のたびにキスをしてくる一弥を認めてしまう俺様の甘さと来たら何だこれ。だけど不思議と楽しい、恋をして、これがいつしか生活の中に組み込まれ、日常になる、苦しく貧しい日々の潤いとなる、そんなことを想像すると、確かに心は浮き立って顔にはどんなに努めても微笑が浮かんできてしまう。

 多分、俺様は素直な方じゃない。

 だから、お前みたいに気安く「好き」だなんて言ってやらない。

 そんなお前でも好きだよとお前が言うのを、見越して俺様は思う。

「まあ……、すんのはいいんだけどさ」

 俺様は、ぐしゅ、と一弥の髪の中に指を入れる。「もうちょっと後にしないか?」

 一弥は首を傾げて「どうして?」と訊く、……客が来るだろうから、と俺様が言うより先に、呼鈴が部屋に鳴った。

「ほら」

 む、と一弥があからさまに不満そうな顔をするのが滑稽だった。

「誰だ、こんな時間に……」

「つってもまだ七時廻ったとこだろ」

 少し乱れた髪を直して、一弥が玄関に向かう。招かれざる客、そう言ってしまっていいかは判らないが、俺様にはちゃんと、来ることが判っていた。もちろん、知っていたわけではないけれど、察しがつくというやつだ、考えることの六割ぐらいは把握できているつもり。

「歩……!」

 一弥が玄関先で立ち尽くす。俺様は、館町歩、即ち一弥の弟が、一弥の裡で見たものよりもずっと愛らしい顔をしていたことを知る。一弥のように白い膚、白い顔、しかしもう少し健康的な色をしてはいる。そして、俺様より肉体的には年上のはずなのに、俺様よりちっこい。背を伸ばす遺伝子は兄にばかり行ってしまったようだ。

「……携帯、出てくれないから……、来ちゃった」

「来ちゃったって、お前……、ここの住所だって知らないだろう」

 ごめんなさいっ、と歩が一弥に頭を下げる。一弥の背中の温度が、少し下がったように見えた俺様は立ち上がり、ぽんとその腰を軽く叩く。

「お前が連れてきたんだろう?」

 ドアの陰に隠れていても俺様には判る。

 ちぇ、と唇を尖らせて、ビス子はひょこっと現れた。

「いつまでもウジウジ悩んでても始まんないって思ったからさ。あたしのやり方で行かせたのさー」

 角は消えた、尻尾も無い、穿いているのは恐らく館町歩のものであろうデニムの五分丈、細く長い足がにゅっと伸びて、裸足にスニーカー、……彼女は俺様を見て、ぶっ、と噴き出した。

「うっわ変な色!」

「うるさい黙れ!」

「ぶどうのおばけがぶどうじゃなくなっちゃったねえ」

「黙れと言っている!」

 弟の目は、潤んでいた。俺様も、一緒だ。

「兄君、殺してくれてありがとねん」

 首に纏わり付いて、ビス子が言う。お互いもう甘い匂いはしないけれど、そしてほんの一日しか空白はないのだけれど、温かさが同じで、余りにも懐かしい。恨んでいるか。言いっこなしだよ。ビス子はもう一度、今度は真面目な声で「ありがとう」と言う。

 一弥は、頭を下げた弟に、何と言えばいいのか判らずまだ呆然と立ち尽くしている。

「……もう、僕、お兄ちゃんに『帰ってきて』なんて言わない」

 顔を上げた歩は、きっぱりとそう言った。

「ずっと、謝ろうって思ってて、でも、……それ以上に、自分の寂しさに負けて、わがまま言ってた」

 一弥は弟を憎んだことなど無い。ただ、傷つけてしまう恐ろしさに立ち竦んでいただけだ。耐え得ない自我を責めることで、尚更彼は傷付いた。しかし、二十四歳の彼にはやはり、父を許すことは出来なかった。それが五年十年経ったときに姿を変えるかもしれなくとも、今は。

 一弥はすっと自分の顔を撫ぜて、やっとのことで、言った。

「……お前も、苦労してるんだろうな」

 溜め息を飲み込みながら、

「お前のところに、その子が行ったってことは、そんだけお前も苦しんだんだよな」

 一弥は、搾り出すように。

「……大丈夫か?」

 ぼうっと、歩は兄を見詰めていたが、慌てたように頷いた。

「ビス子が、来てくれて、……ずっと楽になったし……、僕、高校、黒磯のおばあちゃんのおうちに越すことにした、ビス子も一緒に」

 黒磯? 誰? と訊いた俺様に、歩と一弥のお母さんの方のおばーちゃん、とビス子が教えてくれる。

「今日、電話で事情話したら、ビス子も一緒に来ていいって言ってもらえたから」

「黒磯の……、って、そんな遠く……」

「高校も、向こうのを受けるよ。お母さんにも、ちゃんとそう言ったよ」

 これまでの一弥なら、ここで自責の念に駆られるところだろう。

 ただ、俺様がぽんとその尻を叩くと、兄は「そうか」と頷く。

「……苦労、させたくなかった、お前には」

「だけど、お兄ちゃんは僕よりももっともっと苦労したんだもん」

「あの人は……、母さんに酷いことはしていないか」

「うん、大丈夫だよ」

 一弥の心の中を覗いた俺様は、この兄弟がこうして顔を合わせて会うこと自体、もうずいぶん久しぶりだということを知っている。何ともいえない距離感のあることは否定しがたいが、通い合うものがあることもまた。兄であり、弟である俺様とビス子には判る。

「まあ、あたしがついてるからね、歩のことはそんなに心配しなくてもよいよ」

 ビス子が決して安っぽくなく請合う。

「お金のことは……、まあ、なんだ、その、あたしが居ちゃうと単純に倍かかっちゃうことになるけど、どうにかするよ。久一、……あたしとお兄ちゃんのこと創った人だけど、そいつだって放りっぱなしの押し付けっぱなしじゃないと思うし」

「……あいつがそこまで面倒見良いだろうか」

「それは……、まあ、多分大丈夫だと思うけど」

 このビス子の予想は当たった。数日後、この部屋と「黒磯のおばあちゃん」の家に、差出人「神様」の現金書留が届く、決して安からぬ額が封入されていた。

 「だって」から始まる手紙が同封されていた。「死ぬって言っとかないと、君らは平気で俺の傍から居なくなっちゃってたでしょ?」と。……ただまだ、それは少しく先の話。今はとりあえず、兄と弟の間に横たわっていた溝が少し狭まったことだけを俺様は知り、あれだけ鋭利な金属に溢れていた一弥の心の中が、嘘のようにすっきりと片付いて居るのを外側から見るばかり。

 そして、心底から喜ぶばかり。

 一弥は、言った。

「……時々、遊びに来いよ。あんまりたいしたことはしてやれないけど」

 こっくり、涙目の歩は頷いた。「兄君」「何だ」「ちょっとあっちを向いて居ようではないか」「ん、何で?」「いいから」何でだ。

「あたしも、時々遊びに来るよ」

 ビス子は俺様の、もう尖っていない耳に言う。もういいだろうか、と振り向くと、声を殺して泣く弟のことを抱き締めて、一弥は俺様にするほど優しくその髪を撫ぜているところだった。それは高校時代、まだ幼い弟のために毎日のようにアルバイトに出ていた兄の顔で、だから見んなって」ぐいと引っ張られて、俺様は仕方なく頷いた。

「まあ……、こんな狭苦しいとこだけど、お前が来たけりゃ来ればいい」

「……狭苦しいとこで悪かったな」

「お」

 ぐいと頭を押さえる一弥は、また俺様の馴染んだ顔になっていた。

「じゃあ……、ビス子、本当に、歩を宜しくお願いします」

「あい。こちらこそ、お兄ちゃんのことを宜しくね。わがまま全部聞いたりしなくていいんだからね?」

 面倒を見るのは俺様のほうだと、ぶつっと唇を尖らせて俺様は呟く。ただ一弥は、「聞ける限り、全部聞きたいよ」と臆面なく言った。俺様の恋人はどうやら大変な恥知らずの模様である。

 したら、んじゃね、ばいばい、さようなら、弟たちは帰って行き、兄二人はやれやれとドアを閉める。もう本当に、足りぬものは何も無い、一弥にぎゅうと抱き締められて、窮屈だと怒ったふりをするのも面倒になって、俺様も力いっぱい抱きつき返した。

「よかったな」

 俺様の言葉に、ただ頷く。

 最良の一日、そしてここから始まる彼の日々に立ち会う俺様は、もったいないくらいに幸せである。

「したら、しようか」

 今度は俺様から、素直に言った。訊き返した一弥に、

「せっかくだから風呂に入ろう。俺様は一人で風呂になんて入ったことないからな、お前に洗ってもらわなきゃなんない。体の隅々まで綺麗にしろ」

 そして愛せ。

 俺様が言ったら、

「うおあ!」

 一弥はひょいと俺様を抱き上げて、そのままユニットバスへと運ぶ。ひょいひょいと、俺様はシャツもズボンもパンツまでも、……一弥のものだ、だから大層ぶかぶかなのであって、あっさりと脱がされてしまう。

「ちょ、っ、ちょっと、ちょまっ、ちょっ……、待てっ、馬鹿者っ、ばかっ」

 一弥はまだジーンズやシャツはもちろん、靴下だって脱いでいないまま、濡れた浴槽の中に立つ。丸裸にされた俺様のことを、にやにやと、しかし性質として少しも悪いところの無い笑みを浮かべて、見詰める。

「ぶどうは、アレだな、……すごく、スタイルがいいよな」

「何……」

「手足長いし、華奢じゃないんだけど細くて、……顔も小さいし、身体全体がすごく、びっくりするぐらい綺麗に見える」

 真面目な声でそんな事を言うのだ。水滴で靴下を濡らしながら、そんなことを今どうしても言わなければいけないわけでもないだろうに。

 しかし一弥が言ったなら、俺様には言わなきゃいけないことが出来てしまう。「俺、様も……」言葉の尻尾が一弥のシャツに生えているので、それを掴む。

「……お前、は、……かっこいいと、思う、ぞ」

 どこにでも居る男、確かに顔の造りは悪くないけれど。

 しかしそんな男の顔が今はもう、俺様としてはきらきら光ってすら見える。最初あれほど不健康そうな印象だった顔は、この一日足らずで明らかに美しくなった。

 俺様のおかげだ、俺様が身体を張って命を懸けて、この男を愛したからだ。

 ……俺様が愛するから、この男は美しく見えるのだ。

「お前だけがそう言ってくれればいいよ」

 一弥はごしゅごしゅと俺様の髪を撫ぜた。

「お前は……」

「うん」

「さっき、言ったな。俺様のわがままを、聞ける限り全部聞きたいって」

「ああ、うん、言ったよ。掛け値なしにほんとの気持ちだ」

「したら……、あの、アレだ、お前、俺様のことぎゅってしろ」

 喜んで、と少しおどけて言った一弥の顔に俺様は正直足元が危うくなった。それを支えるように、一弥が俺様の身体を両腕で、しっかりと、がっちりと、抱き締める。男の腕男の胸であっても細身の一弥のその場所はほんの少し窮屈で多分夏場は暑苦しいのだ。

 だけど、何処にも行かなくてもいい場所だ。

 何処にも行きたくないと、思える場所だ。

 何度も何度も一弥の言う「大好き」が、俺様には全て何よりも重たい本当の響きを持って、心に載る、載る、載る。

「キス、したい」

 俺様の言葉に応じて、一弥は俺様と唇を重ねた。一弥の唇がひんやり感じられたということは、それだけ俺様の唇がぼうっと熱を持っていることを意味するだろう。我慢できなくて口を開けて、酸素と舌を求めたら、それにも一弥はすぐ応える。

 腕の力が緩められて、解放されたときはもう、体中何処も彼処も腫れぼったくて、ふらふらする、目が廻る、喉が渇く、息苦しい、全部全部全部、こんなに傍に居るのに一弥がまだ足りないと警報が鳴っている。

 欲の矛先であるところの、俺様の性器がさっきからみっともなくて、切ない。

「俺様、は、……したいぞ」

 恥ずかしいのを堪えて言うのに、

「うん、俺も、すごくしたいよ」

 一弥は羞恥心何処にも無いかのようにあっさりと言う。ちょびっとだけ、悔しい。

「触ってもいいのか?」

「……したい、ん、だろ?」

「したいよ」

「じゃあ……、いちいち訊くな、馬鹿者」

「いや、身体洗うのが先じゃなくていいのかなって……」

「そんなんっ……、後回しでいい、今は……、お前と、したい……、お前に触って欲しい……」

 白い膚は不便だと思う。葡萄色に上手に隠せていた俺様の含羞は全て白日の下に去らされ、電球の光の前で一弥には手に取るように判ってしまう。真ッ赤の俺様に気を遣うように「じゃあ、やっぱり此処じゃなくて布団行ってしような。その方がお前もいいだろ」と、大人が子供を扱うような言い方をする。俺様のほうが年上なのに。肉体のサイズの差が、一弥にとって好都合ならばそれでいい、俺様を抱き上げて再び布団まで運ぶことも、上手に後ろから抱き締めることも、何もかも一弥のしたいように出来るのならば、それでいい。

「……俺、同性愛者のつもりは本当になかったんだけどな」

 濡れた靴下を足だけで脱ぎながら、一弥はほんの少し困ったように言い出した。

「今は、何だろ、本当に……、な。おかしいな。お前が好きで好きで……、いや、好きなのは元からだったんだけど、何だかそれがさ、性欲と繋がっちゃって、ちょっと、やばい感じかもしれない」

「俺様だって同性愛者なんかじゃなかったぞ」

 唇を尖らせて、俺様は抗弁する。

「ただ俺様の傍にはビス子と久一しか居なかったし、俺様が甘味を零して廻る先は年寄りかガキどもばっかりだったからな、……初めて俺様のことを呼んだ若い男がお前で、……その、何だ、お前を俺様は、救ってやりたいと思ったから」

 恥ずかしいことになりそうだったので「んなことはどうでもいいんだ」とぶっつり俺様は言葉を切った。

「お前の身体の隅から隅までさ、男の、男の子のものなんだけど、……すごく、どきどきするな」

「だから……、変態なんだ、お前は」

 その両目で俺様を縛り付ける罪。

「責任取るよ。責任取って、お前を幸せにするよ」

「朝も聞いたわ」

「何度だって言いたい。こんな風なこと言える瞬間が自分に来るなんて思ってなかったから」

 少し緊張気味の声になって、

「触るよ」

 俺様はただこっくりと、頷いた。

 一弥の右手の指が、脱力して全てを一弥に委ねる俺様の肉体の輪郭をなぞる。頬、鼻、唇と辿って、俺様が少し噛んでやったら小さく笑って、顎の下、猫にするみたいに撫ぜる。首を経て、其処から少し下られると、俺様のやたらに高鳴っている心臓がまる判りになって、……そこから更に下がるのかと思ったら、一弥の指は俺様の乳首に触れた。

 びく、と腰が、知らず、跳ねる。

「ど、こ……、触ってんだ」

「ん……、お前のおっぱい、綺麗だなって思って」

 男のガキのおっぱいだ。綺麗も汚いも無い場所だろう。そりゃ確かにちんちんに比べりゃ綺麗かもしれないけど、などと、考えを巡らせるものの、実際そこは淡いピンク色の乳輪に粒とも呼べないような乳首がついているだけの場所で。

 ビス子のおっぱいは綺麗だ。そんなこと、本人には言わなかったけれど。つい昨日前の俺様の膚は紫色で、だからここだってそういう色で、エイリアンのごときもの。

 しかし、

「昨日も……、ちょっと、さ。ここ、甘いんだろうなって、思った」

 一弥はそんな事を言って、くるりくるり、ぷっつりと粒状に突起した俺様の乳首を指先で、なぞる。

「……ば……、馬鹿……、んなとこっ、あんま……、弄るな……」

 俺様は、我慢強いつもり。一弥よりも我慢強いつもり。だって、二十七歳もういい大人。

 なのに。

 変になる、これだけのことで、変になる。腰の辺りまで微弱な電流がじりじりと伝い、俺様の両足の間の何も無いところあたりが、むずかる。

「……ぶどうは此処が気持ちいいんだ?」

 一弥の指は、ひたすらに優しい。優しく、優しく、俺様の両の乳首を指先で捏ね回し、潰し、ほんの少しだけ抓り、詫びるように撫ぜる。左右からぐるり後ろに回りこんでクロスして俺様の下肢から理性を奪っていく電流に蹂躙されて、俺様の口からは止め処なく、普段とは全く違う声が零れ出してしまう。

「かず、……っ、一弥ぁ……、俺様っ……、変っ、なる……!」

 溜まらず上げた声で、ようやく手が止まった。しかしその手は真っ直ぐに、俺様の性器に触れる。

「……うん、変になっていいよ。ぶどうが変になっても、俺はぶどうのこと大好きだから」

 ほんの少し握って動かされただけで、くちゅっと音がした。恐る恐る見れば、俺様の性器の先端は、夕べよりも多い量の腺液に濡れている。一弥がそっと、俺様の性器を護る皮を下方向へ剥き下ろす。

「いっ……」

「ここまでか。……まあ、まだ子供なら仕方ないか」

「こっ、子供じゃないっ……!」

 解かってると言うように一弥は俺の髪にキスをするが、多分何も解かってない。

「大丈夫だよ、ちゃんと、いかせてあげるから」

 言って、一弥の指がしっかりと俺様の性器を握り込む。握るという表現が的確でないほどの大きさでしかないのは癪だが仕方が無い。

 温かい、と弛緩した次の瞬間に、俺様の胎の底、どくん、何かが弾けて。

 俺様は思わず、一弥の手を止めていた。

「ぶどう?」

 ほとんど、反射的に。

「……どうした?」

「怖い」

 搾り出した声が、かすかに震える。

「怖い? ……怖いって……」

「……精子……、出すの、こわい……」

 言って、俺様は気付く。そうだ、と。つい昨日まで俺様が、どういう身体をしていたか。たまにビス子に、触れさせることこそあっても、其れは本当にぎりぎり「接触」という言葉がカヴァできる範疇でしかなくて。

 昨日まで、俺様は射精すれば死んでしまう生き物だったのだ。

 今は違うと、判っていても。

「夕べは、いったときに気ぃ失ってたな」

 一弥は、小さく笑って性器から手を離す。そして両腕でぎゅうと俺様の身体を抱き締める。背中から届くのは、一弥の興奮を伴うはずの心臓が、それでもとくんとくん、優しく響いている音。

「ひょっとして、……いくの、初めてだった?」

 事情を知らない一弥は、そんな風に訊く。俺様がただこっくりと頷いたら、「大丈夫だよ」と、俺様の、もう尖っていない耳に言葉を挿し込む。

「怖くない。俺がさ、ちゃんと、気持ちよくしてあげるんだ。どんな風になっても俺はお前のこと、ぎゅって、しててあげるから」

 怖くない、一弥が言う。

 力を失い、命も失った俺に出来るのは、この男の言葉を信じることばかりのような気がした。こく、と頷いた俺に、しっかりと左の腕の温かさを伝えながら、右手が再び性器に絡みつく。

 粘液の立てる音が、どうしようもなく卑猥に響く。俺様は左手で一弥の左手首を掴み、右手は一弥の右足のジーンズの太腿に爪を立てる。ただその力すらも抜けそうなほどの、……快感が、脳を震わせる。

「一弥……っ、んあンっ、……あ……う、うぁっ……」

 気持ちいい? 一弥が訊く。

「もちぃっ……、ちんちんっ、すごい……っ、きもちぃっ……! もう……! もうっ、なんか、っ、何か出るっ……!」

 いいよ、出して。

 一弥の言葉に俺が抗う術は何もなかった。鼓動が弾けるように、俺の首元まで募ったもどかしい快感が、その場所で炸裂する。

 一弥の掌の中で、俺様の性器がのたうつ。

「う、ア! あっ……、あ! ……あ……、あ……」

 ぎゅっと、目を閉じていた。津波の如き快感が徐々に遠退いて行って、俺様は押し流されまいと、必死で両足を踏ん張っていたような気がする。ただ力が抜けて、……流される……、そんな風に思った瞬間、俺様は俺様の身体をさほど太くなくとも頼もしくしっかりと抱き締める、一弥の腕の温かさを意識していた。

 そろりそろり、目を、開いた。

「……あ、う……、う?」

 俺様の下ッ腹のあたりには、夕べ一弥が出したものと同じ色をした、ゼラチン質の生温かい液体が散り、どろりと膚を伝う。

「大丈夫か?」

 訊かれても、まだ何とも答えようがない。大丈夫なのかどうなのか、自分でもよく判らないのだ。ただ確かなのは全身がふわついて、気だるく、しばらくは何にもしたくないということ、そして俺様が確かに一弥の傍に今居て、もう、射精で死ぬようなことがないということばかりだ。

 一弥は俺様のことを、長いこと抱き締めていた。液体の粘り気がなくなり、とろとろと腹から足の伝い流れるようになっても、構わずに抱き締めていた。

「うあ」

 陶然とした心地よさに危うく眠りに落ちかけた自分に気付く。ダメだ、と身を叱咤して、「一弥」、拭いて、と言うより先に、「もう大丈夫か?」と訊いてくる。

「う、う……、だい、じょぶだ、俺様、大丈夫」

「そっか、……いっぱい出したな」

「垂れる……」

「ん、判ってる」

 そのまま、布団の上に横たえられた。

 ちんちんが、じんじんしてる。さっきまであれほど張り詰めていたのに、今はくったりと寝て、……一弥の指がないと皮も剥けない、一弥のとは正反対の印象のそれは、悔しいぐらい子供のものだ。

 と。

「にゃん!」

 一弥が、俺様の腹を舐めた。

「にゃっ、なっ、何してんだ馬鹿っ……!」

 ぐいと頭を押さえても、止めない。俺様の身に散った精液を、ティッシュで拭くかわりにその舌で、舐めとっていくのだ。

「止めろ、止めろよう……、もう、俺様のっ……、甘くないからぁ……!」

 だが、その言葉を待っていたかのように、一弥は顔を上げて。

 言うのだ、「甘いよ」と。

「お前の身体から出たもんだ、甘くないわけがないだろ」

 と。

 言いながら、俺様の手を取り、舌を絡める。

 激しい混乱の中に落とされた。俺様の身体は今、人間と同じ構造、人間の色をしている、皮膚表面が甘いなんてことは無いはずだ、この身体のどこを舐めたって、一弥が自分の膚を舐めるのと同じ味しかしないはずなのに、「ここも、甘い」と俺様のおっぱいを吸う一弥は、ぼうっと熱い身体をして、俺様の隅から隅までを、本当に舐め溶かしてしまう勢いで。

 つい今しがたまで収まっていた俺様の陰茎が、また俺様の管理の及ばぬほど硬くなる。一弥はふっと小さく笑って、そこも、舐めた。

「……あ、う……」

 言いたいことは山ほどあるはずなのに、言葉が見付からなくて、俺様はもう泣きそうだ。こういうときに人間がどういうことをするかぐらい、賢い俺様は知っている。例えば男同士なら、どういう風にするかということまで、俺様はちゃんと知っている。

 知らなければよかった……!

 昔、大昔、ビス子が眠る俺様のズボンを脱がして、尻の穴を覗き込んで「ここにちんこなんて入んねーよ」と呟いていたことがあった。俺様としては恥ずかしさを堪えるために寝たふりを続けるほかなかったが、あるいは処女を捨てることが死を意味するビス子は、俺様を逝かせても俺様と繋がる方法を画策していたのかもしれぬ、ってか人の穴じゃなくて自分の見りゃいいだろ!

「……お前も……、いきたい、の、か?」

「ん……?」

 一弥は、少し痛いような顔をして訊き返す。

「……俺は、まあ、自分の手でもいけるし、もしお前がしてくれるんなら、夕べみたいにしてもらえるとすごく、嬉しいな」

 俺様が何か言うより先に、俺様にとって楽な答えを簡単に出してみせる。

 自分よりも年下のやつに、そんな風に気を使われるのは少し悔しい。

 ので、

「俺様のお尻の中にちんちん入れろよ」

 思い切って俺様は言った。

「ぎゅうって……、お前がしてくれたみたいに、俺様もお前のちんちんぎゅうってしてやるぞ。……甘いんだろ、俺様の身体は。お前のちんちんまで甘くしてやる! 俺様の身体の砂糖壷の中にのあ!」

「無茶なことを言うなあ……、お前は」

 一口に俺様のペニスを含んで言葉を止めてから、顔を上げる。

「入るわけないだろ、痛いに決まってる」

「んっ、でもっ……、俺様痛いの平気だ! お前のが中途半端なので気持ちよくなるほうが痛ふにゃ!」

 人の言葉を止めるためにちんちん咥えるのやめろ!

「俺は、大丈夫。お前にそんなしんどい思いさせなくても十分すぎるくらいの幸せに届いてるんだから」

 次にまた咥えられては困るから、俺様はぐいと起き上がって、尻を引いた。

 迷いはある。

 躊躇いもある。

 ……そりゃ俺様だって痛いのは、……大人だから平気なつもりもあるけど、ちょっと、そりゃ、うん、怖いなって、白状すればそういう気持ちだって、あるにはある。

 だけど。

「大丈夫なんて言うな!」

 振り払って、俺様は言った。不必要なぐらいに、真ッ直ぐに。

「『大丈夫』なんて自重するお前じゃ、俺様が大丈夫じゃない!」

 ここまで言って、今更止められるものか……、

「俺様は……っ、……お前のちんちん俺様のお尻に……、入れてくれたら、嬉しい、ぞ。すごく、すごくすごく嬉しいぞ。だから……っ」

 俺様は、

「俺様のこと、ちゃんと愛せ。俺様、ちゃんとお前のこと、受け止めてみせるから……」

 言った。

「……お前は……」

 一弥が右手で額を掻いて、溜め息を吐く。「困ったなあ……、困った子だなあ……」と、途方に暮れたような声を出す。

 諦めてしまったのか、俺様が懸念した一瞬を挟んで、

「四つん這いになって」

 と、一弥は言った。言われるまでもなくそうした俺様の尻に掌を乗せて、

「そりゃ……、さ、判ってる、男同士でどうやってするかぐらい。だけど……、こんな小さな身体で、無理だろって……」

 ぼそぼそ、言い訳をする。

「……ゴムだって一応さ、買ったけどさ、どうせ、使うことないだろうって……」

「んあ、ちょっと待て、買ったのかよ!」

「だって……、なあ、一応……、なあ?」

「地味に準備してんなよ馬鹿者!」

「そりゃあ……、するだけはするよ、俺だって……」

 お前に入れられたら、すごく幸せだから、……俺様が聞いて嬉しい言葉は「ひァん!」、俺様自身の言葉でかき消されてしまった。

「痛かったら、すぐやめるし、……やめられるんだからな、だから、絶対無理なんかするんじゃないよ」

 一弥の指が、俺様の肛門の廻りを緩やかに這う。俺様は、一弥の髪の匂いが染み付いた枕に顔を押し付けて視界を塞ぐ。ぶっちゃけて言えば、すげーすげー恥ずかしい。だって、お尻の穴だ、ビス子にだってあんま見られたことのない、っていうかビス子のだって見たことがないし別に見ないままでいいような場所、一弥がじろじろ見ているのだ、致死レヴェルの羞恥心が、俺様の脳を紅く染めてしまう。

 はっ……、と一弥の息が近付いた気がした。

「んィ……い……っ」

 遅れて、何だか生温い塊が押し当てられる。……一弥の舌だと思えば破裂しそうなのだ、だから、何か違うものを一生懸命想像しようとして、しようとして、しようとして、結局何にも出来ないまま俺様は、

「あ……、うぅ……、ン……、ンっ……ん! んはァあ……」

 鳴く、非力な子供の身体になってしまう。風呂に入ってからにしなかったことを、心底から後悔しながら。

 一弥は―これは左手のひとさし指だろうか―時折俺様のちんちんを弄る。先端から、俺様の知らないうちにまた溢れてきてしまう蜜状の液を、普段は皮で厳重にガードしている先端部分に塗りつけるように広げる。くらくらするような心地よさに俺様が括約筋をぎゅうっと締めてしまうのを、慰めるように、生温い、アレだ、あの、舌じゃないけど舌みたいな、ぬるぬるでもって、あの場所を舐める、いや、辿る。

「力抜いて」

 左手とぬるぬるが離れて、代わりに再び指があてがわれる。俺様の身体の一番真ン中、内と外との境界線、越えて、

「う……ああ……あはあァあっ……!」

 一弥の指が、入ってくる。

 熱感を伴う痛みがまず突き抜け、遅れて感覚の麻痺が襲い来る。括約筋、一度ぐいと締め付けたせいで、

「ぶどう……、痛いか?」

 一弥が心配する。

「い、ぃ……っ、平気……!」

 痛いと言えば、痛くなってしまう。

 それ以上に熱いと感じていればいい……。

 一弥の指はそう太くもないはずなのに、俺様の中でほんの少し動くたびに、じりじりと俺様の肛路を焼くようだ。それでも、時折一弥がその指に唾液を伝わせて滑りがよくなるに連れて、俺様自身はっきりと、俺様の眉間の皺が少し浅くなるのを感じる。一弥は再び左手で俺様の性器をゆるゆると扱き、拡張と快感、繋がるはずもない二つの要素を、繋げて行く。

 ずるり、指が、抜かれた。

 知らず、強く握っていたシーツから、そっと力を緩める。

「お前……、さ、かずや……」

 額はまだ、枕に押し付けたまま。

「こういうこと……、アレだよな、初めて、なんだよな……?」

「……知ってるだろ、言われたじゃないかお前に、『童貞』だって」

「ん……」

 とても、贅沢な気分になるのだ。

 痛くないと言えば嘘になる、しかし嘘に出来るぐらいには、こいつは丁寧に俺様のことを解してくれた。

 こんなにも心優しい男に触れてもらえる喜びを、俺様は独占する。そして、……誰にも渡したりなどするものか。

 二本目の指も、俺様が「上手に受け入れた」と言うよりは、一弥が上手に忍ばせた。時折どうしても俺様は痛みの混じった声を上げてはしまうけれど、それが「時折」で済むぐらいにはスムーズに。ただ、

「んっ、そ、こっ……!」

「……ん?」

 一箇所、指をぐいと曲げられると、おかしくなりそうな場所があって。

「そこ……、やだ、やだぁ……っ!」

 俺様は、自分でも余裕が全くないと判別出来る声を出してしまった。腹の底からちんちんの先までが一本の糸で繋がっているとして、……一弥の指がその場所を刺激するたびに、それが切れそうになってしまう場所があるのだ。

「……ここのことか?」

 訊きながら、一弥がくいと中で、押す。

「ひぎゅっ……!」

 其処。

 白状すれば……、

「や、だ、っ、そっ、れ、以上、すんなっばかっ……、おしっこ、おしっこ出るっ……!」

 ……ということで。

「え? ……おっ……」

 糸が切れたのだ。

 少し、……ほんの、少しだけ、ほんの、ちょびっとだけ。シーツに……、ほんのちょびっとだけ零れた……、それだけだ。

「ああ……、ごめん、ごめんな」

 一弥が慰めるように尻を撫ぜるが、俺様は消えてしまいたいような欲に駆られて枕に顔を埋めるぐらいしか出来ない。……大人なのに俺様大人なのに一弥よりも大人なのに、おしっこ漏らした……、漏らしたんじゃないっ、ほんのちょびっとだけ……!

「痛いところだったんだな、ごめんな。……なあ、やっぱり無理だよ、お前の身体、しんどくなったりしたら」

「しんどくなんかないっ」

 恥ずかしがってなんかいないしやけくそでもないしっ、

「俺様はっ……、しんどくなんかないっ、お前のちんちんぐらい入ったって壊れないしっ、……全ッ然へいきだ!」

「でも、おしっこ漏らすくらいなら……」

「もらしたんじゃないもんっ」

 一弥が、黙りこくって。

 その指を抜かないで、抜かないで、抜かないで、……俺様の願いとは裏腹に、一弥が指を抜いた。

「かず……、や……」

 力が抜けて、ころん、俺様は横に倒れる。

「……全くもう……、お前は、なあ……」

 一弥は困りきったように言う。何でこんなことで泣きそうになんなきゃいけないんだと、空廻る自分の感情、持て余して、……どうにかして欲しくて、一弥を見上げた。

「我慢するつもりだったんだ。お前が痛がって、嫌がったら、諦めるだろうって……、我慢するつもりだったのに」

 ジーンズの、ベルトを外す音。

 社会の窓が降りる、音。

 下着から取り出された一弥の性器が、腫れたように、苦しそうに、勃起している。傍らに放られたままの鞄の中から取り出された箱の中から、薄っぺたい小袋を引っ張って、歯で包みを千切る。「……あんま見るなよ」と、ほんの少し目元の紅い一弥が言った。

「かずや……」

「もう……、俺が、我慢出来ないから」

 薄ピンク色のゴム膜を、彼が自分の性器に被せるのを、呆然と見ていた。俺様が濡らしてしまったシーツを引き剥がし、敷布団の上に俺様を直接仰向けに横たえると、軽々と俺様の足を持ち上げる。

「入れるぞ、……ぶどう……、力、抜いてろよ。絶対に無理なんかするんじゃないぞ」

 頷いたかどうか、記憶にない。ただ、痛いと思ったって絶対に無理してやると、支離滅裂だが雄々しいと自分でも思う決意だけを、胎の底に俺様は固めて。

 一弥が、

「んぐ……っ、ぅ……う……っ」

 入ってくる。

 指二本とは比べ物にならないほどの圧迫感に、息が止まりそうになる。ずくん、ずくん、ずくん、体中が脈打つような感覚に襲われるが、その鼓動がそもそも俺様のものなのかそれとも一弥のものなのかさえ、判然としない。昨日の夜口に入れたものがこれほどまで大きかったのかどうか判らないままに、ただ俺様はその熱く硬い塊を、身体の芯でがっちりと繋ぎ留めることが、俺様の意識とは無関係に出来ているのだった。

「う……ぅ、……っは……!」

 胎の底を押し広げられて、思わず喉を逸らす。一瞬気が遠くなって、慌てて掴み直したとき、俺様は一弥と一つになっていた。

「ぶどう……、ぶどう、大丈夫か……?」

 切なげに顔を歪めて、一弥が訊く。視線が震えている。俺様はみっともなく足を広げて呆然と一弥を見上げながら、確かに自分の肉体が、精神が、そもそもこの生命そのものが、一弥のために在るものなのだと、理屈を超えて理解する。

 しかし、まだ足りない。

 まだ。

「……ぶどう……?」

 無理に、唇を笑みの形にした。多分、泣いている顔にだって見えてしまうだろう。

 それでも、

「……かず、や」

 両腕を、俺は伸ばす。

「ぎゅっ、って……、しろ。俺様……、嬉しいぞ……。すごく、すっごく、……嬉しい。お前が、……俺様の中、入ってる、ひとつに……、なってる。……なあ、お前の、が、ぴくぴくして……、気持ちよく、ちゃんと、なってるって、判るから、……だから、おれさまの、ことも、ぎゅって、して、……俺様のこと、気持ちよく、しろ」

 俺様の願いは叶えられた。俺様はその両腕でぎゅっと包み込まれて、至上の幸福へと、一弥と一緒に沈んでゆく。

 一弥が理性を捨てて、それでも躊躇いながら、俺様を抱き揺らすたび、俺様は拡張と快楽と、……一弥と俺様とが、繋がって、一弥の性器が熱を持て余して震えることが、俺様の後孔に焦れるほどの悦びを齎す。俺様はこの男が好きだ、……大好きだと、苦しいくらい狂おしいくらい、思いながら声を上げる。

 一体何度キスをしたか判らない。ただ、何度目かのキスが、一弥の射精と重なって、刻まれるその鼓動、或いはそれよりも先に俺様は、とうの昔に幸福な射精をしていたのかもしれない。一弥に身を包まれて、彼が少し震えた声で「愛してる」と言うのを聞く俺様は、自分がこの世で最も幸せな人間であることが信じられるぐらい、足りないものが何一つない。

「う、あ!」

 それでも抜かれる瞬間、ちょびっとだけ、痛かったけど。

「ええと」

 頬の紅い一弥が、ぼさぼさになってしまった俺様の紅い髪を手串で整えながら、おそるおそる俺様の顔を覗き込んで、

「……ごめん、大丈夫ぶあ」

 今更のように訊いた。鼻を摘んでぐいぐいと、引っ張ってやった。

「い、痛かったならやっぱりもう」

「痛くなんかなかった」

「でも」

「痛くなんかなかったっつったら痛くなんかなかった! その、……俺様はっ、……お前が俺様の中でいったの、すげえ、嬉しかったからっ……、だからそれでいい!」

 どうしてこう、俺様はもっと素直になれないのかと思う。もっと素直でいい子なら……、「いい子」って二十七の男の自意識としてはどうかとも思うけれど、それでも一弥にとって居心地のいい男では居たいと思うので、だから、その。

「おあ!」

 一弥がぎゅう、ぎゅう、ぎゅう、俺様のことを抱き締めた。強い力、しかし決して痛くもなく、俺様にとって何よりも必要な力で。

「愛してる……」

 何処までも素直に一弥が言う。俺様は、頷くことも同じ科白を返すことも今は照れくさくて出来ないで、それでも一弥の背中に回した手で力一杯、抱き締め返すくらいのことは出来る。

「……だから、これからも、すんだからな」

 俺様は、

「これからも、……これからもずっと、一緒に居るんだ、だから……、こういうこともすんだからな。……俺様は……」

 思いに殉じた。

「お前の……、恋人だから」

 困るくらいに、キスがしたい、もっとしたい、一弥と、もっともっと一緒に居ることを感じたい。

 とりあえず今は一緒に風呂に入るのが幸せだろうか。身体の隅々まで洗ってもらう予定だ。でもって、俺様も一弥の身体の隅々まで洗ってやろうと思う、上手に、ぴかぴかにしてやろうと思う、ちんちんだって俺が。したら、きっと、「もう一回」はすぐそこにある。それを、俺様は……、楽しみにしている。

「……愛して、る、か、らな」

 一度だけ、ぼそぼそ、言ってやったら、一弥は初めて、ちょっと苦しいくらいの力を腕に篭めて、「もう一回……」と声を絞り出した。二度は言ってやらないつもりで、でも俺は、もう数え切れないくらいにその言葉を、一弥だけはきっと甘いと言ってくれるはずの舌で、紡ぎ続けていた。

 

 

 

 

 かくして俺様は砂糖菓子としては真ッ当に、つまりは程度の低い死に方をした。しかし人間としては真ッ当過ぎる在り方を、今している。甘味を喪い、力を喪い、紅い髪以外は何の特徴もない人間になってしまった俺様は、もう助けを求める誰かを癒してやることは出来ないだろう。俺様の耳の届かぬところで誰かが泣いていたとしても、知らないまま笑って過ごす日々が始まるのは、悲しく寂しいことかもしれない。仕事は終わったのだと思ったって、それはある種のエゴに過ぎぬこともまた認めよう。似た命は知る限りビス子しか居らず、俺様の殺した彼女がまた今俺様の眼の届くところで、歩を支えて懸命に生きているのを見、何より一弥が俺様の傍で日々明るく正しく生きているのを見れば、デメリットよりもメリットの方が大きかったようにも思えるが、見えない処に何があるかは判らない。俺様たちの代わりに久一が創り出した恐らくは複数の砂糖菓子たちが、日々この街の空を飛び、悲しみに暮れる誰かを癒して廻っているのだろうと考えても、一弥が出掛けた後、家事の後の暇潰しに見るニュースやワイドショーでは日々、見聞するだけで口の中が苦くなるような事件が起きている。子を殺す親、老人を騙したり虐待したりする若者、そして理不尽な苦しみに耐え兼ねて、身の中に生んだナイフをそのまま理不尽な傷を作り出すために振ってしまう者。聞くたびに切なくなって、俺様に力が在れば飛んでってお前がそんなことをするより先に癒してやったのにと思ってしまう。だがそれらももう、意味を持たない。何処までも身勝手に、俺様は一弥の幸福を願う人間だった。そして理不尽な刃が、もう一弥のことを傷つけぬようにと祈る人間だった。

 思うに人間はそれしか出来ない。非力な存在だ。元は砂糖菓子であっても、今は人間として人間の本領を生きるほかないのである。もう角も無い。砂糖菓子としての俺様は死んだのだから。

 この身の愛をどこかへ運ぶことはもう出来ないけれど、たった一人の相手に全力で捧げていく。そして、この世界から傷の減ることを、……そのために頑張ってもらえるようにと、我ながら手前勝手と思いながらも、久一に願う。人間に信仰心があるのは当然の事かもしれないが、俺様は久一を知っているので、その行為は少し切ない。

 ええと、あとはもう語るべきことはあまり無い。

 俺様はほんの少し背が伸びたが、まだ声代わりはしない。もともと十三歳の少年として生み出されたのだ、あと数年で実年齢は三十ということになるが、我ながら性格も含めて到底そんな大人ではないので、そこら辺りは甘えさせてもらうことにする。

 一弥は相変わらず、ドラッグストアのパート社員で働いている。実家とはもうほとんど絶縁状態で、電話や手紙の遣り取りも無い。ただ歩とだけ、月に何度か会って近況を報告しあうという関係が続いている。その時はもちろん俺様もビス子と会う。最近、なんだかますます乳がでかくなりやがった。俺様はまだそんなに身長も伸びないっていうのに、何とも憎らしいことではあるが、相変わらずあの弟は可愛らしい。一弥と俺様のような関係にあるのだとしたら、歩は幸せな少年である。

 手塚のばーちゃんはあの年の末に引っ越してしまった。そう、手塚のばーちゃんで思い出したが、一弥の心臓はきちんと病院に行って検査してもらった結果、懸念していたような危険な型の不整脈ではないとのことだった。放っておいても大きな害はないが、気になるようなら手術で治せるらしい。心臓の手術なんて言うものだから、一弥も俺様も胸をパカッと開くような恐ろしいものを想像してしまったのだが、実際には太腿から細い管を入れていって処置をする、だから全身麻酔も要らないというもので。一弥は手塚のばーちゃんに相談して、「あたしの元気なうちに受けちゃいなさい」との奨めに従って、手術を受けることにした。費用は必ずお返ししますと、散々渋るばーちゃんに借用書を渡して。

 手術の日には、歩とビス子も来た。俺様は何も心配要らないと思ってはいたけれど、後から聞いた話では手術の間中、顔が紙のようだったと言うことだ。そして六時間でペットボトルの水を三本空にして、二十九回おしっこに行った。数えるんじゃないそんなもの! 手術室から出てきた、少しくたびれた顔の一弥を見て、歩は泣いた。そして、俺様もやっぱり少し泣けた。しかしこれでもう一弥の心臓は、躓いたり転んだりする事は無い。

 手塚のばーちゃんはまだ元気である。一弥の心臓手術が無事終わったことを、本当に喜んでくれた。「あたしも頑張って百まで生きなきゃねえ」と言っていたが、なんだか本当に生きてくれそうなぐらい、バイタリティに溢れている様子は電話口の声からも伝わってくる。時々は会いたいと言ってくれるので、休みの日に二人で、彼女の家の近くまで遊びに行ったりもする。

 人間の日常を、俺様は一弥の傍で歩いている。俺様たちは相も変わらず愛も変わらず、誰かから見たら大変に鬱陶しい恋人同士の気がする。寧ろ近頃拍車がかかっている気がする。何せ二人暮し、子供の出来ることもないのであって、つまり冷静なる第三者、ツッコミが存在しないのである。もうこういうことは書きたくないのだが、……ただまだほんの少しばかり、俺様に与えられた紙幅に委ねて書くのだが、要するにだ、朝はいってらっしゃいのキスをするし帰ってくればおかえりなさいのキスをするし風呂は一緒に入るしもちろん同じ布団で寝るし休日何処にも行かないでくっついて居るだけで満足だし大層愛のあるもうここには書けないようなこともたくさんしている。経済的にはやはり余裕があるとは言いがたいが、それでもどうにかやれているし、心細さも感じない。何より互いが居ればいいのだ。俺様は一弥と結婚して側にいるわけではないが、俺様の命懸けの選択は、現状を見る限り間違っていなかった。喧嘩をしたことも一度や二度ではない。いや、百回したっていい。百回仲直りをすればいいんだもの。謝るのはいつも俺様だ。原因が俺様にあるからではなくて、俺様が折れてしまったほうが早いと思うから。……いや、正直に言うと、一弥に早くこっち向いて欲しいからだ。一人で寝るのは嫌だし。

 こんな日々、一弥は正直に「幸せだよ」と口にする。俺様に飽く事無くキスをして、キスをして、キスをして、「嬉しい」と。全くこいつは素直に過ぎる、余りに無邪気だ、お人良しめ、尊敬する。

 お世辞にも素直とは言いがたい俺様は素直には言わないぶん、ここに書くのだ。

 一弥が幸せだ。

 俺様も幸せである。

 世界もきっと、幸せである。


お戻り下さい。