12

 塒の寝床は低反発の枕も敷物も使っていない変哲のないものではあるが、さすがに神の作り給うたもの、どんなに疲れて潜り込んでも一晩ぐっすり休めばたちどころに元気になってしまう。厄介なのは余計な部分まで元気になってしまうことで、要するに年頃の男の場合「朝勃ち」をしてしまう訳だ。射精が生の終点と直結している砂糖菓子にとって夢精は最も怖れるべきものとも言えるが、幸い砂糖菓子の肉体は不変的、永続的、恒常的なものであって、外部からの刺激なしで劇的な現象を起こすことは無い。

 全身が感じたことの無い倦怠感に包まれているのに驚く。

 これを「死」と呼ぶのだろうか。

 いまだ肉の感覚を持って居るこの状況を?

 判らない、けれど、俺様は切断をイメージしていた。肉と魂を繋ぎとめる頚木の消滅、それによって、重力を失った魂が何処へでも浮遊して行き、しかし魂は左右出来る肉を失っているから、徹底的なまでに無力な存在となるのだ。

 だから、この身の押し潰されそうな倦怠感と疲労感に、俺様は驚いていた。圧し掛かる物の得体の知れない重さに、吐き気すら催す。要するにこれが重力というものだろうか。一弥の口によって射精した俺様は、砂糖菓子としてのアイデンティティを喪失し、空を飛ぶことも出来なくなって。それはつまり、あれだけ乗りこなしていた重力を全て敵に廻し。

 或いはこれは罰か。自らの職務を、欲望の赴くままに放棄した罰か。

 俺様を天使と呼ぶなら、つまり俺様は堕ちたということか。世界の底へ、次々降り積む重力に圧し掛かられて。

 だが、後悔は微塵も無いのだ。

 だって、俺様はやり遂げた。あの、甘い身体の奥底に在り、誰かに力を与えるための甘味を、俺様は一弥に捧げた。一弥はきっと、頑張れる。其れを何処からか、見ていられたら良いとは思うが、其処までの贅沢は言わない。一弥はきっと、俺様のことを裏切ったりはしないだろう。

 温かかった腕。

 ぎこちない動きではあったけれど、一弥は俺様を抱き締めた。心底からの温かさを、俺様に分け与えんとする、その力、癒さなければいけないはずの俺様が却って癒された。死を恐れる瞬間なんてほとんど無かった。尿道にこみ上げてくる逼迫した快感を、最後まで幸福のまま、俺様は味わっていたのだ。かくして俺様は死んだ。安らかな死に顔だったと思う。ひょっとしたら一滴ぐらい涙を零したかもしれないが、そのまま意識を手放して、束の間、何も考えず。

 しかし、この倦怠感には閉口する。体中、熱を帯びたように重苦しく腫れぼったい。首や背中や腰、足の裏からふくらはぎ太腿、手の指の先まで、重力の針金が縫い走る。暗い世界の底で、あとどれくらいこうして居ればいいのだろう? ひょっとして永遠? そうだ、考えてみれば死とは時間からも切り離された異空の事、終わりが来ることなど想定してはいけないのかもしれない。

 仕方がないさ。

 後悔はしていない、少しもしていない。疲れきった体を横たえながら、しかし俺様は充実しているし、爽快ですらある。ビス子が同じように、恐怖と無縁で横たわって居てくれることを望んでいた。

 光が走る。

 りん、と風が鳴る。

 熱に浮かされたような体を、走り抜ける。

 音が、膨張して、弾けた。俺様の、耳元、うわんうわんうわん、輪郭からはみだして、何の音かは判らない。ただその音の群れは、俺様の内部へ這い入り込んで、細胞と細胞の間に冷んやりと、滴を垂らして、俺様の理性を覚醒させる。

「……ぶどう」

 冷たい。

 冷たい……、冷たい。

「ぶどう」

 ―声が瞭然と輪郭を保ち始める―冷たい……、冷たい……。

 つめた……。

 つ。

 ……冷てえ!

「ぶどう、……大丈夫か……?」

 俺様の肉体は、俺様の意思の通りに動いた。全身錆びついたような肉体は、軋んで悲鳴を上げる。その痛みの、何とリアルなことか。俺様は攣った左足を抱えて暫し声を殺して悶絶、全身から汗が噴き出るような痛みと咽喉元で鳴る鼓動に。

 生きていることを知る。

「だい……、じょうぶ、か?」

 傍らに居るのは、濡れたタオルを持っておろおろしているのは、片倉一弥だ。

 寝癖のついた頭で、困惑し切っているのは。

 少しく寝不足気味の、しかし優しい顔をして。

「……か……っ、かずや……?」

「ぶどう……、その、大丈夫か?」

 ひく、ひく、しばらく言葉を発することも出来なかった。漸く足の異変が納まったと思って、そろそろと抱えていた腕を解く、俺様が見たものに、思わず掌を顔に持ってくる。

「……なんっ……」

 アイデンティティの何もかもを、俺様は失っていた。

 思わず、俺様は「ひ……っ」情けない声を上げる。

 尻尾は、なくなっていた。

 額に触れる、単角は跡形も無く。

 耳も、くるりと丸い。

 そして何より、……この掌、膚、足、何もかもが、最早どこから見たって、「ぶどうのおばけ」ではなくなっていた。

 鏡を見るのが怖い、怖い、怖い、だが俺様は眼さえ、真ッ当な色配置に変わってしまっている確信があった。

「大丈夫か?」

 俺様は夕べのまま、裸だった。一弥はシャツにトランクスだけ身に付けた格好で、俺様の横に膝を付くと、怯えきった俺様を、散々迷った挙句に、抱き締める。

「おっ、おっ、おれさまはっ……」

「……驚いたよ……、さっき起きてお前の顔見たら……」

「な、んっ……」

「……まるで、人間みたいだ……」

 幾枚も重なった驚愕に、俺様は戦慄する。白状すれば、泣きそうだ。震えて震えて、縋りつくための腕がそこにあったから、そのまま一弥にしがみ付く。どうして? どうして? 教えてくれ、教えてくれ、教えてくれ、……久一!

 一弥の手はしっかりと俺様のことを抱き締める。抱き締めて、子供をあやすように俺様の髪を撫ぜるのだ。何度も何度も、何度も何度も何度も。この男は俺様の震えが止まるまでそうする積りなのだと言うことが、何となく判る。そしてまた驚くのは、俺様はもうどんなに潜ろうとしても、一弥の思考を読むことが出来ないということ。そしてはっきりと自覚するのは、俺様は飛び方がもうまるで判らなくなっているということだ。まるで最初から飛べない生き物であったかのように。

 そして俺様は最後に知る。

「かず……、や……」

 これは、恐るべきことでも悲しむべきことでも何でもない。もちろん忌むべきようなことではない。ただほんの少し寂しいだけのことだと。

 やっとのことで震えを抑えて、俺様は言葉を搾り出す。手の甲を舐めてみて、やはり、と確信した。

「俺様は……、もう……、甘くない……」

「え……?」

「お前に……、もう、甘さを与えてやることは出来ない」

 一弥は首を傾げる、俺様が何を言っているのか、よく判っていないような顔で。

「……俺様はもう、砂糖菓子じゃないから……」

 俯いて俺様は言った。そうだ、これでは俺様はもう、人間だ。久一の処へは戻れない。苦しんでいる者を甘味で癒すことだって出来ない。

 「死」とは、砂糖菓子としての「死」。

 持っていた力の喪失。

 ……では、ビス子はどうなったんだろう、何処へ行ったのだろう?

「……いい、匂い、だぞ?」

 一弥は不意にそんなことを言って、また俺様を抱き締める。その体が苦いと感じられないのは、俺様も近い匂いになったからに違いない。そんな俺様にどんな意味があるのかと、問うより先に、一弥は俺様にキスをした。

「俺は、……まだ、頑張れる気がする」

「あ……?」

「お前がくれたもんを……、無駄には出来ないから」

 俺様の膚の眼の色が、変わった理由を知っているように、一弥は俺様に言う。

「俺は、……お前が、大好きなんだろうと、思う」

 一弥はちょっと苦しいぐらいに俺様を抱き締めて、声を少しく震わせて。

「お前が、俺のこと、好きで居てくれるっていうのが、……なあ? お前も俺も、男でさ、同性愛って、そういう自覚も全然無かったけど、でもさ……」

 間近に俺様の顔を捉えて。

「ぶどう、俺は、お前が……、嬉しい。苦しくなるぐらい嬉しい」

 一弥が捉えるように、俺様も捉える。

 それは明日になっても明後日になっても、空を飛べない人を癒せない俺様は何処にも行けないし、行かなくてもいいという、事実であり、真実である。つまり俺様はずっとここに居ていいのだ、居るしか、ないのだ。こんな俺様を連れて、実家になんて帰れるはずがないということは明らかだ。そればかりか、食い扶持が一つ増えるということは彼の生活を益々圧迫し、心臓の不安を解消する術はほとんど全て失ったといってもいい。

 何一つ、良い事なんかない。

 だが、彼は笑うのだ。泣きそうな顔して、俺様の頬を指でなぞって、笑うのだ。

「いいのか?」

 彼は問う。

「俺の処になんかいて、いいのか?」

 俺様はぷいと横を向いて、

「他に何処へ行ける」

 と憎まれ口を叩いた。「俺様は何もかんも喪ったんだ、空を飛ぶための翼も、帰る場所も、も……。いや……、喪ったのは俺様だけじゃねえか、お前だって」

「責任は取る」

「あん?」

「俺は、責任を取る。……つっても、貧乏で、部屋も狭くて申し訳ないし、……根拠なんか何処にも無いけど」

 一弥は、これまで俺様が見た一弥のどんな顔よりも、凛々しい表情を頬に漲らせて言い切る、「お前を、幸せにして見せる、必ず」。

 何処から生まれる力だ、訝る。

「俺は、負けないよ。家族にも、生活にも、負けない。お前が居てくれる、……もう、何にもしんどいとか苦いとか辛いとか、思わないよ」

 ああ、……俺様が与えた力だ。

「……馬鹿者」

 むぐむぐと俺様は言う、それがやっとだ。俺様も、……お前が、嬉しい。全身苦くても、苦しくっても、構わないくらいに、お前が……、嬉しい。不安が何一つ解消されたわけでなくても、俺様はこの倦怠感を抱えた身で、しかし妙に強い力が生まれ来るのを感じる。俺様が渾身の甘味を与えた一弥が側に居て、少々の苦しみならば打破できるような、出所不明の自信が芽吹く。

 

 しかし、こんな瑣末なことに揺らいでいいのだろうか。

「……ぶかぶかじゃないか、もっとベルトぎゅーっと……、ダメか」

 空を飛ぶ力、人の心を読む力を失った俺様は、はっきり言ってしまえば心細いのである。だがもちろん、はっきりそれを言うのは癪なのでもちろんしないのだけど、まあ一弥には大体、ばれている。

 俺様が現れたからといって彼は仕事を休むわけにも行かず、かといって俺様は一人留守番をするのも心許なく。ぶかぶかなのは仕方がない、一弥のシャツにハーフパンツを穿いて、ぎゅっとベルトを締めるのだけれど、どうにも妙な格好であることは否めない。久一が俺様に与えたデニムの上下は人間の普段着としては妙である。紅いままの髪の毛も解いたまま、……東京を歩く姿としては、おかしい。原宿か秋葉原あたりならば或いは、いやいや。

 一弥の後ろを、これまたぶかぶかの一弥の靴を履いてべこべこと音を立てて歩きながら、満員電車に乗る段になってますます心細くって、

「……ん?」

 プラットホームでこっそりと、その手を掴んだ。一弥は少し笑って、ぐりと俺様の頭を撫ぜる。ううううるさい別に、別に、別にッ、人ごみが怖いとかそういうっ。

 鮨詰め状態の満員電車というシチュエーションを、知らない訳ではない。ストレスが充満している空間、ビス子が対応していた人間の中には、日々の通勤というよりは痛勤に苦しむ者も多く居ただろう。けれど実際体験してみると、……何という、しんどい、場だろうか。一弥の腰にしっかりしがみつきながら、俺様は俺様よりも大きく、苦い匂いを発する人の群に圧倒され、翻弄され、ようやく目的の駅に着く頃には、へとへとに疲れきっていた。

「……ぶどう? 平気か?」

「う? ……うあ、ああ……、大丈夫だ」

「ずっと、空飛んで行き来してたんだろうしな。不便だろう」

 平気だと言っている、と強がりを言う元気も今は無くて、俺様は一弥と手を繋いだまま、こっくりと頷いた。

 駅前の商店街を、人間の視線で歩きながら、ついきょろきょろしてしまう。道すがら、一弥は「外国に嫁いだ親戚の子供ってことにしておこう」と俺様に言った。

「詳しく言ったって信じてもらえないだろうし、だけどこの時間帯にお前くらいの子供がフラフラしてちゃまずい。だから、気に食わないかもしれないけど」

 是非も無い。俺様は押しかけてきたのだから。

「……やっぱり、俺様が居ると迷惑か?」

 店の通用口で、俺様は訊いた。

「俺様みたいなのを連れてきたら、あの副店長とかに文句言われるんじゃないのか」

 一弥は、奥底に力を感じさせる微笑で首を振る。

「毎日だったらやばいだろうな。……お前も子供じゃないんだ、二十七歳の立派な大人なんだろ? だったら、明日からは一人で留守番出来るよな?」

 俺様は憮然と、……だけど素直にこっくり、頷くだけだ。一弥が二十四歳、俺様の方が三つも年上なのに、しかしこの体のおかしな比率のおかげで、まるで子供扱いだ。

 いい。それでもいい。だって、一緒にいたい。

 おはようございます、挨拶する一弥の後ろに隠れて、俺様が覗くのは、眼を丸くした副店長とパートの女性薬剤師で、お世辞にも上手とは言えない絵で膚の色も違うけれど、俺様が確かにあの描かれた「ぶどうのおばけ」だと言うことにはすぐ気付く。実はこれこれこういう事情で、ちょっと急なことで、ご迷惑をおかけしてしまうんですけどもよろしくお願いします、一弥はよどみない口調で嘘をついたが、

「名前は、……ええと」

 そこに至って初めて、一弥が俺様を見る。まさか「ぶどうのおばけ」とは言えないだろう。

「アル。……アルフレッド」

 俺様はぶつりと言った。「へえ」……、ごくごく小さな声で一弥が言ったのが聴こえた、へえって何だへえって! 悪かったなアルフレッドで!

 開店時刻は十時。慌しい中、離れているのはやっぱり心細いけれど、邪魔になるわけにも行かない。

「店の中、適当にうろうろして時間潰してろ。トイレ行きたくなったら、店の脇にある。休憩が一時くらいにあるから、その時に飯を食おうな」

 うるさい、子供扱いするんじゃないっ、言いかけたが、俺様はムッツリ黙って頷く。言われたとおり、既に何度か見下ろした店の中をうろつきながら棚の中を覗き込んだり、丁寧に描かれたPOPを読んだりして時間を潰す。

 俺様はすぐに一弥の描いたPOPとそれ以外のものを見分けることが出来るようになった。一弥のPOPは平仮名の「す」に特徴があって、あいつは方結びのような本来の「す」ではなくて、串に団子が刺さったような格好の「す」を描くのだ。そして、あいつの描くPOPが一番手が込んでいる。大小さまざまなものがあるけれど、仮令どんなに小さなものでも、一弥のPOPはくっきりはっきり商品名と価格、そしてちょっとしたキャッチコピーが書き込まれていて、少し離れたところからでも読みやすい。ふと店内を見回してみると、昼前の時間帯には老人の姿が多く見られる。古い町という土地柄だろう。つまり、長いことこの店で働いている彼は、老人の眼にも読みやすいPOPを心がけているに違いなかった。他のPOPの中には、色使いなどは一弥のものより綺麗であっても、読みづらいものがある。

 そんな中に、俺様の描かれたPOPを見付ける。棚の端っこに、幅を広げて並べられた新発売のビタミン剤、俺様はそこでその薬がいかに優れているかを語る係をしていた。ビタミンBがどうこう、パンテチンがどうこう。俺様のちっとも知らないことを得意げに語っている俺様を見て、何だか落ち着かないが悪い気はしない。そして、何とも切ないような気持ちが胸に込み上げてたまらなくなる。

 決して上手な絵ではない。

 しかし、どうにか俺様を描こうとして、あいつが描いた。

 十八年前の子供のように。

 レジで接客中の一弥をちらりと見る。疲れた白い顔に笑顔を浮かべて、働いている。今日を境に一つ増えた食い扶持、抱えた肉体の不安、先はまるで見えない。それでもあいつの底には、俺様の与えた力がある。そしてその力は、俺様の不安さえ拭い去る。

 俺様は一弥が好きなのだと、改めて知る。「ありがとうございました」とお客を送り出して、上げた顔、俺様と眼が合った。浮かべたその微笑は、客に向けられたものとはまるで違う。視線の重なったばつの悪さ、ほんの一日前に始まったばかりの俺様たちの関係の不慣れさぎこちなさ、ゆえにまだ硬さも取れないけれど、俺様はその笑顔に、鼓動のコントロールがまるで出来ない。俺様は彼に最高の甘味を与えた、それは翻訳すれば、彼に。

 俺様は慌てて目を逸らした。

 案外に退屈することなく、一弥の昼休憩の時間がやってきた。それまでに俺様は、生まれて初めて、人間用のトイレに行った。朝顔形の便器にちんちんを出してすればいいのだと判っては居たけれど、何だかちょっと自信がなくって、砂糖菓子時代同様の便器で、座ってした。まだ今ひとつ、人間とは言い辛い。

「ずっと立ちっぱなし、だったな」

「ん?」

「……仕事の間、ずっと」

「ああ、……まあ、お客さんの見てる前で座るわけにも行かないしな」

「身体は、……心臓は」

「うん、今日は今のところ大丈夫」

 昼飯は商店街をちょっと奥へ進んだところの牛丼屋だった。そもそも形のあるものをほとんど口にしないで生きてきた俺様であって、「何か食べたいものあるか?」と訊かれても答えようが無かったから何でもいい。カウンターに座ってすぐ出された牛丼を、一弥に倣って、俺様は鉛筆握りの箸で食べる。甘いようなしょっぱいような、でも、うん、タマネギはうまい。肉もうまい。米の飯も、案外美味いものだ。「食いきれなかったら無理しなくていいからな」と言われたけれど、俺様は気付けば一人で一杯平らげていた。さすがに腹がぱんぱんに膨れて、少し、苦しい。

「今日は早番だから、あと三時間だけだ。……店の中居るの退屈だったら、その辺見て廻ってきてもいいんだぞ?」

「いや……、いい、店に居る。別に退屈じゃない」

「なら、いいけど。……仕事上がったら、ちょっと寄り道して服を買いに行こうな」

「服?」

「うん、お前の服を。やっぱりサイズが合うのじゃないとな」

 金もないのに、と見上げた一弥の頬には、初々しい笑みが浮かんでいる。この男は、年上なのか年下なのか判然としない俺様という恋人を横に置いて、戸惑いながらも建設的に生活というものを意識し、乏しいはずの財布の中身を計算に入れつつ本気で俺様を養う気で居るのだ。

 俺様も本気で居ようと思う。俺様がこの男をそうしたのだ、俺様は全身全霊をかけて、まず側に居ることでこの男を微笑ませようと思う。あまり上手に出来る自信はないけれど、出来ることは一つずつでも見付けて。

 レジに入った一弥が、A4の紙を広げてPOPを描き始めた。色々な種類があるものだと風邪薬の箱、一つずつ裏面の表示をあらためている俺様の横顔を、時折数秒眺めてから、また眼を紙に戻す。ポケットから取り出すのは紫色のポスターカラーで、やはり「マスコットキャラクター」の「ぶどうのおばけ」のPOPを描いているんだろう。そんな一弥を、俺様を、品出しをする副店長がチラチラ見て、形容しがたい表情を浮かべる。モデルが居たことへの驚き、そしてその「少年」をモデルに一弥がPOPを描くということの意味に、考えを巡らせて、結局答えなど出るはずもない。

 完成したPOPをテープでコーティングして、一弥が今日入ったばかりの新商品に添える。胃薬だ。「牛丼食べ過ぎてもたれた胃にも」……うるさい、もたれてなんかいないったら。

「おや」

 聞き覚えのある声に振り向くと、小さな老女が立って居た。誰だっけ、と記憶を辿るまでも無く、すぐに思い出す。「ばーちゃん」

「今日は普通の色をしてるんだねえ」

 しゃっきりと背筋を伸ばしても、俺様より小さな彼女は、ちゃんと俺様のことを覚えていた。俺様はこんにちはと頭を下げる。

「ばーちゃん、買い物?」

「そうだよ。あたしはね、もうほとんど欠かさず毎日ね、この店に寄るのさ。一番のお得意様だよ」

 老婆の籠の中には、ラップと柿の種―この八十六歳の老婆は、今だに固焼きの煎餅だって平気に齧るのだ―が入っていた。

「いいことじゃん、運動にもなる」

「そうなんだ。自慢じゃないけどね、あたしは人一倍足腰が丈夫なんだ。ひょいひょい歩いてどこでも行っちまう」

 おばあちゃん、こんにちは。一弥が視線を彼女に合わせてお辞儀する。

「そうそ、今日はね、あんたにちょっと薬で訊きたいことがあってさ」

 提げた巾着袋の中から、薬瓶を取り出して、「これなんだけどね。近所の島田さんっていうおばあちゃんがね、おばあちゃんって言ってもあたしより三つも年下なんだけどさ、いっつも飲んでるもんなんだけど切れちゃったって言うもんだから」。一弥は屈んで、瓶の裏面を見る。

 一瞬、……多分、その一瞬を見抜くことが出来るのはこの世界に俺様しか居ない、ほんの些細、いや、そんな言葉よりももっと小さな単位の空白があって。

 俺様は、その左手が彼自身の胸に当てられるのを見る。

「いっつもは近所の薬局で買ってるそうなんだけどさ、同じ値段ならあんたのところで買ったほうがいいと思ってね」

 それは、どうもありがとうございます。微笑んで礼を言う一弥の頬が、少し強張っているのを俺様は、見る。

「かず……っ、に、ぃ、ちゃん」

 いい、と一弥は手で俺様を制止する。

「ええと、少々お待ち下さいね。只今お持ちいたしますので、……サイズはこちらと同じもので宜しいですか」

「一弥っ」

 一弥は背筋を伸ばしたまま、レジ中の薬棚に向かう。左手は、相変わらず胸に当てられている。そこを、ぎゅっと掴んで。暴れ回る鼓動よ治まれと言い聞かせる。

 青褪めた横顔。眼を強く閉じて開いて。

 俺様は店内を見回す。レジの中に居るもう一人のアルバイトは、別の客の応対をしているところで、一弥の異変にも気付かない。副店長は離れたところに居て、女性薬剤師は重たげなコンテナをキャスターに載せて品出しをしている、何れもこちらに背を向けている。

「お待たせいたしました、こちらですね」

 紙のような顔色に、それでも精一杯の微笑を浮かべて一弥は箱をレジに置く。

「二六五〇円のお品物なんですが、ご友人の方の仰ってたお値段とご一緒でしょうか」

 身を支えるためにか、左手をレジに乗せる。この際行儀なんてどうでもいい。

「ああ、うん、そうだね、……確か二千八百円ぐらいって言ってたから、それでいいわ。……ああ、そうだ、それからね、あの、いつものノンシュガーのお砂糖」

「ばーちゃん」

 一弥が俺様を見る、やめろ、と眼が言う。

 やめられるものか、やめられるなら、お前のために何もかも擲ったりしなかった。

「……ばーちゃん、ごめん、あのな、……こいつを、ちょっと休ませてやってくれないかな」

「ぶど……、アル、何を」

「こいつ、心臓悪いんだ。今、不整脈が出てんだ。ばーちゃんの欲しいもん、俺様が取ってきてやるから。ノンシュガーのお砂糖……、ノンシュガーの砂糖? 何だそれ」

「アルっ」

 手塚老人はぽかんと俺様と一弥を見比べる。

「あんた、心臓が悪いのかい?」

「そうなんだ、だから、……なあばーちゃん、ノンシュガーの砂糖って何?」

「ノンカロリーの、液体の、お砂糖ですよね。今すぐお持ちします、……アル、お前はいいから……」

「いいことあるか!」

「休んでなさい」

 手塚老人が、きっぱりと一弥に言った。

「心臓が悪いなんて、オオゴトじゃないか。レジ打つのなんて他の誰でもいいんだから、あんたは横になってなさい」

 語勢に、一弥が怯んだ。自分の職務と老人の奨め、天秤にかけるまでもないことだ。俯いて、「正面の奥のほう、左手の一番下の段に在るから、……頼む」俺様は走って、「ゼロシュガー」と描かれた―これにも一弥のPOPがついていた―ボトルを取って、戻ってきた。一弥は申し訳ございませんと泣きそうな声で言って、ようやくやってきたパート薬剤師に「あと頼みます」と頼む。

「あんたもついててやりな。……無理をさせたらいけないよ」

 手塚老人に言われて、俺様は素直にうんと頷く。一弥の身体は薄っすらと汗ばんでいて、しかしぞっとするほど冷たく、膚に触れるだけでその心音が俺様にまでダイレクトに届いてくるのだった。

 

 幸い、一弥の不整脈はすぐに治まった。

「いつも……、ちょっと休めば落ち着くんだから、大袈裟にしなくていいんだ」

「俺様にはお前の体の異変を大袈裟に捉えるだけの理由があるんだ」

 言ってしまってから、なんと無様な俺様だろうと思ったが、もう遅い。一弥は痛いように微笑むと、

「ごめん」

 素直に謝って、俺様の髪を撫ぜた。子供扱いも、まあ今は文句をつけないでおいてやろう。

「手塚さんのおばあちゃんは……?」

「大丈夫だ、あの薬剤師が応対して、さっき帰ってった。お前のこと心配してたぞ」

「……申し訳ないことをした。気持ち良くお買い物して頂きたかったのに」

「寧ろ感謝しとけよ」

 目の前の命の頼りないことに、俺様は咽喉がちくちく痛くなる。少しは顔色も戻ったとは言え、……俺様自身の心臓が縮こまってしまったかのように、俺様の動悸がなかなか治まらない。油断すれば、震えてしまいそうになる。

「……死ぬなよ」

 ガキみたいだ、思いながら、俺様は堪えきれずに言っていた。

「死ぬなよ……、俺様を置いて、勝手に死ぬんじゃないッ、……俺様はお前と、ずっとずっと、生きて、行くんだからな」

 ……泣いてら、……俺様ほんとに、ガキみてえ。

 だけど、止まらない。

「ぶどう」

 一弥が戸惑ったように、手を伸ばして俺様の頬に触れた。我ながら、情けないと思う。本当にみっともないと思う。しかし、思う、止めようの無い思いに触れていること。

 大好きな人が死んでしまうかもしれない。

 自分の指を舐めたって塩辛い人間の味がするばかり、甘いものが欲しいなどと俺様は痴れたことを思う。

「死なないよ、大丈夫だよ、ぶどう……、泣くなよ」

 俺様は笑っていればいい生き物だった。泣いている人間の前で「何泣いてんだバーカ」って、俺様ばかりは悲しみや痛みから切り離されて居ればいいはずだった。

 お前が死んだらどうしよう。

 お前が、死んでしまったら。

 この思いの持ち主を「恋人」と呼ぶなら、まだそんなのさ、ほんの僅かな時間しか重ねてない訳だ、それなのに、震えるほどの恐怖が俺様の身を包んで、一弥が何度俺様の髪を、優しく、優しく、撫ぜてくれても収まらない、止まらない。祈るという行為にしたって、その対象は久一しか居ない、久一にそんな能力がないことを知っている以上、虚しいことだ。

 子供のように、両手で擦る眼は、もう人間のものなのだ。

 唇の端から口に入る涙は、塩辛い。

「……俺は、死なないよ。お前が傍に来てくれたんだから、そう簡単に死ねるわけがないだろ」

 俺様を抱き締めるこの人がこの命が、心の底から俺様は、愛しかった。俺様の心臓を、この何の問題も抱えていないはずの心臓を、そのままお前の身体に移し替えてしまえたらいい。

 だって、死を覚悟してお前に抱かれた。

 お前が生きていてくれるなら、俺様は死んだっていい。今更お前を失う以外の何を俺様が怖れるだろう。

「全く……、あんな偉そうな口きいてたくせに」

 ぐしゅ、と俺様の洟を拭いて一弥は笑う。一体どういうからくりか、俺様にはよく判らないが、俺様が泣くとこいつの笑顔は更に凛々しくなるらしかった。今は疲れを忘れたような顔で、つい先ほどまで心臓がおかしかったくせに、俺様の顔を同じ高さで覗き込んで「泣き虫」と。

 うるさい、と言おうにも、聞き苦しい鼻声しか出せない自覚がある。ただ一弥は俺様が泣きやむまで、抱き締めているつもりらしいことは、心を読めなくなった俺様にも判るのだった。

 何とか、引き波のような涙の発作をやり過ごして呼吸を整える。一弥の肩をぐいと押したら、心配そうに俺様の顔を見る。何で俺様が心配されなきゃなんねんだ。

「……あんま擦るなよ」

 指で涙の跡を拭う。目の前の顔が、優しくて、苦しい。

「俺はお前を置いて死んだりしないから。責任取るって言ったろ? 色んなもん擲って俺の側に来てくれたお前に、嘘なんかつかない」

 人の心が読めない俺様に出来るのは、ただ其れを、信じるか信じないか選ぶことばかり。

「……ほんと、だな……?」

 眼の周り、薄紅い自覚がある俺様の右手を取って、小指を引っ張る。「約束だよ」と、一弥は小指を絡める。指は細いが、俺様よりも大きな手だった。

「お前がそれを認めてくれるなら……」

 一弥が俺様の心を指先で、

「……お前は俺の恋人だし、俺はお前の恋人だし……、だから俺には、約束を守らなければならない、……いや、……約束を守る権利を持ってる、俺だけが」

 鳴らす。

「不思議なんだ。今朝から……、まあ、不整脈は起きたけど、何か、ずっと俺、うきうきしてるんだよ。うきうきっていうか、……何か元気だ。理由はもう全部判ってる」

 顔も肌色になってしまったものだから、俺様は困る。

 この紅を隠すことが出来なくて、困る。

「お前が甘いのくれたから、……もちろん、それもある。だけど、それだけじゃないよ。甘くなくても、お前が……、側に居てくれる。ずっとずっと……、ガキの頃から会いたくって会いたくって仕方がなかったお前が俺の側に居てくれる……。それが嬉しくって嬉しくって仕方ないんだ」

 また、泣きそうになって、困る。

「……さあ、あんま長いこと休んでたら怒られちまうから、俺行くよ」

 立ち上がった一弥は、きっとそんな形容間違ってると誰かに指摘される。だけれど背筋は伸びてスマートで、そうだから俺様は呼ぶ「颯爽」と、俺様だけは、そう呼んでやっていい処に居るのだ。

 お前はここで待ってていいよと言われて。一人残されるのは嫌で、俺様も一緒に店に出た。泣いた跡は少しくらい残っていたかもしれない。それでもあと少しの時間、一弥の働いているところを見たいと思った。

 俺様の足元はなんだかふわついていた。血管が広がったり縮まったりを繰り返していて、上せそうになったり、あらゆる感覚が妙に鋭くなったり。ただぼんやり、相変わらず俺様の顔も耳までも真っ赤で、ぼうっと熱を帯びているのだということだけは自覚していた。

 一弥の仕事が終わるまでの一時間半と少し、俺様はずっとレジ近くの棚の前から、一弥の仕事ぶりを眺めていた。俺様のすぐ目の前の棚では、俺様が胃薬を奨めているのだった。


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